播磨癒しのまち歩き

自然観察しながら散歩(兵庫県・北播磨)
イベント鑑賞や野球観戦も好きでしたがこのご時世全く行けていません。

アニメとは関係のない話

2013-09-01 20:07:42 | アニメ・コミック・ゲーム

スマホは絵にならない。

最近のアニメと見ていると、最近に制作されたものなのに、ガラケーが出てくるものがあるんだけど、原作の表現に合わせているのかな。でも、スマホジじゃ絵にならないような気もする。

誰が持っていても端末自体に個性がないから、アイテムがキャラだちしないんだね。

まあ、いまどきのアニメでガラケーが出てくると、陳腐な印象もあるけど、脳味噌と直接つながっちゃうていう設定も味気ないもんね。

特に戦闘アイテムにモバイル端末が登場する設定だとね。

ヤマトを観ているとゴダイクンがタブレットみたいなやつを使っているみたいだけど、見た目

ゴツイ感じがする。おそらくボールペンみたいな外観で、巻物みたいにスルスルっと画面が出てくるようなものができると思ううんだけどね。

時代のスピードが速すぎて作者の想像力がついていかないね。

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善導大師自画像の謎

2013-09-01 19:44:14 | うんちく・小ネタ

善ちゃんの謎を解くには、近くの町の有名人について調べることも大事だと思っているよ。

そんな人物の一人を紹介するね。

司馬のりょうちゃんも注目していたスーパー和尚重源ちゃんだよ。

●俊乗坊重源と播磨との密接な関係
重源は東大寺の再建に貢献した僧として名を残していますが、播磨ともゆかりの深い人物です。 小野市にある浄土寺の浄土堂は重源の建立(1194)です。

平安時代末から室町時代にかけて、小野市の中心部は奈良東大寺の荘園大部荘に属していたため、 経済的な拠点として重要な役割を果たしてきました。 東大寺再建のための資金集めにあたる勧進職のリーダーとして活躍した重源は、この荘園を視察し、 東大寺再建の経済的基盤としてこの地に浄土寺を建立しました。
この浄土寺が、東大寺再建の西の拠点になりました。

一生を勧進にかけたといわれる重源は、日本で最初に自分のことを阿弥陀仏と名乗った人物であるなど印象深い逸話の持ち主ですが、謎の多い人物でもあります。
五祖師像(善導を含む浄土五祖師の画像)を法然の命により持ち返ったとされることからわかるように、 法然に師事しますが、 もともとは、高野山の別所といわれる草庵に住む念仏信仰の担い手でした。

念仏がさかんになるのは平安末期からですが、当時の仏教は天台宗と真言宗がささえていました。 これらの宗派の教義と念仏信仰の間には距離があります。たとえば、真言宗の開祖空海の思想には「ひたすらに念仏し、阿弥陀如来の本願を信じぬいてゆくだけで、 他のことは要らない」という教えはありません。
天台宗では、念仏は重要な修行のひとつですが、それだけで良いとは言いません。

1175年、法然が、念仏の教えを体系的に整理して一つの宗派として確立します。しかし、念仏信仰はそれ以前から、民衆の間で浸透しはじめていたのです。 その一翼を担っていたのが、僧としての資格をもたない聖(ひじり)たちで、天台系、真言系ともにそれぞれの念仏聖たちが活躍していたようです。

当時の本山からみれば、けっしておもしろい存在ではなかったはずですが「しょせん資格のないものが、 勝手にやっていることだ」と見てみぬふりをしていればよかったし、当の聖たちにしても、 「私たちは資格も権威もございません」とへりくだることにより、双方の「すみわけ」ができていたのでしょう。

重源はこういった高野山系の念仏聖、「高野聖」だったというのです。
真言の教えを汲み、念仏信仰の担い手、しかも法然の弟子で播磨にも縁が深い。
真言宗のお寺に善導大師。
なにやら共通点が・・・・?

重源のように歴史に名を残す人物でも、その経歴を知る手がかりは多くありません。 まして、庶民の信仰を支えた名もない多くの聖たちの経歴を知ることはできませんが、私たちの歴史を知るためには彼らの生き様を、庶民の立場で想像することが不可欠です。

(参考:『街道をゆく 高野山みち』司馬遼太郎)

 
 

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善導大師自画像の謎

2013-09-01 19:39:36 | うんちく・小ネタ

日本人のことならもう少し真剣に調べる人もいたんだろうけどね。

浄土宗系の方にがんばってもらって、思うんだけど宗派の違いとかあってややこしいのかな。

●五峰山光明寺と善導大師自画像(滝野町史より抜粋)
Daijiin_2

五峰山光明寺の塔頭(たっちゅう)のひとつ、 大慈院には、日本一幅と称する善導大師自画像が伝えられている。 長さ105センチ、幅51センチの絹本着色の画像で、やや右正面に向かって開口合掌し、 遠山模様の袈裟を着、頭上右の空中に五体の化仏を配した構図である。

寺伝によると、善導大師(唐の僧)は生前に三幅の自画像を描き、 一は釈迦の生誕地である天竺は摩訶陀国へ賜り、また一は大師入滅の地、 中国は長安の光明寺にとどめ、一幅を日本へ伝えたという。

日本へは、天台宗の僧円仁(慈覚大師)がもたらした。円仁の入唐求法の際、 大師の法孫がたずねて来て、氏の遺嘱と称し、「貴僧が東上帰帆に伴ひ、有縁の地に安じ給へ」 と授けた。帰朝後、たまたま播磨の光明寺が、寺名、結構ともに長安の光明寺に類似していたので、 大慈院の僧円心に自画像を託し、常行堂に安置せしめたと伝える。ときに承和14年(847)という。 のち常行堂焼失にともない、大慈院に移し、今日にいたった。

画像自体は平安期(唐代)の作とはにわかに信じがたいが、おそくとも鎌倉期を下らないものとされている。
中央貴顕の尊崇あつく、永享9年(1437)には将軍足利義教がこれを補修、 元和9年(1623)には後水尾天皇の叡覧を得、宝暦2年(1752)にも将軍吉宗の内拝をうけたという。

●善導大師画像の出開帳(滝野町史より)
Michishirube_2

法道仙人が蓮華の花の形をした五峰山頂に道場を開いたのは、白雉2年(651)年と伝える。 以来、中世・近世と中央のそれとは異なった庶民信仰の対照として栄えてきた。 「日本一幅善導大師 光明寺へ是より○里」と刻んだ道しるべは、北播磨の路傍でよく見かける。
この道標は近世の中頃、光明寺を中心に八里四方に100基が建てられたという。 それほどに、この寺は西国三十三番霊場とはまたちがった意味でもてはやされた。
とくに、卯月八日の仏生会は、俗に「滝野の花祭(はな)」とよばれて、 参拝者の列が闘龍灘から山上までを埋め尽くす播州随一のにぎわいであった。

近世の光明寺で注目すべきは、塔頭大慈院の善導大師画像が、 二度にわたって禁裏と江戸城内へ出開帳したことであろう。元和9年(1623)、 大慈院隆俊は『大慈院縁起』を作り、善導大師画像の顕影につとめた。そのため、 毎年三月十四日には滝野の善導忌と号して「貴賎雲集し、大師の真影に結縁」したという。

この民衆の信仰を定着させるため、隆俊は国家的権威者の内拝を得る機会を待った。 ときあたかも、キリシタン禁止の徹底をねらった幕府は、寛政以来禁止されていた 「宮中御修法」の再興を朝廷へ願い出た。さらに江戸は上野に寛永寺を造営するなど、 仏教保護の政策を推進した。隆俊はこのときをのがさず、元和9年8月2日、 中和門院御所において後水尾天皇の内覧を得ることに成功したという。
それがため、 光明寺の善導大師画像と善導忌は遠近に知れわたった。

その後、130年を経た宝暦2年(1752)、善導大師画像は将軍吉宗の内拝をうけた。 この取次ぎに当たったのは、浄土宗の浅草幡随院二十二世例誉了碩である。 大慈院と法縁にあった了碩が明石藩松平氏の江戸香華院で将軍家の信頼も厚く、 また増上寺五十一世満空上人が印南郡志方村の出で、了碩とともに強く将軍家へ推 挙したのによる。 こうして江戸城内で将軍吉宗の内拝を得た画像は、損傷がはなはだしかったため、 将軍家息女竹姫の寄進で宝松院仁梅に命じて模写させ、また厨子の左右の扉に慈覚大師と円心の像を描かせた。 この二人は画像を本朝へ、そして光明寺へもたらすのに功のあった僧である。

竹姫の寄進は彼女が病気平癒を画像に祈祷、その効を得た報謝であったという。 その後さらに紀伊宰相宗将の内拝をも得、幕府や御三家から数々の下賜品を受領した。 また安政9年(1780)3月、京都知恩院において「善導大師一千百回御縁忌法要」が修され、 皇族方の内拝、宝物類の展覧を行うなど、善導大師信仰は全国的な規模で行われるにいたった。 (山口諦存「善導大師由来」による)

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善導大師自画像の謎

2013-09-01 19:30:55 | うんちく・小ネタ

善導大師自画像をこのままにしておくのは日本の仏教界いや日本の国にとって大きな損失だと思うけど、善導大師を題材にした文化財って腐るほど・・・いや数え切れないほどあるそうで、それほど貴重に思われてないみたいなんだよね。

これから、みんなが研究してくれる手がかりを残しておくからがんばってね。

●自画像の特徴(このサイトの画像は江戸期に模写されたものです)

▲人物(善導大師)の上空に阿弥陀仏が画かれています。
▲善導大師が、南無阿弥陀仏という念仏を唱えると、阿弥陀仏が現れたといわれています。
▲阿弥陀仏が規則正しく整列している。
▲阿弥陀仏の数はいくつかパターンがありますが、5体であることに注目しています。

Amida_2

■独断と偏見その1
円仁が唐の五台山竹林寺で学び、日本へ伝えたといわれる五会念仏を表しているのではないかと推理しています。

Kao_2

▲大師は念仏を唱えているので、口が開いており、手は合掌しています。
▲視線は、阿弥陀仏を見上げるのではなく、ほぼ正面を見つめているようです。
▲右(東方)を向いている。(西方浄土から、衆生を迎える姿と言われています。)
▲爪が伸びています。

■独断と偏見その2
日本的な、いわゆる、こぎれいなお坊さんの姿ではなく、修行僧のような凄みのある姿です。

▲歩いています。(右足のポーズに特徴があります。)
▲半金色(下半身が金色に輝く姿)ではありません。

Ashi

■独断と偏見その3
信仰の対象として理想化される以前の写実的な表現がみられます。
また、大師の独特の姿勢は、念仏を唱えながら、阿弥陀仏の周辺を回る、 「常行三昧」という修行の姿をあらわしているのではないかと推理しています。

 

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善導大師自画像の謎

2013-09-01 19:21:40 | うんちく・小ネタ

大師といえばだれを思い浮かべますか。

弘法さんとかけっこう多いと思うけど、善導ちゃんってけっこう少ないと思うんだよね。

加東市のゆるきゃらで伝ちゃんっていうのがいるんだけど善ちゃんもけっこうすごいんだよ。

■自画像は4つある?

日本に一つしかないといわれる自画像ですが、五峰山光明寺には全く同じ構図の画像が4つあります。 一つは円仁が伝えたといわれるもの。江戸期に徳川吉宗の命により模写されたものが二つ、 最後の一つは昭和に日本画家の芹生清氏により模写されたものです。江戸期に模写されたものの一つは、 大慈院の御影堂に安置されています。 いずれの模写作品も江戸期にはすでに損傷が激しかったといわれる 自画像の構図や色使いなどを探る貴重な資料でもあります。

■五峰山光明寺と天台宗の関係
Jyogyodo

「播磨高野」といわれ、真言宗の名刹である五峰山光明寺ですが、 天台宗のお寺に特有の建物である常行堂があることなどから、 かつては天台宗とも深いかかわりがあったことをうかがわせます。 文明十七年(1486)赤松政則が三院十九坊を兵舎にあてたといわれており、 最盛期には播磨の延暦寺といってもよいほどの大寺院だったのかもしれません。
このことが善導大師自画像の謎を解くカギでもあると考えています。

■自画像は間違ってやってきた?

自画像は別のお寺に行く予定だったというはなしがあります。 「大師は弘法にとられ」という言葉があるぐらい、 『大師』といえば真言宗の開祖空海(弘法大師)のことを想像します。 そんな真言宗のお寺で、善導が信仰されているのは、めずらしいことから、 「何かの間違いでは」というはなしが生まれたのかもしれません。 しかし、このことも他の善導の画像と滝野の善導大師自画像との違いを明らかにするカギだと考えています。

■キーワードは「五」という数字?

自画像をもたらしたといわれる円仁は中国(唐)の五台山という仏教の聖地で、 五会念仏(ごえねんぶつ)という念仏の修行法を学び、日本に伝えたといわれています。 「五台山」は「五つ峯を持つ山」という意味もあり、「五峰山」と奇妙に符号します。 また五会念仏を大成させた法照(ほっしょう)という僧は後に「後善導(ごぜんどう)」 と呼ばれるほど善導の影響を受けています。五会念仏とは五段階に音階や早さを変えて念仏を唱える方法といわれています。 自画像に描かれた5体の阿弥陀仏と符号すると思いませんか。(ちなみに円仁が伝えた修行法を「常行三昧」といい、 その修行を行う建物が「常行堂」です。)

■なぜ国宝にならないの?

善導を題材にした仏教美術は大変多く、題材としては珍しいものではありませんが、 国宝に指定されているものはありません。画像では鎌倉期に描かれたものが一点あります 。滝野の善導大師の作成期が鎌倉期を下らないとされながらも、 それ以前のものとは断定されていないのは、鎌倉期以降の作品が圧倒的に多いことが影響しているのかもしれません。 指定を受けていないものの中にも、私たちの歴史を知る上で大切なものがたくさんあることを善導大師自画像は教えてくれています。

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