(2019.3.22~2019.10.31)
明石公園内
▲大手前を入った正面から 左が坤櫓(ひつじさるやぐら)、右が巽櫓(たつみやぐら)
明石城跡(明石公園)は、JRの電車の車窓から何度も見ながら、いままで一度も立ち寄ることは無かった。そんな明石城を、城跡めぐりの楽しみにとりつかれて、遅ればせながら訪れた。
▲鳥瞰 by google earth
▲播磨国 明石城図 国立国会図書館蔵
・城域には西に野球場・陸上競技場、北東に球技場がある。
・外堀はすべて埋められ、城図の本丸右(二の丸)東部に台地が延びていたが宅地化されている
・外堀はすべて埋められ、城図の本丸右(二の丸)東部に台地が延びていたが宅地化されている
明石城の築城
▲大手前
▲天守の代わりの坤櫓
明石城跡のある明石市は播磨の東、摂津との国境に位置し、京都と大宰府(福岡県太宰府市)を結ぶ官道がしかれ、淡路、四国への海路をもつ古代からの交通の要衝であった。
近世の徳川幕府の初期、元和3年(1617)信濃国(長野県)松本城の城主の小笠原忠政(のちの忠真)が10万石に加増され明石に入った。明石川の河口の北西の船上(ふなげ)の船上城に入り、2年後の元和5年(1619)徳川秀忠の命により人丸山の台地に新城の建設が始まった。
明石城は、西国の守りとしての幕府の普請奉行の派遣や築城費※を幕府が支出し、本丸・二の丸の主な部分は幕府直轄の工事で、他の工事は共同で行われた。
近世の徳川幕府の初期、元和3年(1617)信濃国(長野県)松本城の城主の小笠原忠政(のちの忠真)が10万石に加増され明石に入った。明石川の河口の北西の船上(ふなげ)の船上城に入り、2年後の元和5年(1619)徳川秀忠の命により人丸山の台地に新城の建設が始まった。
明石城は、西国の守りとしての幕府の普請奉行の派遣や築城費※を幕府が支出し、本丸・二の丸の主な部分は幕府直轄の工事で、他の工事は共同で行われた。
▲大手正面の内堀
▲内堀の土塁
▲大手の石段
▲正面右(東詰) 二ノ丸への石段
この築城の時期は、池田氏の播磨一国の支配が終わり、姫路城の城主は本多忠政に替わっていた。幕府は小笠原忠政が家康の曾孫にあたり、また正室は姫路城主本多忠政の娘という徳川のゆかりの本多氏と小笠原氏の二人を譜代大名として西国の重要拠点に配したのである。
明石城の天守台は造られたが、天守は見送られた。代わりに櫓は数多く造られ、本丸の四隅に三層の櫓(やぐら)が西南を表す坤(ひつじさる)櫓、東南の巽(たつみ)櫓、東北の艮(うしとら)櫓、北西の乾(いぬい)櫓が建てられた。資材には廃城となった三木城・高砂城・船上城・枝吉城などが解体使用され、現存の坤櫓は伏見城の遺構、巽櫓は船上城の遺構と伝えている
明石城の天守台は造られたが、天守は見送られた。代わりに櫓は数多く造られ、本丸の四隅に三層の櫓(やぐら)が西南を表す坤(ひつじさる)櫓、東南の巽(たつみ)櫓、東北の艮(うしとら)櫓、北西の乾(いぬい)櫓が建てられた。資材には廃城となった三木城・高砂城・船上城・枝吉城などが解体使用され、現存の坤櫓は伏見城の遺構、巽櫓は船上城の遺構と伝えている
▲広い天守台 ここに天守は建てられなかった
町割りは、人丸山の麓にあった西国街道が少し南に移され、外堀で武家と町家を分離させた。街道の東西の出入り口に大木戸と番所が置かれ東入口を京口門、西入口姫路口門と呼んだ。有事に備え、門の出入り口や海岸線防備に寺と神社を配置し、城下町は職業別の区割りを設けた。このような城造りは後の城造りのモデルになったという。
船上城(明石市船上)と高山右近
船上(ふなげ)は古代平安期には船木(ふなぎ)と呼ばれ、造船の用木を調達する職掌の船木連が居住し、この船木が船上に転訛したともいわれる。中世の室町期には、京都の大山崎の油座に納入する胡麻の運送にかかわっていた記録があり、また秀吉のもとで水軍の大将として活動していた石井(明石)与次兵衛がいたことなど、当時船上は明石地方の海上交通の中心であったと考えられている。
船上城は、秀吉の天下統一後、高槻城の城主の高山右近が2万石を加増され明石6万石の国替えとなり、この地に本格的な城や城下町を築いたとされている。明石城が出来てからは廃城となり城下の町は元の農漁村に戻ったという。そして現在は宅地化され、主郭部の台地の一部だけが残されているだけで城跡の面影はなくなってしまった。
高山右近は熱心なキリシタン大名であったが、天正15年(1587)の秀吉は突如バテレン追放令を発し、左近にはキリシタンを捨てるか大名職を失うかが問われ、信仰を選択したため明石を追放されてしまった。このため、家臣や宣教師、キリシタンは道に迷ったように旅路につき、女、子ども老人、病人が明石の道にあふれていたことが、宣教師フロイスが『日本史』に書き残している。ちなみに高山右近は徳川家康の禁教令により国外追放され異国フィリピン・マニラで没している。
参考文献:『日本城郭体系』、『兵庫の城紀行』、『角川日本地名大辞典』、他
小笠原氏のこと
明石城の城主小笠原忠政の父忠政は兄忠脩(ただなか)とともに大阪の陣で戦死し、忠脩の死後長次が生まれている。忠政が家督を継ぎ、長次を養育した。長次は、龍野藩主となりのち中津藩主となった。中津藩の小笠原は5代つづくが、長邕(ながさと)が早死にしたため一旦は無嗣改易となったが、許されて長興(ながおき)が享保元年(1716)に宍粟郡安志にはいり安志藩主となっている。
ちなみに中津藩といえば、豊臣時代、播磨で活躍した黒田官兵衛が中津に移ったことで知られているが、黒田氏の後は、細川氏・小笠原氏・奥平氏と続いた。
ちなみに中津藩といえば、豊臣時代、播磨で活躍した黒田官兵衛が中津に移ったことで知られているが、黒田氏の後は、細川氏・小笠原氏・奥平氏と続いた。
▼明石城概要 城主説明(公園内)
▼南の外堀にある家老屋敷跡 織田家長屋門 門は船上城から移築されたという
雑 感
本丸・天守台からの明石海峡の景色はすばらしく、大橋と淡路がすぐそこに見える。明石城築城400年後の光景だ。おそらく築城当時は、城下の街道の人の動き、海上の船の動きが手に取るように監視できただろう。城が完成し、天守代わりの坤櫓からこの美しい景観を最も早く手中にしたのは小笠原忠政であった。しかし、わずか13年の在城で寛永10年(1633)北九州小倉の地へ移っていった。
この明石城の建設に忠政の客分であった宮本武蔵が指導に入ったという伝承が残っている。武蔵は巌流島で中津藩細川氏に仕えていた佐々木小次郎と果し合いをしているが、この事の経緯や次第にも多くの伝承があり真相が不明で、有名人ならではのもののようだ。
地域の様々な歴史は人を通じて興味をもち、それを手繰り寄せてみると、当時の出来事や関わった人物の足跡が少しずつ見えてくる。最近その面白みを感じている。
▲海岸からみた明石海峡大橋 (パノラマ撮影)
平成10年(1998)4月に完成 橋長3,911m、中央支間長1,991mの世界最大の吊橋
平成10年(1998)4月に完成 橋長3,911m、中央支間長1,991mの世界最大の吊橋
【関連】
・安志藩(2)小笠原氏について