先生との出会い(5)―機械科3組―(愚か者の回想四)
「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。
工業高校の合格発表の日、私はめまいがして中学校の医務室で横になっていた。
一緒に受験した生徒から連絡が入った。
不合格。補欠の11番。
担任のE先生は、「H君、工業は残念だったけど、私立に受かっていて良かったねぇ~。」と安堵した様子でニコニコしながら私に話しかけてきた。
「入学金、納めてません。」
E先生のニコニコが消えた。
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「どうすんの。行くとこ無いよ。」とE先生。
めまいが収まり歩けるようになったので、E先生と職員室へ行った。
「SH先生、H君は私立の方、入学金収めてないそうです。工業は補欠の11番だそうです。」とE先生。
「ダメだな、11番じゃ。」と、学年主任で進路指導のSH先生は困ったようにつぶやいた。
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真っ暗だ。
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その日の夜、父と母に報告した。
「まぁ、仕方ないわね。」と母。父は沈黙。
意外に両親とも冷静なのには驚いた。
ところが、数日後、「機械科3組なら入れる。」とE先生に言われた。
機械科3組。
機械科3組。
機械科3組。
何度も頭の中で繰り返した。電子科が何をするのか知らない。しかし、電機や機械よりは良いかと何となく感じていただけだ。
機械科である。
もはや私に選択の余地はなく、私は嫌々ながら、嫌々ながら、嫌々ながらK工業高等学校機械科3組に入学することになった。だが、これが私の人生を劇的に変えた。
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1969年(昭和44年)4月、私は東京都立K工業高等学校機械科3組に入学した。結果として公立高校に入学したわけだが50,000円はもらえなかった。この頃から父の言葉を信じなくなった。
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誰も否定も肯定もしないが、電子科、電気科、機械科1組、2組、3組は成績順に振り分けられていた。私は機械科3組。
小学校の頃から自分を普通で優秀だと何の根拠もなく勝手に信じていたが、それが正しくなかったことを自覚した。まぁ、当然のことだ。普通で優秀なものが英語7点、数学0点は採らない。
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機械科3組に集まったものは、しかし、明るかった。
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初めて履いた革靴が嬉しかった。しかも、上履きに履き替えずそのまま教室に入ることになっている。中学では考えられない。
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制服も真新しく新品の洋服特有の匂いがした。
手提げかばんは黒の革製。光っていた。
すべてが新鮮だった。
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伝統ある高校らしく建物は鉄筋鉄骨3階建。外壁は白。校歌の歌詞にある「白亜の殿堂」とはこの校舎を指していた。
廊下の天井は高く、長く伸びる廊下は、見たことはないが、映画に出て来る宮殿を思わせた。
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入学式を終え、教室に入った。そういう生徒が集まっている割には、皆、頭が良さそうにみえた。笑顔があふれていた。
座席は出席簿順に指定してあった。隣の席の生徒と言葉を交わした。理由なく楽しくうきうきしていた。
そして、私にとって人生を変え、生き方を変えた第一回のホームルームが始まろうとしていた。
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間もなく長身の男性が大股で教室に入って来た。鼻筋の通った美男子だ。初めてなので、「起立、礼」は無かった、と記憶している。名をS.F.という。生涯、最大の恩師となった。
「君らの担任のFだ。これから3年間、君らと一緒に過ごす。よろしく。」
いい声だ。後に分かるのだが大学時代はコーラス部にいたそうだ。校歌指導ではリーダーをしていた。
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「はじめに言っておく。君らには将来は無い。45歳、長くて50歳。定年退職でウエスのように捨てられる。それが嫌だったら大学へ行け。」
澄んだ通る声が響き、教室内がシーンと静まり返った。
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だが、シーンは長くは続かなかった。
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ほとんどの生徒はこの深刻な言葉を聞き流した。
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卒業して30年くらい経っただろうか、S.F.先生を囲んで機械科3組の4~5人が初めて集まった。
皆、高等学校や中学校の校長や教頭の職に就いていた。それぞれが自分こそ出世頭だと自負していた。あの機械科3組から校長、教頭である。大出世だ。
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言い難いことだが、機械科3組に集まった連中は底辺だった。学習意欲なぞほとんどカケラも無かった。
全員が教室に揃ったのはあの入学式の日のホームルームの時だけだった。
通学路の途中にある喫茶店でアルバイトをしているヤツ。
繁華街を抱える大きな駅の前で甘栗を売っているヤツ。
二年生の時だっただろうか、自殺したヤツもいた。
朝のホームルームで出席をとるが、一時間目が始まる頃には42人いるはずの教室には30人くらいしか生徒は残っていなかった。
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入学したとき教科書の束を見て不思議な気分になった。その後も教科書の顔は中学校の頃とは全く違っていた。
その一団の教科書はグレーの表紙で、そこには「応用力学」、「原動機」、「材料力学」といったよく分からない文字が並んでいた。
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数学や英語といった普通の教科書はマイナーだった。ちなみに、英語の教科書は薄いものが各学年で1冊だった。通学する電車の中で、近くの高校の生徒らしい集団がテストの話だろうか、声高に話しているのが耳に入って来た。
「今回のコンポは難しかったね。」、「グラマーもヤバかった。」
コンポって何だ?グラマーってあのグラマーか。女がそんな話を電車の中でするのか。訳が分からなかった。
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こんな調子である。「大学へ行け」と言われても取り付く島が無かった。それでも勉強したのだろう。そうでなければ、あの機械科3組から高校や中学校の校長や教頭の職に就くことは考えられない。大出世だ。
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「何でHが大学の先生やってんの?」
一ぱい入って饒舌になったAが冗談交じりに不満げに言った。Aは某中学校の教頭の職に就いていた。
「A!お前の方ができた。安心しろ。人それぞれだ。」
S.F.先生がAをなだめた。Aは常に私よりクラスの上位にいた。ちなみに、高校の通知書には席次欄があった。一年の時はクラスで8番だった。
「大学って言っても三流大学の三流教員だよ。」
その時は謙遜ではなく腹の底からそう思ったのでそう答えた。今はそうは思っていない。
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私があの時のことを話すと、「感じ取ったのは君らだけだ。」とS.F.先生が言った。ほとんどの生徒はあの深刻な言葉を聞き流していた。
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学習する科目と教科書があの状態なのだから逆立ちしたって大学なぞには進学できない。私はそう思っていた。
しかし、大学には行きたいと思った。大学入試に必要な科目を調べた。英語ⅠB(ⅡB、ⅢB)、数学Ⅰ、数学ⅡB、数学Ⅲ、英語B、物理B、化学B、世界史、日本史、古文、漢文、現代国語、その他。自分が持っている教科書たちの中には数学Ⅰしかなかった。この状態は3年生まで変わらなかった。「B」の意味も分からなかった。
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どうすればいいのだろう。当時でも、高校の成績が良ければ推薦入試という枠があった。実際、親が工場を経営している生徒で、旋盤を一台売り、金をつくって推薦で大学に入ったヤツがいた。当たり前だがH家にはそんな金をつくる手だてはない。今でいう一般入試で合格するしか道はなかった。
そのためには入試に必要な科目を勉強しなければならない。書店に行って訊いたが教科書は扱っていないとどの店でも断られた。参考書はいくらでも並んでいる。しかし、教科書が無ければ参考書だけを見ても意味が無い。虎の巻事件も尾を引いていた。
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仮に、入試に必要な科目の教科書があっても、それで勉強できるのだろうか。また、それで勉強できたとしても、本来の工業科目が疎かになり成績は下がる。成績が下がれば大学には入れないだろう。どうすればいいのだろうか。真剣かつ無駄に悩んでいるうちに二年が過ぎ三年生になっていた。結局、あれこれ夢を描いていただけで勉強なぞしてはいなかったのだ。
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当時の工業高校を知る人ならば想像がつくと思う。当時のK工業高校には男子生徒しかいない。したがって、生徒達の関心は極限定されたことに集中していた。機械科3組の話題は実にバカバカしい。喧嘩と〇だけだ。〇の内容をここで文字化することは事柄の性質上、控える。大体そういうことであった。環境のせいにするのは卑怯だが勉強をする環境では全くなかった。ちなみに、道路側の席の生徒が外を歩く女性を見つけると「おねぇ~ちゃ~ん。」と声をかけた。この声で生徒全員が窓に群がり顔を出し、声を掛けたり手を振ったりしていた。私は出遅れ窓にたどり着けなかった。授業が成り立たなくなった。
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そうは言うものの、夢は捨てきれず教科書の入手方法を模索した。3年生にもなれば校内の様子は概ね知り尽くしていた。そこで、たぶんあるだろうと思い体育館の奥の倉庫へ入った。やはりあった。業者から内容見本として送られて来た教科書が無造作に山積みになってホコリをかぶっていた。
大学の入試案内に書かれていた科目の教科書を拾い出し、一応、責任者らしい先生の許可を得て家に持ち帰った。
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今にして思えば、あまりにも悲しく愚かな行動だ。教科書だけでその教科の学習ができるはずもない。しかし、当時の私はできると思い教科書を自宅に持ち帰り開いた。大学入試に必要だとされる科目のどの教科書を開いても全く分からなかった。かろうじて日本史と世界史は読んで分りそうだった。しかし、やはり挫折した。漢字が読めなかった。
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高校の三年間は部活と実習の日々だった。実習は工業高校だけあって大きな比重が置かれていた。3年生になると毎週一日7限授業があった。1限は学活。2限から7限までが実習であった。「今日は残業の日だ。」と皆が言っていた。
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実習は、4種類の内容を3年までに数回交替で順番に行った。手仕上げ、鍛造及び鋳造、溶接、旋盤である。その他の金属工作機械の初歩的な操作もできるようになることが実習の狙いだった。
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鍛造では教諭の目を盗んで刀も作った。金属ヤスリの焼きを戻し叩き直して成形し再度焼きを入れる。材料が鋼なのでよく切れた。持ち歩くことはしなかった。法律に違反する。
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鋳造では溶かしたアルミを砂型に流し込み円盤をつくった。アルミは何度も溶かし繰り返し使えるので何度もやった。うまくはいかなかった。
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手仕上げとは金属加工の仕上げを手作業で行うことである。中でも金属ヤスリの技術は非常に重要で難しい。丸棒を正四角形の文鎮に加工する作業で練習した。
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各種工作機械のすり合わせ面を加工する練習もした。木工用の彫刻刀と原理は同じだがダイヤモンドチップを挟んだ特殊工具を使って金属を手で削る。いずれも完成したときの感動は言葉では表現できない。
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溶接実習ではアークとアセチレンをやった。スポットもやったが実用的ではなかった。
全員が溶接技術者の資格試験を受験し合格した。私も合格した。あの資格証は今でも有効なのだろうか。有効ならば溶接工場で働きたい。アークは下手ではなかった。
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とは言え、こうした日々が続くと手に付いた油は工業用せっけんで洗ってもなかなか全部は取れなくなっていた。特に爪の間に入った油は風呂に入っても取れないことがあった。髪の毛や身体には実習工場の匂いが染みついていた。
(つづく)
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