童子(わっぱ)沢
8月のおはようハイクは大代の童子[わっぱ]沢で、報告や写真、また後日頂いた「沢歩きは子供が小さい頃やったので懐かしかった。童心に帰った気持ちになった。斜面を登ったり下ったりは急で、ちょっとスリルがあったりして楽しめた。」というH・Mさんの感想などから、楽しい様子が伝わってきた。同時にI・Kさんの「童子沢には鉱泉が湧出し、それを沸かして湯治ができる宿があった」という一文には驚いた。
野守の池
大代という地区は、旧五和村の中で最も歴史があると謂われている。牛尾山西側の旧五和村の大方は「天正の瀬替え」(1590)以前は大井川の流路下にあって、その後開墾された比較的新しい土地なのである。瀬替え以前は上志戸呂辺りが大代川と大井川の合流地点で、ここで大井川は平野部に出ていったのだし、また大井川の渡り場となっていたこともあるから、大代という場所は山間部からの出口として重要な意味を持っていたと言える。かつて地蔵峠が川根街道(R473)の難所であったとおり、ここから上流部において蛇行を繰り返す大井川の流れに沿って道ができるのは時代が下ってからだ。家山という場所も大代と同様に、家山川と大井川の合流点に当たる。家山の野守の池については、20周年記念講演で八木洋行氏が興味深い話をしていて、ここは太古から人が住んだ痕跡があると語っている。地形が似通って、歴史も古い両集落を結ぶ山の道が存在したはずではないかと考えた。おはようハイクの終了点をさらに詰めていくと、神尾山と経塚山の鞍部に出る(以前のおはようハイクで、福用に下った所)。家山に向かうには、経塚山から北上し馬王平、八高山、カザンタオ峠を経て前山に向かうことになり、この尾根道は今なお歩かれている。
江戸時代の門付芸としての「鳥追い」(野守大夫?)
例の童子沢の野守大夫の話は、鯉になって沢の源流まで行けたとしても、まだ家山までは遠い尾根道の先であるから、魚となった身にはちょっと辛いものではないかと思える。つまり野守大夫の話は大代と家山の結び付き、殊に「野守」と呼ばれた人々の繋がり、「野守の道」を示しているのではないかと考えるのだ。家山の「野守」については、やはり八木洋行氏が興味深い話をして下さった。おそらく山の民の末裔であっただろう「野守」の人々は、この道を通り大代から下流の平野部へと行き来したのではあるまいか。もしかしたら童子沢の〈わっぱ〉とは、工芸品の曲げわっぱに由来するとは考えられないだろうか。この名に当てられた「童子」も単に子供の意だけでなく、酒呑童子や八坂童子などに見られるように異形の者の呼称にも使われている。そんなことをツラツラと“夢想”したのだ。
夢窓疎石像 無等周位筆 自賛
ところで、野守の池の伝承に登場する夢窓国師(疎石)は、鎌倉末期から南北朝期の禅僧で、伊勢の出身であることから、熊野修験に関わりがあるのではないかと思える。実際、幼少期には甲斐で真言宗、天台宗などの密教系の修行をしているし、一三三五年に国師号を授けられたのは建武の新政での後醍醐天皇からである。修験道の山伏というのは山岳地を駆け巡っているから、各地に通じていて、諜報に優れていたと謂われる。後醍醐天皇が熊野を勢力に付けようとしたのは、まさにそうした理由もある。そして大井川が、その南朝勢力の最前線にあったことは、遠州が秋葉山をはじめとして修験道の一つのメッカを成す地域であったことと無縁ではあるまい。
また修験道は鉱物=金属精錬とも深く関わっている。地形図を眺めると大代周辺には、それを連想させる字名が幾つかある。「白銀」というのはそのものズバリだし、「四分一」というのは「金属工芸で使われてきた日本古来の色金(いろがね)のひとつで銀と銅の合金である。合金における銀の比率が四分の一である事から名付けられた。」(ウィキペディア)と記されている。大代川を遡って粟ヶ岳の北麓を行くと「庄司」で峠を越え、原野谷川の支流谷「丹間」となる。「丹(タン・ニュウ)」は水銀のことであり、この谷の入口は「孕石」と付く。八高山の「白光神社」も、そう考えると曰く有りそうに思えてくる。こういう金属地名の痕跡は、I・Kさんの記す鉱泉宿の存在とも関連があるのか……“夢想”は留め止めなく膨らんでくるのだ。
流動こそ生であり、停滞こそ死であるという確信を捨てず、昨日も今日も明日も歩きつづける一所不在の漂泊者を、私は畏敬をこめて永久歩行者と呼ぶ、ここに「歩く」ことのもっとも深遠な意味が鮮明になる。
(谷川健一『賤民の異神と芸能』序章より)
(2017年9月記)
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