刑法は2年生の時、クラス指定ですでに履修していた。だが改めて別の先生の講義に潜り込んだ。Si教授の講義だ。この講義は大変人気がありいつも大教室が満室となり「立ち見」もできていた。流れるような語り口にノートを取ることも忘れ聴き入った。
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この頃、中央大学の教室には不思議な現象が起きていた。
中央大学には名物先生がいた。一人や二人ではなかった。そして、そういう先生の多くが司法試験委員をされていた。
さらに、他大学の教授の職にあり、同じく司法試験委員をされている先生が教壇に立っていた。
その為、他大学の学生、とりわけ本郷にある官僚養成大学の学生が最前列から4番目あたりまでを占めていた。
のんびりした中大生はいつも中ほどから後方に追いやられていた。
それでも、Si教授の講義では毎週最前列廊下側の席を死守した。
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当然のことながら、4年生で初めて受けた大学院の試験は見事に不合格となった。
だが、ある日のSi教授の講義の時、先生が教室に入るなり私の机にメモを置いた。そこには簡単な走り書きで「ド〇〇、刑〇〇、刑訴〇〇」とそれぞれ数字が書かれていた。不合格となった試験の得点だった。
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およそ合格できる数字ではない。だが、それより驚いたことは、大学にはこういう先生がいるのかということだった。再び感動した。
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私は勉強した。とりわけドイツ語はOさんが特訓を受けているという民法のKa先生の特訓に入れてもらうことにした。
刑法も勉強した。その甲斐あってか5年生の時、一次試験に合格した。
それほど親しかったわけではないHa先生が「オ~、君かぁ~、頑張れよ!」と偶然会った中庭で肩を叩いてくれた。
Oさんのゼミの先生である。嬉しかった。
後日談だが、私はOさんの「オッカケ」だとOさんの先生方には思われていたらしい。一次だけでも受かってよかった。
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二次試験は口述試験である。会場はそれまで入ったことがなかった建物にあった。大きな広間だった。会場には大きめの机がコの字型に広く配置されていた。
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試験を担当する先生方はそれぞれの科目がかかれた机の向こう側に座っていた。
受験生は係の人の指示で自分が受ける科目の先生の机の前に座るのである。
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私の順番が来た。係の人の指示でSi教授の前に座った。入り口からそこまでの距離が非常に長く感じた。
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何を聴かれ、何を答えたか全く覚えていない。しかし、一つだけ、専門科目とは直接関係があるとは思えない日本語の使い方について指導を受けた。後々このことが非常に重要なことであったと記憶に残っている。
このときは最終合格には至らなかった。
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5年生になったのは大学院の受験のためであった。留年という負の認識は全く無かった。
4年生の時、「私の単位を落としてください。」と必修科目を担当していたあのOs先生にお願いに行ったことがある。「もともと落ちてるよ。」とニコニコしておっしゃっていた。そういう先生がいるこの大学が私は大好きだった。
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5年生の終、1978年(昭和53年)3月、私は中央大学を卒業した。
進路は決まっていなかった。
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そして、この同じ日、中央大学は駿河台校舎の閉校の日を迎えた。
私達は駿河台の最後の卒業生となった。(つづく)
※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。