郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

与位の洞門② 洞門の歴史

2019-10-25 18:08:52 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
与位の洞門 ② 洞門の歴史
                 閲覧数1,260件(2009.11.5~2019.10.25)

 ▲岩に開けられたいくつもの四角い穴は何のためかわかりますか。

 与位の洞門の歴史を調べるうちに、様々なことがわかったので、少し長くなりますが、まとめてみました。

与位の洞門が語る与位から田井への近くて遠い道
 
 宍粟の景勝地「与位の洞門」。その美観の向こうには、山川に遮断された与位住民の外部へのあくなき道づくりの歴史が見えてくる。

 与位集落の最南部では、揖保川の北からの流れが、山裾に沿って東に蛇行しており、ひとたび川が増水すると、北部から押し寄せた大量の水が、まともに洞門にぶつかる。有史以前からの長い時間の中で、山裾は洗い流され、削り削られて、堅い岩だけが残り今の奇岩を作り出したのだろう。
 遠い昔から、豊かな山と水の都 与位に住み着いた人たちの守り神が与位神社であり、神社の創設は2世紀とも6世紀とも言われ、その歴史は古い。与位高尾には縄文遺跡が見つかっている。

 しかし、揖保川に囲まれたこの地は、外部への道だけは厳しかった。急峻な山を登らず、北回りに迂回をせず、水に浸らずに、最短距離、最短時間で、南隣りの田井集落や山崎方面へ行く方法はないか。そこで、考えたのが、岩に四角の穴をあけ、そこに角棒(腕木)を差し込み、その上に板を並べて通る仮設の桟橋(さんばし)であった。この桟橋は、人馬だけでなく、用水をも通していた。南の隣村の田井は、田畑に必要な灌漑用水が少なく、水の豊富な与位から、水を買っていたというのである。そのやりとりの古文書が山崎郷土研究者の調査により、明らかになっている。





 桟橋はあくまで仮設、洪水の度に使えなくなる。その間、狭い桟橋で犠牲者も少なからずあったのだろう。洪水のたび修復と復帰までの幾日もの孤立化は村人に多大な労苦と不便を強いて来たに違いない。洞門には、洪水の犠牲者を弔ったと思われる地蔵さんが祀ってある。

 明治36年頃になり、村人の道づくりの機運が高まるなか、日清戦争のあと、参戦した人から火薬の威力がわかり、火薬を活用し硬い岩を掘っていった。2年がかりでやっと人が通れるほどの穴を開けることができた。昭和初期には、荷馬車が通れるよう広げた。昭和43年に大型トラックが通れるよう広げられ、洞門内部はセメントで補強された。それが現在の洞門である。

 このように、与位、田井を結ぶ近くて遠い道は、岩の縁の仮設桟橋から始まり、手掘りの穴道に人馬を通し、近代の車道へと広がり、その時代の要請に応え、村落の発展に大きな役割を果たしてきた。

 そして、平成21年3月、与位住民の永年の悲願であった「よいたいトンネル」が開通し、この洞門が果たしてきた主要道としての役割に終止符が打たれた。

参考;「洞門の説明板」、「与位の洞門物語」志水出世著

▲昭和40年頃


一本松の妙見堂 (2) 解体前

2019-10-25 11:45:02 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
一本松の妙見堂 (2) 解体前

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▲平成3年(1991)1月  


▲平成3年2月
 

▲平成4年2月

 一本松頂上(篠の丸城跡主郭)にあった妙見堂 解体される前の懐かしい写真です。

 よくこの場所に登られていた I さんより投稿頂きました。










一本松の妙見堂 (1)(宍粟市山崎町)

2019-10-25 11:32:30 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
一本松の妙見堂

               閲覧数1,270 件(2009.10.30~2019.10.25)

         ▲妙見堂と庫裏


妙見堂(昭和12年に建立、昭和27年改築) 写真は、改築直後のもの。

 当時の一本松のお堂と庫裏の写真が出てきました。
「篠の丸公園道しるべ」では、知らなかった山の名や地名が出ています。


篠の丸公園道しるべ

※「播磨山崎篠の丸公園と妙見堂」(昭和32年10月1日発行)より 





もう一つの宍粟 ④ エピローグ

2019-10-25 10:16:10 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
もう一つの宍粟 ④ エピローグ
               閲覧数2,468 件(2011.3.33~2019.10.25)


◆篠津(しのつ)は山の崎を意味するアイヌ語から


▲山河にはアイヌの地名がびっしり


  篠津の地名の語源は、アイヌ語で“シンノッ”は山の崎であり、sir(地、山)+not(崎、あご)によって構成されたものとしている。あごのように突き出た山あいの土地という。宍粟市の山崎町の山崎の地名の由来も同じで、篠津と共通点がある。篠津村は明治29年に新篠津村に改称された。

 百年の月日により、ここに残された宍粟(しそう)の地名は、現地ではいつしか「すそう」と読みが変化している。


◆ 「くりかえす四季、寡黙な大地」美しい風景とエピローグの詩


 


 この新篠津村の百年史を読むにつけ、その文体から、篠津村を築き上げてきた村人の労苦とその暮らしの移り変わりを敬意の念を込めて暖かく見据えていることを感じます。
 一方で、「くりかえす四季 寡黙な大地」と題した見たこともない広々とした美しい石狩の写真の数々。これらの写真に収められた大自然は、人の営みなど我知らぬ顔で、黙したまま四季折々の表情を見せています。

 

 


◆百年史のエピローグに   ~大地と川と人の新しいドラマ~

 かつて篠津村の農民は泥炭地に苦しめられた。しかし今やその悪役の泥炭を逆手にとり、それを原料とするピートモスによって有機質の豊かな肥沃な土地に変えた。さらに村の高速堆肥工場は、クリーン農業のセンターとなり、クリーンでおいしい農産物を提供できる実り豊かな村となった。

 平成4年新篠津村は「活力あるまちづくり優良地方公共団体」として道内で村として初の自治大臣表彰を受けている。偉大なる田舎づくりに向けた大人から子どもまで全住民参加の村づくりが評価されたのである。

 村史の最終章に「大きな木の詩」があります。そのあとに「新篠津村がめざしているのは、住んでいてよかった、住んでみたいといわれるような、暮らしやすく、美しい環境の村である」と。

 鏡のような水田が美しい村新篠津村の未来への思いに共感を覚えます。

▼大きな木の詩


◆おわりに 北の国との深いお付き合いを

 「石狩平野 篠津原野への挑戦」(H17.8発行)の横井氏のむすびに「北の国との深いお付き合いを。宍粟とゆかりの深い土地が北海道にあるということは、私達の心を躍らせます。姉妹都市とまでいかなくても、旅の候補地としてお考えいただければと思います。」とあります。

 北海道の近世の歴史を、新篠津村をとおして垣間見ることができました。私も、北海道に宍粟の人たちが鍬を入れた新篠津村に行ってみたい思うのと同時に、さらにその歴史について一歩踏み込んで見てみたい気持ちにもさせられました。


参考:「新篠津村百年史」、「石狩平野 篠津原野への挑戦」横井時成・柳田弘・鎌田裕明共著、資料「北海道 新篠津村に至るまでの経緯」横井時成