山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

正義の人々

2025-01-13 16:58:17 | エッセイ

2012年7月の夏山合宿「会津駒ヶ岳」の4年前、良き相棒だったAmk親父らとここを訪れた時のこと。

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正義の人々

 9月の連休に会津駒ヶ岳に行った時のことである。花と紅葉の狭間の時季とはいえ、国立公園となった人気の山で登山者の数は多く、比較的若い人達も目に付いた。この山の頂稜部は雲上の湿原となっていて、駒ノ小屋直下から中門岳までずっと二本の木道が続いている。歩き易そうな方を、あるいは花を見る時は近くの側へと、右に左に踏む道を替えながら歩いていく。対向者とのすれ違いも、低速“者”や駐“者”中の追越しも、それなりにスムースに運んでいくものである。
 駒ヶ岳山頂から先は人も少なくなり、池塘と草原の中を畝々と続く道を「気持いいね」と話しながら、中門岳を目指していた。前方から30才前後の女性が近づいてきた。我がパーティは7人、この時は無意識的に左の木道を一列で進んでいた。女性は単独で右の木道(我々と同じ側)を進んできた。平坦で上り下りの差もなく、先頭の私はてっきり単独の若い彼女が反対側に軽やかによけてくれるものと思い込んでいた。顔面鉢合わせまで近づいて、断固として道は譲らないという決意の表情で彼女が放った言葉は
「右側通行が常識です!」
唖然とした。が、この「チョー、気持ちいい」場所で言い争い、仲間の楽しい気分を害することは馬鹿げているので、ここはもっさりと右側に移った。後ろのメンバーも、各々もっさりと動きすれ違ったのだった。
 あるいは彼女は婦人警察官や交通指導員だったのかもしれないが、自らの〈正義〉の主張が貫徹され、無知で鈍重な中高年登山者に道を譲らしめたことに満足したのだろうか。山道は道路交通法が適用される公道ではない。よしんばこの山では「木道は右側を」ということがルールとなっているとしても、単独者が一歩方向を変えるのと7人がそれぞれ踏み替えるのとでは、すれ違いのお互いのスムーズさは一目瞭然だろう。私たちは、山道は上り優先である(これとて我彼の人数や技量、場所の状況など条件によりけりだが)とか、よける時は山側にとか、悪場では同じスパンに複数入らないとか、互いのパーティが行き交う時の基本をいくつか知っている。が、これはルールではなく、お互いが何より安全に、かつスムーズに通過するための方策で、つまりは臨機応変に対応するといった知恵というようなものではないか。
 木道はさらに先へと続いている。「どこまで歩くの?」「この道の果てまで…」などと言いながら進む。遠くに僅かな高みが見え、あの辺りまで続いているらしい。「この辺りが中門岳」という曖昧な表現の山頂標識を過ぎると暫くで、木道は池の周りをロータリー状になって終っていた。北西側は樹林となって落ちているようで、頂稜湿原の末端のようだった。ここまで来ると数える程の登山者で、木道の隅に腰掛け昼食とした。周囲は保護用のロープが張られ、木道から離れられないようになっているが、用足しのためだろうか一箇所だけロープが緩み、草原の外へと踏み跡が付いていた。メンバーの並んだ写真を撮ってあげようと、カメラマンが一歩この踏み跡に足を入れた。すると、横に並んで座っていたアベックの若者が突然、
「駄目じゃないですか、ロープの中に入っちゃ。そうして皆が入るから自然が破壊されてしまうんですよ。“いい齢”をして……、僕達の見本になる行動をとらなくちゃ駄目でしょ!」
 確かにおっしゃるとおりです。正論です。けどね…、と思ってしまう。トイレのある駒ノ小屋からここまで往復2時間半、湿原の続く稜線には隠れる場所もなく、だいいち木道からは外れられないようになっている。湿原の果てまで来て、その隅っこから樹林へと向う踏み跡が付いてしまうのも解ることなのだ。しかも皆遠慮して、既にある踏み跡を使わせてもらおうとするから次第にそれが濃くなっていく。「自然は保護しなくちゃ」という気持はそれなりにあるのではと思うのは、“いい齢”をした者の都合良い言い草か。厚顔無恥な中高年のバカ共を一喝した青年に、連れの彼女はきっと惚れ直したことだろう。
 最近、巷に様々な「正義の人々」が現れる。己の観念が世界の常識(グローバルスタンダード)であると信じている。その代表的な例が米国であることは言うまでもないが、およそ理解不能な犯罪の中にも、その人なりの「正義」があったりして始末が悪い。山を歩く行為は、観念ではなく現実である。その現実に対処するための、軽やかで柔らかい知恵を得ていくことだと思っている。

 歩く人間の思考は、書斎の思考にくらべるとずっと現実の光に影響される。不断に外光の変化があり、それが歩行者の頭や胸に絶えず〝自分は世界の一部なのだ〟という意識を植える。ドストエフスキーの地下生活者的思考――牢獄に閉ざされたものの暗い「世界は私だ」式観念、あるいは観念の抽象的図形から生じる哲学や、ユダヤ的復讐のファンタジーに閉ざされっぱなしになることは滅多にない。
 歩く人間のうち、山へ登る人間はさらに単純な水平的比例の思考から容易に飛躍できる生理をもっている点で、本来軽々している。軽いということは薄っぺらだということでは決してない。ダビデはゴリヤテよりも軽薄ではないという意味でだ。
(辻まこと『山からの言葉』より)

(2008年11月『やまびこ』140号「巻頭言」)

 

 

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