郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 谷城跡(1)

2020-04-18 17:32:15 | 城跡巡り
【閲覧数】5,712(2014.1.16~2019.10.31)





 ▲谷城の全景 東方面から  




 市川は、兵庫県中部の朝来市生野町(あさごしいくのちょう)の三国山(標高855m)に源流を発し神崎郡域を南流し、姫路市飾磨区で播磨灘に注いでいる。

 古くからその市川沿いに街道が発達し生野街道または但馬街道と呼び播磨と但馬を結ぶ交通の要衝であった。その流域には多くの城跡・砦跡が残されている。それらは中世の室町期に赤松一族により播磨の北部の守りとして築城された。赤松氏は嘉吉の乱以降、播磨守護赤松氏の宿敵であった但馬守護山名氏との抗争の地となり、中世の末期には羽柴秀吉の侵攻により一掃され廃城となったという伝承に彩られた地域でもある。 
 
                   
 
谷城跡のこと 神崎郡市川町谷
 
   市川中流域にある神崎郡市川町の西部の鶴居、神崎・田中・谷・小室・千原・近平(ちから)の七大字に中世鎌倉期に「永良荘」があった。

   南北朝期から室町期にかけて、市川町域は播磨守護大名赤松氏の支配に属し、赤松則祐(円心)の孫(長男範資の子)則縄が永良荘を本拠として永良姓を称したという『赤松盛衰記』。

 永良氏が播磨北部国境の守りとして市川町谷の古城山(標高206m)とその北峰つづきの稲荷山城を築き、永禄(1558~70)のころ戦火により焼失、廃城となったと伝えている。
 



 ▲昭和22年(1947)の航空写真(国土交通省)    
    


 ▲昭和49年(1974)の航空写真(国土交通省)               
            


▲谷城跡見取り図
 


永良(ながら)氏のこと
 
  赤松範資(のりすけ)の子、則縄が始まりとする永良氏の出自や永良氏の城郭の伝承に関して、最近の研究報告によりいくつかの事実が明らかにされ、そこから従来の系図とはちがった見解が指摘される。

 市川の護聖寺の銅鐘が数奇な運命で発見された。その銅鐘の銘文から、見えてきたものがある。
 
1、 市川の護聖寺の銅鐘が三次市で発見
 
 永良荘に宝華山護聖寺(現在廃寺)にあった銅鐘が、広島県の三次市にある三勝寺に存在していることがわかった。この銅鐘に記された銘文から銅鐘の巡った経緯と関わった人物から永良氏との関連が推定できた。

 護聖寺は、永和2年(1376)、赤松則村(円心)の孫にあたる範資の子師範(もろのり)が創建したとされ、開山に雲渓支山を迎えている。雲渓支山はのち上郡の法雲寺、京都相国寺に務めている。『雲渓山禅師語録(建仁寺蔵)』 
 

2、『投贈和答等諸詩小序』にみる播磨の雲渓支山について 片岡秀樹氏の研究から
 
 高坂好氏によると出典は記されていないが、護聖寺は七条流の赤松範資の子、師範によって建てられたとされている。しかし寺の法要の記録から、開山の時は師範は29歳で一寺の開山としては若く無理があるとしている、そもそも『萬年山聯芳録』には雲渓が播磨の壇越(施主)の援助によって創建したという。赤松師範の道号は「雪渓」で、師範が師と仰ぐ雪村友梅と雲渓支山の名を併せたものという。

 播磨守護赤松則祐が、永良荘を永良孫三郎に安堵している『永良文書』。赤松の複数の系図には、範資の子則春、範綱、則綱らが挙げられているが、孫三郎はその誰に当たるかは不明である。しかし『萬年山聯芳録』には、雲渓が晩年に住した相国寺玉龍庵の後を継いだ啓宗の父は永良則春であるという。そこから孫三郎とは則春のことかも知れないとしている。
 

3、 熊本藩主細川氏に仕えていた永良氏
 
 永良氏が熊本藩主細川氏に代々仕え、現在も存続されていることが判明した。細川家の家臣団記録に「赤松摂津」とあり、系図では氏祖を赤松則春としている。
 

4、 永良氏の武家官位は「近江守」!?
 
 明徳3年(1392)『相国寺供養記』に赤松則春の受領名に「近江守」とあり、応永19年(1411)8月15日の『八幡社参記』にも、足利将軍の帯刀衆として供養した「赤松近江守満永」とあり、この地の最後の領主も「永良近江守雅親」とされている。これらの近江守の官位は永良氏が代々引き継いだものと考えられ、そうであるなら「赤松近江守則春」が永良氏初代とみられる。
 
 赤松円心の長男範資の子孫は赤松七条庶流家として、赤松光範が七条家惣領家となり、他には分家(在田・永良・本郷・広岡・葉山)があり、その多くが猶子※の関係をもったとされる。

 ※猶子(ゆうし):家督を受け継ぐ養子とは異なり、親戚や特別な関係の者と契約上の待遇をもたせた繋がりをいう。
 


   永良氏の系図 (考察)
 

市川護聖寺の銅鐘の移動経緯
 




   嘉吉の乱(1441)のあと、播磨は山名氏の管轄下にあり、護聖寺の寺領の返還を命ずる文書が残っており、その時点では護聖寺は存続していたことがわかっている。

 播磨から周防山口の志駄岸八幡宮に奉納されたのは長享元年(1487)8月で奉納した大内政弘は応仁の乱後の下国して11年後のことであり、山名氏と大内氏との関連は、応仁の乱で西軍の山名氏に対し大内氏は大援軍で組みしていることから、大内氏の下国の手土産としたのかも知れない。銅鐘の追記にある前永興周省とは永興寺(ようこうじ)の前の住職のことであって、また大内政弘の弟であるという。銅鐘は一旦は岩国の永興寺(延慶2年1309年に大内弘幸が創建した臨済宗の寺)にあった可能性もある。
 
 

 銅鐘と銘文
 

 
 
 最後に銅鐘は、備後(広島県三次市)の三吉氏の所有となっていた。三吉氏は戦国時代は備後の国人領主であり、初め大内氏に属するも、その後毛利氏と同盟・交戦を繰り返す。天文22年(1553)三吉隆亮は父致高とともに毛利元就・隆元に対して、忠勤の誓詞を出し以後兄弟として勤めている。徳川綱吉の頃(1680~1709)、広島の浅野支藩三次5万石の浅野長治が三次氏を召抱え、三吉氏の所有する銅鐘を三勝寺に下げ渡した。大内政弘よって志駄岸八幡宮に奉納された銅鐘が、どのような経緯で三次の三吉氏に渡ったかについては、不明である。
 

 

アクセス
 
  谷地区の南に城の案内板があり、そこを左に入ると大歳神社がある。神社前に駐車が可能。
 
 
 
▲谷城跡の案内板                        ▲登城口となる大歳神社 
 

 神社前の遊歩道イラストマップより

 


神社の階段を登ると、玉垣や神社の寄付名簿に永良姓が確認できる。
 
 

 
 ▲ここが登り口                 ▲境内の玉垣に永良姓が
 
 
 
 神社の左裏の案内に従い、少し登るとこの稲荷神社と奥の社にづづく石段がある。
 
 

 
▲さらに奥の社の鳥居と石段                    ▲奥の社の左裏の案内板                
 

 さらに奥の社をぬけ、登っていくと大きな堀切がある。いよいよ城域に入る。堀切を避けて登る大歳神社からの道は後世の道だろう。
 

 
 ▲登山路                            


▲大きな堀切
 


 明るくなった道の右上を見上げると石積みが見える。
 
 


▲本丸はもうすぐ                        


▲右上に石積
 

案内板を右に進むと、見晴らしのよい曲輪跡がある。
 

 
▲案内板 



 
▲最初の曲輪跡 東・南が一望できる
 


この上部が主郭(本丸)である。東西20m・南北40mある。本丸の東斜面は侵入がむずかしい崖状の急斜面となっている。城の向きは東であることは容易に理解できる。
 

 
▲この上が主郭(本丸)                    


▲本丸東の急斜面
 
 
▲南側からの主郭(本丸)                  



  
▲主郭(本丸)からの市川流域の展望
 


主郭(本丸)を下った北詰めには、やや大きな曲輪がある。
 



 ▲谷城跡の北詰めにある曲輪
 

西の谷には水の手がある。
 
 

 
 ▲井戸跡の案内板                      ▲井戸跡  西向きの沢でシダが多い
 

北側には三つの堀切があり、北尾根筋からの侵入を拒んでいる。尾根筋はハイキングコースとなり、横倉山観音堂へとつづく。
 


▲北側からみた谷城跡 三つの堀切と土塁がある


 
▲北の尾根筋にある案内板                 ▲尾根筋 
 


 北と南に厳重な堀切があるとすれば、大手道や居館跡等は西山麓にあるはずであるが、伐採の木々や地肌荒れ等により山上からでは確認できない。
 西山麓部分の探索を城郭仲間と数回重ねるうち、その大手道と思われる道を発見した。
 



 
▲西の山麓下の道              ▲竹やぶの下の石積みは?
                        

 ▲巨岩                          ▲西麓に流れる振子川   
 


▲地蔵堂の横に宝筺印塔や五輪塔が             
 


谷城の東西の山麓には多くの宝筺印塔や五輪塔が祀られているが、中世・戦国期にこの場所で戦いがあったことを示している。
 


周辺探索
 

 


▲沢の構(かまえ)跡と説明板
 


 沢の構跡には稲荷神社が祀られている。道路敷設工事のときに発掘調査されこの南周辺に居館跡と堀跡が確認された。
 


▲護生寺の裏手にある宝筺印塔・五輪塔(谷城の東山麓)
 ※護生寺は、護聖寺(廃寺)とは別ですが、同じ敷地内に江戸時代に建立されている。
 


▲天満宮(小室)
 


雑 感
 
 市川流域の城を探索し始めたのが数年前で、それ以来市川町、福崎町、神河町に行く機会が増えた。この周辺は個人的な興味で最初は一人で登城した。
 谷城跡に始めて登ったときは、きれいに整備され保存状態もよく、なによりも中世の典型的な山城跡だと感動を覚えた。その後は城郭仲間と共に何回か行く機会があった。何度行ってもたいくつしないのは、行くたびに何らかの発見もあるのだが、何かしら魅力にとりつかれているのだろうと思う。
 
 永良氏は赤松総領家に従った赤松一家衆の一つで、総領家の没落、再興の波に翻弄される運命をもったと理解している。残された城跡を探って、永良氏の中世の足跡を垣間見ることができればと思っている。
 
 

参考:「永良氏とその城郭」藤原孝三氏、『投贈和答等諸詩小序』にみる播磨の雲渓支山について」片岡秀樹氏、「角川日本地名大辞典」、「web 三勝寺の銅鐘 by 箕園」 http://leocorporation.web.fc2.com/goshouji-1.html  
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【関連】
・谷城(2)
・鶴居 稲荷山城

◆城郭一覧アドレス

 







播磨 姫路城をゆく その2

2020-04-18 10:49:44 | 名城をゆく


◇ 姫路城のビューポイントを探る ◇

 

 ▲① 三の丸公園から
 

 ▲②入城口前の右(南西)から
 

 ▲③城見台公園から 前方の木々が大きくなり少しみづらくなった感あり
 

 ▲④美術館越し
 

 ▲⑤城北の公園から
 

▲⑥男山山頂(67.7m)より
 

▲⑥男山山頂より ズーム
 



 姫路城天守を覆っていた素屋根や重機類がすべて解体・撤去され、平成27年3月27日グランドオープンを迎えた。5年の歳月をかけ平成の大改修を終えた姫路城は白亜の装いでまばゆく優美な姿を現した。

 桜の蕾が赤く色づき始めた3月下旬 オープンを待たず姫路を訪れ城の周りを一周し、城の見えるポイントを探してはカメラを向けた。



▽写真の位置図 上部が北

 
①は 三の丸広場
②は 入城口左上
③は 城見公園内(城見台)
④は 美術館庭周辺
⑤は 城北の公園内
⑥は 男山頂上(男山配水公園)途中に千姫ゆかりの千姫天満宮あり



播磨 姫路城をゆく その1

2020-04-18 09:56:36 | 名城をゆく
(2015.3.27~2019.10.27)


 姫路城グランドオープン(2015.3.27)の1週間後4月2日(木)雲ひとつない快晴。桜が一斉に開花し、純白の城に彩りを添えた。まずは天守行きの整理券をもらい、入城券を買ってじっくり城を探索と思いきや、天守にたどりつくのに1時間半を要した。しかしそれはほとんど苦にはならず、天下の名城を満喫する至福の時間を得ることができた。





 ▲パノラマ
 













 


 いまや国宝でもあり、世界文化遺産ともなった姫路城。この城が残された背景には数々の奇跡と人知があった。



姫路城のこと 兵庫県姫路市本町

 姫山に室町期の赤松則村(円心)の次男貞範が砦を築いたのが始まりといわれ、赤松氏の宿老小寺氏が守ってきた。戦国時代の永正16年(1519)小寺政隆が新たに御着城を築き、姫山の城は御着城の出城として息子則職が守り、さらに天文14年(1545)になり家老黒田重隆が入り、職隆、孝高(官兵衛)と城主を引き継いだといわれている。
 
   定説となっている城主だが、最近の研究では一次資料となる文献に姫路の城(構)が始めて出てくるのが永禄4年(1561)で黒田重隆・職隆父子が御着城の出城として築いたのが最初の姫路城ではないかと考えられている。
 
 


▲畠地売券『正明寺文書』



 


 羽柴秀吉が播磨を平定したあと、黒田官兵衛は秀吉に山陽道と飾磨津(港)の陸海の便に恵まれた姫路城を本拠にすることをすすめ譲り渡した。
 
 

▼秀吉時代の天守台の石組みと礎石 昭和30年代の姫路城の解体修理時発見



 秀吉は天正8年(1580)新しく築城にとりかかり三層四階の天守を築いた。池田輝政の築いた石垣の中には秀吉時代のものが本丸を中心に、備前丸・帯の櫓から二の丸あたりまで残り、秀吉の築いた城はかなり広いことがわかった。秀吉は、滅ぼした英賀の町民を姫路に移住させ、楽市を開くなど新しい町づくりを推し進めた。
 
 秀吉死後、慶長5年(1600)天下分け目の関が原の戦いに勝利した徳川家康は徳川方で活躍した池田輝政に播磨52万石の太守に任じた。姫路に入った輝政は家康の力添いも得て、翌年の慶長6年(1601)から城造りにとりかかった。姫山といいう小さな丘に渦状に郭を配置し、内堀・中堀そして町屋も取り囲んだ外堀をもつ惣構えの縄張りをしいた。外堀の総延長は実に11.5kmもの大工事に8年の歳月を費やした。五層七階の天守と小天守の連郭式城郭は、当時の城郭技術を結集した実戦対応と造形美を兼ね備えたものであった。

 輝政は慶長18年(1613年)に姫路にて急死し、長男の利隆が姫路城主になるが享年33歳でなくなり、長男の光政が跡を継ぐものの七歳で鳥取に移された。当時姫路城主の役割は、西国大名の監視の役目もあり、その業務をこなせる人物が必要であったため異動が頻繁であったという。

 元和3年(1617)本多忠政が入封し三の丸の高台に居館を造り、千姫(将軍徳川秀忠の娘、家康の孫)と長男忠刻の夫婦二人のために鷺山に西の丸、化粧櫓を築いた。
 
 

▼天守から見た西の丸

 


▼千姫の再現 千姫はここで十年を過ごす

 


 本多氏以後は家門や譜代大名が城主となった。幕末期の慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは城主の酒井忠淳は老中として旧幕府軍に属し、敗戦後徳川慶喜に従って江戸に逃れていたため、城主不在の姫路城は備前藩の攻撃を受けたが戦わず開城し戦火は免れた。
 
 廃藩後、飾磨県県庁が城内に置かれ、そのあと陸軍歩兵第10聯隊が駐屯。兵営建設のため三の丸の門・櫓・武蔵野御殿、向屋敷などが取り壊されている。
 
 

 ▼陸軍歩兵第10聯隊(明治初年古写真)


参考:角川日本地名大辞典、姫路 城物語(姫路市教委)他
 

 
~お堀と石垣~
 


 







船頭の軽快な櫓さばきで和船がゆうゆうと進む
 



 

雑 感
 
  姫路城には当時最高の建築技術によって建てられた天守閣とともに、それを守るための重要な防御策として敵の侵入を防ぐ様々なトリックや仕掛けが設けられた。この難攻不落の城造りにとりかかった人物は池田輝政だが、家康に見込まれ播磨の太守となり、家康に評価を得られる築城に取り組んだようだ。城と町割り、治水には膨大な資金調達が必要だが、その多くを農民や商人に様々な税の形で負担をしいている。

 以後城を受け継いだ大名たちは、天守や多くの城郭群の雨漏りや柱の腐食等々による修理に悩まされたという。

 時代は明治になり、明治政府の廃城令で多くの城が取り壊される中、寸でのところで破却を免れ、太平洋戦争末期の二度にわたる姫路空襲を免れ、昭和・平成の大修理で長期の修理期間と多額の資金を要したが城は守られた。



 古写真 1945.7.4-5の空爆後の写真