郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 春日山城跡  

2020-04-22 11:23:12 | 城跡巡り
【閲覧数】5,217 (2015.5.25~2019.10.31)

  
 
 
▲西側から見た飯盛山
 



▲北から見た飯盛山
 
 
 
春日山城のこと  兵庫県神崎郡福崎町八千草(やちくさ)
 
 春日山城は後藤基明が室町時代当初の建武年間(1334~1338)に飯盛山に築いたといわれている。後藤家は鎌倉幕府の代々の有力な御家人であり、鎌倉末期後藤基明は、赤松円心に従い倒幕と室町幕府の成立に活躍した。円心が播磨守護となり、後藤氏は春日山城を根拠に福崎、姫路北部、加西の一部を治めていた。

 赤松円心で始まった赤松惣領家は嘉吉の乱で滅び、赤松政則のとき再興することができた。しかし戦国時代に入り赤松家内部抗争や家臣浦上氏の台頭などにより、総領家が弱体化し、赤松一族の自立・離反の動きが表面化していった。その流れの中でも後藤氏は総領家と一定の繋がりを保っていた。

  織田信長の播磨進攻当初は播磨の武将の多くは信長に恭順する動きがあったが、天正5年(1577)加古川城での加古川評定を機に、三木城の別所氏を中心として御着城の小寺氏・長水城の宇野氏等は毛利と結び信長に反旗を翻した。このとき後藤氏は別所氏に組したようだ。播磨の伝承では、春日城落城は三木城合戦の始まってまもない天正6年(1578)5月、基信はこの城で戦い亡くなったと伝える。
 
 


  ※系図と説明 参考:web武家家伝、web落穂ひろいふーむ氏      




▲基信が備前長舟の刀工賀光に打たせた刀が伝わる
 
 
 
 
 ▲春日山城平面図 説明板より                  
 

 
後藤又兵衛のこと 

 
 
 後藤基次、通称又兵衛と呼ばれ、槍の名手として軍功を重ね「黒田二十四騎」、「黒田八虎」として知られている。

   出生地は、いくつかの伝承があり、『播磨鑑』には神東郡山田村(姫路市山田町)、『大日本史』に永禄3年(1560)加西郡山下村(加西市山下町)の記述ある。父は小寺政職に仕えていた後藤新左衛門(基国)の次男として生まれ、又兵衛が幼少のころ父が亡くなり、黒田官兵衛のもとで、養育される。官兵衛の子長政とは幼少のときから兄弟同様に育てられたという。
 
  天正6年(1578年)、黒田孝高が荒木村重によって有岡城に幽閉された際、黒田家家臣一同が織田信長への忠誠の誓紙の署名に又兵衛の母方の伯父・藤岡九兵衛が拒否したため又兵衛(16歳頃)共々一族追放となり、秀吉家臣仙石秀久に預けられた。その後、長政に呼び戻され、又兵衛24歳にして知行百石で官兵衛の家老栗山善助利安の与力となった。
 
 慶長11年(1606)又兵衛は長政との不仲により一族とともに黒田家を出奔する。長政は又兵衛に対し「奉公構」(他家への再仕官を禁じる回状、武士の刑罰の一つで切腹の次の重罪)を発し、又兵衛は仕官の道を閉ざされてしまい、浪人を余儀なくされた。慶長19~20年(1614~15)大坂の陣で、豊臣秀頼の旗頭として出陣。夏の陣にて孤軍奮闘するも多勢に無勢の中、討死した。ときに又兵衛56歳
 
 

 
アクセス
 

 中国自動車福崎インターを降り、少しばかり南東部に進むと端正な三角形をした飯盛山(標高198m)が見えてくる。飯盛山の南から東にかけて幾つかの大きな溜め池がある。

登山道は、
 
① 鍛冶屋公民館近くの西邦寺から登る道と

② 南のキャンプ場から登る道がある。
 


 
 
◆北からの登城


  ①の北からの登城には、鍛冶屋公民館の駐車場を利用する。左隣にある西邦寺の右端に登山口がある。
ここからでは、20分程で行ける。
 
 
 
▲鍛冶屋公民館の駐車場が利用できる               ▲西邦寺の右端に登山口がある
 


  
▲やや薄暗い山道を登ってゆく            ▲少し登ったところに案内表示があり右に進む
 


▲尾根筋と途中木々の間から北側が一望できた
 


 
▲頂上前の曲輪跡が見え始めた               




▲頂上の主郭跡 
 


          
▲頂上からの眺望  木々が邪魔をしてパノラマ撮影は無理である。
 


▲新しい表示板
 


 曲輪跡は北側と南側にそれぞれに数段あり、東側には草木が邪魔をしているが主郭をとりまく帯曲輪が見られる。北側からの道がいわゆる大手道で、南は搦め手で登山道として整備されている。
 
 

②の南の春日山キャンプ場からの登城 
 
 キャンプ場の中を通り抜けたあと、途中案内板があるので、右に進む。

 
 
▲キャンプ場の中を通り抜ける                          ▲登山道を登っていく          
 
 
  
▲案内板に従い右に進む                                      ▲階段が設置されている 
 

 
▲途中足場の悪いところも               ▲頂上手前
 
 

◇後藤氏ゆかりの地散策
 


 
▲余田大歳神社 城主基明から基信まで厚く祀られた 



▲嶺雲寺 城主後藤基阿が建立という    
           
 


雑 感
 

 後藤氏は鎌倉幕府の有力な御家人、播磨の安田庄(多可郡多可町)に地頭として入ってきたのが始まりで、赤松円心以降赤松幕下となり赤松総領家との結ぶつきは深い。赤松最後の当主則房が一貫して織田方の羽柴秀吉に従ったのに対し、後藤氏は最後の決断で主家との袂を分けたようだ。

 後藤家本家は春日山城落城とともに滅んだが、分家の後藤又兵衛の生き様は、江戸期に講談に語られ知名度は高かった。大坂の陣で亡くなるも、各地で生き延びたという伝説がここかしこに残されている。それは又兵衛人気の証なのだろう。
 又兵衛は官兵衛に仕え、官兵衛なき後長政に仕えるものの、出奔してしまった。それに対して長政は、奉公構という再仕官させないきびしい処置を下している。二人の間にいったい何があったというのだろうか。

  城跡探索を通じて、戦国の武将たちの足跡を辿る魅力にますます惹かれていく。点から線、線から面へと風雲定まらぬ戦国の時空への想いは、松尾芭蕉の奥の細道の冒頭「春立てる霞の空にかかりて白川の関越えんと・・」に似た心境になっている自分がいる。


【関連】
・南山田城跡 


◆城郭一覧アドレス

伯耆 米子城をゆく

2020-04-22 10:12:45 | 名城をゆく
(2019.3.24~2019.10.31)  


 

▲内膳丸より天守を望む
                       


▲天守台から見た大山 ややかすんでいた



 3月の下旬、米子市にある米子城跡に向かった。途中、中国自動車道米子道から中国山地の最高峰「大山(1729m)」を道すがら見るのも楽しみの一つであった。




米子城のこと     鳥取県米子市久米町
 

▲伯耆米子之城図 国立国会図書館蔵(江戸中期-後期)



 米子城は西伯耆(鳥取県の西部)に位置し、出雲(島根県)との県境に近接した米子市の中心地の湊山(みなとやま) (標高90m)に築かれた。城の別名は「湊山城」「久米城」。米子城は、泰山を中心に北の丸山、東の飯山(いいのやま)を城域としている。
城は中海に面し、城山の周囲に内堀を配し、さらに武家屋敷を置き外堀を巡らせている。
 


▲米子城の鳥瞰、内堀・外堀の位置 (「米子城跡 しおり」より)
内膳丸から出山付近は海であったが、現在は埋め立てられ泰山公園と駐車場になっている。
 

 かつて湊山頂上には大天守(四層五重)と小天守(四重櫓)が並立していた。江戸時代初頭「一国一城令」が発布されたが、例外的に存続を許され、明治まで存続した。
 今は、天守等の建物はないが、天守を取り巻く堅牢な石塁や礎石が残され、昔日の勇姿が偲ばれる。登城の所要時間は15分程度。城の周辺は市民の公園・ハイキングコースとして親しまれている。駐車場周辺では桜まつりの準備がされていた。



米子城の歴史と城主

 応仁元年(1467)に、山名教之(のりゆき)の家臣山名宗之(宗幸)が米子飯山砦を築いたのが始まりと伝えている。『出雲私史』に文明2年(1470)に初めて記述が見られる。

 永禄5年(1566)のころ毛利氏が米子城を制圧している。

 永禄9年(1570)には、尼子義久居城月山富田城(島根県安来市)が毛利元就によって落城し、天正15年(1587)吉川広家(きっかわひろいえ)が出雲3郡・伯耆3郡等の所領を手にし月山富田城を居城としていたが、天正19年(1591)新たな城を泰山に求めた。築城中、秀吉の朝鮮の役に出陣した。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、周防岩国に移封となり、未完成の城をあとにした。

 
 

 
 そのあと中村一忠(かずただ)が尾高城(米子市尾高)に入り、工事を引き継いだ。一忠は若干11歳であったので、米子藩執政家老横田内膳村詮(むらすけ)が補佐し、翌年慶長7年(1602)城は完成したといわれている。しかし、慶長14年(1609)一忠が二十歳で若死にし、中村氏は断絶となった。

 次に慶長15年(1610)加藤貞泰(さだやす)が会見・汗入(あいみ・あせり)の2郡6万石の領主として入封するも、元和3年(1617)池田光政が鳥取城に入ると米子城は鳥取の支城となり藩は廃止された。加藤貞泰は伊予国(愛媛県)大洲に移り、光政の一族の池田由之が3万2千石の米子城預かりとなった。

 寛永9年(1632)に池田光政の岡山国替えにより鳥取城主に池田光仲が因伯領主となり、家老の荒尾成利が米子城主となり、荒尾家が代々城を預かり自分手政治を幕末まで行った。
 米子城の天守等建物は、明治10年代に古物商に売却され、解体された。


 

ありしひの米子城・古写真(説明板より)



▲米子城の山麓と内堀(推定)  昭和23年航空写真(国土地理院より)



アクセス

 泰山公園に広い駐車場がある。登り口は4か所程はあるようだが、駐車場から案内板があり、頂上・内膳丸跡とある。テニスコート方面から登ることもでき、どちらも内膳丸跡前に繋がっている。

 今回は、テニスコートの近くの裏御門から登り、内膳丸を見たあと、天守に登り、水手御門跡から下山した。
 



▲米子城の鳥瞰    by Google Earth
 



▲城周辺の案内マップ(現地案内板に少し書き込み)


  

▲左の石垣の先は裏御門跡                   ▲野球場は三の丸跡
  


 
▲テニスコートは二の丸跡                         ▲ここから石段を登っていく




 
▲この奥は内膳丸 、右に下れば湊山公園              ▲内膳丸の入口
   
     


▲天守台をとりまく堅牢な石垣                   




▲天守台の北下の石段 
              



▲天守閣の礎石                                    
 



       
▲天守からのパノラマ (北西~東) 右の丸い山が飯山(いいのやま)
 




 
▲水手御門跡を下る          




▲下山途中の石仏 




雑 感

 米子は過去何回かは来ているが、城に登るのは初めてだった。米子城の天守台に立ちここちよい風を受け、北にきらきら輝く日本海、西に弓ヶ浜や穏やかな中海、東には白雪の伯耆大山、360度のパノラマの景観にしばし釘付けになった。弓ヶ浜に目を向けると、防風林(松)の土手が三保湾を縁取りし、その地形は名称どおりだ。
 その弓ヶ浜は、出雲国風土記(奈良時代)には、「夜見島」とあり、その地名由来は古代の埋葬の地として黄泉津島(よもつがしま)から夜見島となり、それが平安期に砂が運ばれ陸続きになった。そうして現在弓のように湾曲した地形になり、夜見ヶ浜あるいは弓ヶ浜と呼ばれるようになったといわれている。

 下山途中生い茂った木々の中に石仏が一定間隔に数多く置かれている。よく見ると四国八十八ヶ所を模したもので、それも伊予国に限られている。何か伊予と関連があるのかなと、思っていたところ、米子城主加藤貞泰が愛媛の大洲に転封していることがわかったが、そのことと関係があるのだろうか。
 また、近江聖人・中江藤樹が9歳のとき米子城主加藤家に仕える武士の養子となり米子に来て、城主とともに四国に移ったことを知った。

 次回来る機会があれば、飯山周辺と尾高城跡を見てみたいと思っている。






▲途中で見た「大山(だいせん) 南から見ると台形だが、 冠雪のとき、西から見ると伯耆富士といわれる雄姿がすばらしい。