郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 明石城をゆく

2020-04-19 10:44:11 | 名城をゆく
(2019.3.22~2019.10.31)


明石公園内
 

▲大手前を入った正面から  左が坤櫓(ひつじさるやぐら)、右が巽櫓(たつみやぐら)
 


 明石城跡(明石公園)は、JRの電車の車窓から何度も見ながら、いままで一度も立ち寄ることは無かった。そんな明石城を、城跡めぐりの楽しみにとりつかれて、遅ればせながら訪れた。
 


▲鳥瞰 by google earth
 



 ▲播磨国 明石城図  国立国会図書館蔵
 


・城域には西に野球場・陸上競技場、北東に球技場がある。
・外堀はすべて埋められ、城図の本丸右(二の丸)東部に台地が延びていたが宅地化されている
 

 
明石城の築城
 


▲大手前
 



▲天守の代わりの坤櫓
 


 明石城跡のある明石市は播磨の東、摂津との国境に位置し、京都と大宰府(福岡県太宰府市)を結ぶ官道がしかれ、淡路、四国への海路をもつ古代からの交通の要衝であった。

 近世の徳川幕府の初期、元和3年(1617)信濃国(長野県)松本城の城主の小笠原忠政(のちの忠真)が10万石に加増され明石に入った。明石川の河口の北西の船上(ふなげ)の船上城に入り、2年後の元和5年(1619)徳川秀忠の命により人丸山の台地に新城の建設が始まった。

 明石城は、西国の守りとしての幕府の普請奉行の派遣や築城費※を幕府が支出し、本丸・二の丸の主な部分は幕府直轄の工事で、他の工事は共同で行われた。
 



▲大手正面の内堀
 



▲内堀の土塁
 



▲大手の石段
 



▲正面右(東詰) 二ノ丸への石段
 


 この築城の時期は、池田氏の播磨一国の支配が終わり、姫路城の城主は本多忠政に替わっていた。幕府は小笠原忠政が家康の曾孫にあたり、また正室は姫路城主本多忠政の娘という徳川のゆかりの本多氏と小笠原氏の二人を譜代大名として西国の重要拠点に配したのである。

 明石城の天守台は造られたが、天守は見送られた。代わりに櫓は数多く造られ、本丸の四隅に三層の櫓(やぐら)が西南を表す坤(ひつじさる)櫓、東南の巽(たつみ)櫓、東北の艮(うしとら)櫓、北西の乾(いぬい)櫓が建てられた。資材には廃城となった三木城・高砂城・船上城・枝吉城などが解体使用され、現存の坤櫓は伏見城の遺構、巽櫓は船上城の遺構と伝えている
 

 

 ▲広い天守台 ここに天守は建てられなかった
 


 町割りは、人丸山の麓にあった西国街道が少し南に移され、外堀で武家と町家を分離させた。街道の東西の出入り口に大木戸と番所が置かれ東入口を京口門、西入口姫路口門と呼んだ。有事に備え、門の出入り口や海岸線防備に寺と神社を配置し、城下町は職業別の区割りを設けた。このような城造りは後の城造りのモデルになったという。




船上城(明石市船上)と高山右近

 船上(ふなげ)は古代平安期には船木(ふなぎ)と呼ばれ、造船の用木を調達する職掌の船木連が居住し、この船木が船上に転訛したともいわれる。中世の室町期には、京都の大山崎の油座に納入する胡麻の運送にかかわっていた記録があり、また秀吉のもとで水軍の大将として活動していた石井(明石)与次兵衛がいたことなど、当時船上は明石地方の海上交通の中心であったと考えられている。

 船上城は、秀吉の天下統一後、高槻城の城主の高山右近が2万石を加増され明石6万石の国替えとなり、この地に本格的な城や城下町を築いたとされている。明石城が出来てからは廃城となり城下の町は元の農漁村に戻ったという。そして現在は宅地化され、主郭部の台地の一部だけが残されているだけで城跡の面影はなくなってしまった。

 高山右近は熱心なキリシタン大名であったが、天正15年(1587)の秀吉は突如バテレン追放令を発し、左近にはキリシタンを捨てるか大名職を失うかが問われ、信仰を選択したため明石を追放されてしまった。このため、家臣や宣教師、キリシタンは道に迷ったように旅路につき、女、子ども老人、病人が明石の道にあふれていたことが、宣教師フロイスが『日本史』に書き残している。ちなみに高山右近は徳川家康の禁教令により国外追放され異国フィリピン・マニラで没している。

 参考文献:『日本城郭体系』、『兵庫の城紀行』、『角川日本地名大辞典』、他


小笠原氏のこと
  


 明石城の城主小笠原忠政の父忠政は兄忠脩(ただなか)とともに大阪の陣で戦死し、忠脩の死後長次が生まれている。忠政が家督を継ぎ、長次を養育した。長次は、龍野藩主となりのち中津藩主となった。中津藩の小笠原は5代つづくが、長邕(ながさと)が早死にしたため一旦は無嗣改易となったが、許されて長興(ながおき)が享保元年(1716)に宍粟郡安志にはいり安志藩主となっている。
  ちなみに中津藩といえば、豊臣時代、播磨で活躍した黒田官兵衛が中津に移ったことで知られているが、黒田氏の後は、細川氏・小笠原氏・奥平氏と続いた。


 
 ▼明石城概要 城主説明(公園内)

 


 ▼南の外堀にある家老屋敷跡 織田家長屋門 門は船上城から移築されたという
 
 



雑 感
 
 本丸・天守台からの明石海峡の景色はすばらしく、大橋と淡路がすぐそこに見える。明石城築城400年後の光景だ。おそらく築城当時は、城下の街道の人の動き、海上の船の動きが手に取るように監視できただろう。城が完成し、天守代わりの坤櫓からこの美しい景観を最も早く手中にしたのは小笠原忠政であった。しかし、わずか13年の在城で寛永10年(1633)北九州小倉の地へ移っていった。

 この明石城の建設に忠政の客分であった宮本武蔵が指導に入ったという伝承が残っている。武蔵は巌流島で中津藩細川氏に仕えていた佐々木小次郎と果し合いをしているが、この事の経緯や次第にも多くの伝承があり真相が不明で、有名人ならではのもののようだ。

   地域の様々な歴史は人を通じて興味をもち、それを手繰り寄せてみると、当時の出来事や関わった人物の足跡が少しずつ見えてくる。最近その面白みを感じている。
 
 
 

 ▲海岸からみた明石海峡大橋 (パノラマ撮影) 
平成10年(1998)4月に完成 橋長3,911m、中央支間長1,991mの世界最大の吊橋
 

【関連】 
・安志藩(2)小笠原氏について

播磨 鶴居・稲荷山城跡

2020-04-19 09:32:40 | 城跡巡り
【閲覧数】4,036(2014.3.17~2019.10.31)



  中国自動車道福崎インターから、播但有料道路に乗り継ぎし、市川町域に入ると左(北西)の川向こうに頂上に数本の木の見える山が目にはいる。それが今回紹介する鶴居・稲荷山城跡である。
 前回の谷城跡とは違ってかなり高い山で少し気合をいれ登城することになった。
 
 

▲稲荷山城 山頂に二本(実は3本)の高木が見える
 

 
 
鶴居・稲荷山城のこと   神崎郡市川町鶴居
 
 鶴居・稲荷山城は稲荷神社の背後に聳える稲荷山(標高433m・比高308m)にあり、南方に尾根筋が延びる。比高308mはかなりの高さなのだが、南の尾根筋が登山道になっている。

 この城は谷城とともに永良氏の城で、谷城の北方に位置し、険峻な稲荷山の山頂に築かれている。主郭(15m×34m)から南稜線に曲輪が8段ほど延びる梯郭式の城跡である。



 
 


 


 ▲地形図
 
 

但馬山名氏の合戦侵入路となった市川流域の街道
 

 室町期に播磨・美作・備前の三国の戦国守護大名となった赤松則村名(円心)は赤穂郡上郡赤松村の白旗城に本拠をおき、一族に命じ、北の守りのために国境の生野と市川流域に城を配置させた。これは宿敵山名氏の播磨侵入を防ぐための城であった。

  赤松は嘉吉の乱で幕府に討たれ、播磨・美作・備前の三国は山名一族のものとなった。赤松氏はお家再興をはかった後も宿敵山名氏と播磨で何度も戦いを繰り広げている。

 嘉吉の乱で戦場になった市川流域の戦い、再興した赤松氏が山名氏から播磨を奪回するため長期にわたる戦いの経過をまとめてみた。
 


嘉吉の乱による赤松の滅亡

  嘉吉元年(1441年)嘉吉の乱で、赤松満祐が将軍足利教義を暗殺するという暴挙を起こした。赤松満祐は播磨に引き上げたが、やや遅れて幕府の追討軍の攻撃を受けた。その幕府軍の主力が但馬守護山名持豊(宗全)で、生野峠を突破し福崎の田原で赤松軍を制した。赤松満祐は守護館坂本城から城山城に移動するも追い詰められ、自刃する。結果満祐は赤松円心が室町政権下で得た播磨・美作・備前の三国の所領すべて失い、三国はそっくり山名氏の領地に塗り替えられてしまった。そして赤松の残党は一掃された。 ※永良氏は田原に布陣『赤松盛衰記』


 

     
    

お家再興を果たした赤松氏の旧領(播磨)奪回の動き

  長禄元年(1457年)赤松一族は南朝の神璽を奪還した(長禄の変)。この功により赤松政則が幕府から加賀半国の守護に任ぜられた。赤松が再興し、守護職に返り咲いたのは嘉吉の乱から16年目のことである。その後赤松は旧領播磨の奪回を計画し、宿敵山名を播磨から駆逐するため書写の坂本城を攻撃した。とりつとられつの戦いが延々と続き、赤松氏の失地回復に半世紀以上の期間を要した。
 

赤松氏と山名氏の戦いの記録

・ 応仁元年(1467)応仁の乱の勃発後に赤松政則は旧領の播磨・備前・美作の奪回に成功。
・ 文明15年(1483)山名政豊は真弓峠(生野町真弓)で赤松政則を破り、播磨・備前・美作を回復。
・ 文明18年(1486)英賀城・坂本城で赤松方と合戦するも山名方敗退。
・ 長亨 2年(1488)坂本城を脱して山名政豊は但馬に帰国。
・ 文永 3年(1523)山名誠豊が播磨へ出兵し、広峰山まで進出。
・ 文永4年(1524)書写で合戦するも敗退し、但馬に退却。
 

 
アクセス
 
鶴居中学校の北側に、案内板がある。右に折れ、墓地前の広場に駐車し、登山道に向かう。
 


▲左に入れば登山口、右に進めば稲荷神社
 
 
▲フェンス門の登山口
 


防獣フェンスを開け、登山整備された道を登って行く。ややうっそうとした杉林をぬけると、歩くほどに視野が広がる。
 
 

 
▲登山道 あと700m
 


山頂までの距離の表示があり、あと700mを過ぎたあたりから見晴らしがよくなる。
 


▲東南方面
 

平坦地を抜けると、やや急な斜面となり、ロープが用意されている。
 

 
▲ロープの登山道
 


 その先に堀切があり、急な崖状の曲輪の周辺に石垣が現れる。
 


▲この先に堀切がある                  



▲上方に石垣
 
 

▲本丸の下周辺の石垣                     



▲主郭(本丸)近く
 


いよいよ主郭(本丸)に到着。登山口から約1時間。
 
 

▲主郭からの展望は絶景
 



▲播磨灘の家島諸島を見ることが出来る           


▲山麓から見えた立木3本



▲北東の市川流域と山なみ
 


▲南西方面の展望
 

本丸の北側に石段がある。そこを降りると、主郭周辺に石垣が所々残っているのが見える。
 

 
▲本丸の北側の石段                         


▲本丸周辺の石垣
 



雑 感
 
 鶴居・稲荷山城の本丸からの展望はすばらしい。淡路島、家島(いえしま)群島上島、明石海峡大橋、飯盛山(いいもりやま)、七種山(なぐさやま)、七種槍(なぐさやり)、大嶽山(おおたけさん)、大中山登山道入口等の山頂からの表示板の方角に見入った。

 まさに市川中流域一帯と播磨灘が見通せる絶好の場所である。中世には東岸の飯盛山とあわせて街道ににらみをきかせたのであろう。
 
  鶴居・稲荷山城の東山麓に稲荷神社があり、この周辺から山頂に向かって大手道があったと推定している。しかしまだ確認していないのが心残りである。
 


▲本丸から見た飯盛山
 
     
▲この東尾根筋に大手道が?                      ▲稲荷神社
 
 
参考:「山名氏の城と戦い」
 
※関連
谷城跡1、2

◆城郭一覧アドレス



播磨 谷城跡 (2)

2020-04-19 09:10:52 | 城跡巡り
【閲覧数】769 (2019.8.7~2019.10.31)


 
ながら 
永良氏の城 「谷城」    神崎郡市川町谷
 

 市川は、兵庫県中部の朝来市生野町の三国山(標高855m)に源流を発し神崎郡域を南流し、姫路市飾磨区で播磨灘に注いでいる。

 古くからその市川沿いには播磨と但馬を結ぶ街道が発達していた。その交通の要衝に多くの城跡・砦跡が残されている。それは室町期以降に赤松一族により播磨の北部の守りとして築城されたものであった。

  永良荘(荘園)を支配した赤松一族はこの地名から永良と名乗っている。
永良氏は、古城山(標高206m)に谷城を築き、その後北峰つづきの稲荷山にも城を築いている。谷城は本郭(本丸)・北郭・南郭・堀切・土塁・井戸跡等が整然と残された中世播磨のモデル的な城跡である。


 
 

   
▲城図 作図:藤原孝三氏  一部着色
 

 
▲主郭(本丸)
 

▲主郭から西方面の眺め
 

 
 赤松氏と山名氏の争い
 
 嘉吉元年(1441年)播磨守護職の赤松満祐が室町幕府第六代将軍足利義教を殺害した(嘉吉の乱)。但馬の山名宗全(持豊)は幕府軍の総大将として生野のより進入し、赤松軍を撃破し、城山城(たつの市)で赤松満祐を倒した。宗全は、その功により播磨を手にした。しかし赤松の遺臣たちの悲願により赤松が再興し、応仁の乱で山名氏を播磨から駆逐し、赤松政則が播磨守護職に返り咲いた。

 生野から飾磨の街道は、赤松・山名の両武将たちが刃を手に北に南に駆け巡った戦いの街道だったといえる。
 
 
谷城の落城
 
 戦国時代の谷城主永良氏の動きは不明だが、赤松総領家と赤松の重臣であった浦上氏との抗争で赤松方として戦い浦上氏に敗れ落城したと考えられる。

 天正5年(1577年)以降羽柴秀吉の播磨侵攻により赤松総領家の置塩城主赤松則房は秀吉の臣下となった。同時に市川流域の赤松の家臣もそれに従っているので、従来秀吉によって落城したという伝承は根拠のないものとなった。
 
 
 
▲城跡の案内図           
 


谷城址一帯は里山の自然公園として整備され、大歳神社から ハイキングコースが設けられている。
 

※ 地域情報誌「おくはりま 2016春号 」 城跡シリーズ執筆掲載より


【関連】
・谷城(1)
・鶴居・稲荷山城

◆城郭一覧アドレス