退屈男の愚痴三昧

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先生との出会い(4)―アンチョコ―(愚か者の回想四)

2020年10月01日 17時13分40秒 | 日記

先生との出会い(4)―アンチョコ―(愚か者の回想四)

「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。

 私は体育が嫌いだった。いや、体育が嫌いというよりは走り回るのが嫌いだった。息が切れるのだ。とりわけ冬場は息が切れるとそれが引き金になってぜんそくの発作を起こすことがあった。喘息発作の経験がある人ならば分かると思うが、それはそれは苦しいものだ。しかし、当時はまだぜんそくという言葉に私の周辺の人は馴染みが無かった。喘息発作を起こすと咳き込んだときに嘔吐することもある。そこまで至らなくても始終ゼイゼイと気管支から音が聞こえる。

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 5年生になると奉仕活動と呼ばれる特別活動が始まる。奉仕活動とはいえ何のことはない。毎日する掃除以外の校内の清掃活動だ。下級生にはできないので上級生がやる。これをやることが上級生の誇りでもあった。

 鳥小屋の清掃や体育倉庫の整理、家庭科室や図工室の教材の整理だ。私は体育が嫌いなくせに体育係に手を挙げた。5年生から始まるクラブ活動が体操クラブだったからだ。自分たちが使う体育倉庫の清掃は自分たちがやるべきだと感じていた。

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 ところが、「H君はぜんそくだから無理よ。」とYN先生は、いとも簡単に否定した。私は泣いた。このとき初めてクラスの児童は「ぜんそく」という言葉を知った。私の身体から時折聞こえるゼイゼイという音の原因が「ぜんそく」だということも知った。

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 その後、教室に備え付けてあるスピーカーの具合が悪く放送が聞きづらいときがあった。誰ともなくそのスピーカーは「ぜんそく爺さん」と呼ばれるようになり、早晩私もぜんそく爺さんと呼ばれるようになった。

 YN先生は教室にいて私がそう呼ばれているのが聞こえているのに、私を「ぜんそく爺さん」と呼んで囃し立てる児童たちには何も言わなかった。

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 中学生になった。小学校より少し遠いK中学校に通った。周辺の複数の小学校から生徒が集まるのでクラスは9クラスほどあった。

 ここにもいじめっ子はいた。しかも、小学校の時、いじめられていた児童が他校から来た生徒とつるんでイジメる側になっていた。

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 あいかわらず私は普通の生活をしていた。普通に学校に通い、普通に授業を受けていれば普通の成績が取れて普通に高校へ行かれるものと考えていた。

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 ところが、一年生の時からつまずいた。英語だ。国語や社会はあらかじめ読めばある程度は分かる。だが、英語はそうはいかない。読めない。母に相談すると、「ちゃんと授業を聴いていれば分かるわよ。」というのでちゃんと授業を聴いた。しかし、分からない。英語の先生が何を言っているのかさっぱり分からなかった。そんな状態なのに、あっと言う間に中間テストの日が来た。とはいえ、単語の意味を書いたり、会話文の穴埋めだったり、同じ発音をする単語を選ぶ問題だったので難しいとは思わなかった。しかし、点数は良くなかった。一学期の成績は小学校の時と同じくオール3だった。

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 二年生になると状況は大きく変わった。難しい。どの教科も難しい。数学に至っては先生が言っていること自体が分からない。英語のときと同じだ。

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 私は他人の行動には関心を持たない性質(タチ)だった。小さい頃から、「他人(ヒト)は他人、自分は自分。他人と比べるな。」と言われて育ったので他人が何をしていようと気にすることはなかった。

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 ところが、ある日、掃除当番で机を運んでいると机の中から本が床に落ちた。見ると英語の教科書だった。否、表紙は英語の教科書とそっくりだが教科書ではなかった。教科書の3倍くらいの厚みのあるものだった。開いてみると教科書の内容の説明があった。アンチョコであった。今はアンチョコとは言わないのか。教科書ガイドである。このとき初めて教科書ガイドの存在を知った。落ちた机にその本を戻し掃除当番を終えた。何か見てはいけないものを見てしまったような気がした。しかし、自分だけ違う世界に取り残されているような気もした。

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 次の日の授業から、少しまわりの様子を窺うことにした。そして初めて他の複数の生徒の授業の受け方を知った。私の机の上には教科書とノート、鉛筆、消しゴム、下敷き、筆箱がある。他の複数の生徒の机の上にはこれら以外にあの時見たアンチョコがあった。アンチョコを見ながら授業を聴いている。アンチョコは開いた教科書とノートの下にあるので上から見ただけではそれがあることが見えない。巧みだ。中には先生が言った要点をアンチョコに書き込むものもいた。

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 どうしたものか。考えた。何となく見ちゃいけないものという感じがしていた。しかし、あれがあれば教科書の内容は分かる、かもしれない。逡巡した末、母に切り出した。

 「あのさぁ~。参考書みたいのがあるんだけど。買ってくれるかなぁ~。」

 「何、その『参考書みたい』というのは。」

 「訳と答えが書いてあるんだけど、なんていうのか分からない。」

 実際そのときはアンチョコの一般名詞を知らなかった。あの本の表紙には「教科書の友」と書いてあったような記憶がある。

「あぁ~、虎の巻ね。」

「『虎の巻』」と訊き返した。

「あれは『虎の巻』って言うの。答えが全部書いてあるの。昔からあるわ。それを買ってどうするの。」

 この問には答えに窮した。

「授業がよく分かるようになるよ。」

「授業がよく分からないのは授業をよく聴いていないからでしょ。それに答えが全部書いてあるものを見て勉強してどうするの。それはカンニングと同じでしょ。」

 いよいよ戦況は圧倒的に不利。ついに、「授業をしっかり聴いていれば分かるようになるからしっかり聴きなさい。」と、決定的な一言で終わった。

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 このときも、ただあれを買う金が無かっただけのことだった。教科書に比べるとずいぶん高かったと記憶している。

 しかし、「授業をしっかり聴いていれば分かる」という母の一言は重かった。やむなく授業をしっかり聴くことにした。

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 ところが、このとき初めて気づいたが、授業中なのに教室内は騒がしかった。先生もことさら注意するということも無かった。授業をしっかり聴き続けた。しかし、何も分からなかった。そして、何も残らなかった。この状況は数学でも同じだった。結局、中学三年生の時、英語7点、数学0点ということになった。虎の巻は一部の生徒の間で共有されていた。しかし、当然のことながら私には回っては来なかった。

 普通に勉強していれば普通に高校へ行かれるものと考えていた。だが、中学3年の二学期が終わる頃、そうではないことが分かった。

 進路指導で、受験する高校は普通科ではなく工業高校だということになった。それでも、公立なので我が家でもなんとかなりそうだった。しかし、その工業高校に確実に入学できる保証はなかった。そこで、すべり止めに私立の普通科高校を受験することになった。

 初めての受験だったが合格した。もっとも、一緒に受けた生徒は名前しか書かなかったのに合格した。

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 私立高校の入学手続をしなければならなかった。しかし、おきまりのことだが入学手続の期限は公立高校の合格発表の前日であった。初年度納付金の内、入学金の50,000円を期限までに納めなければならなかった。

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 K工業高等学校には電子科が一クラス、電気科が一クラス、機械科が三クラスあった。私は電子科を受験した。

 合格発表まで間があった。私立の入学手続のため父から50,000円を用意したと言われた。しかし、それに続けて父は妙なことを言った。

「公立に受かったらそのカネはお前にやる。」

 ずいぶん気前のよい話だ。しかし、公立と私立では納付金の額が格段に違う。在学三年間を考えたら50,000円を私にくれても公立の方がはるかに安い。だが、入学金を納めず公立高校に合格できなかったら行くところが無くなる。高校浪人をするほど家は裕福ではない。私も高校浪人をする器ではない。しかし、このときの50,000円は大金であった。

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 これはバクチだった。

(つづく)



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