イジメ自殺で記者会見に応じる学校関係者が、「イジメがあったとは承知していない。」とか「イジメがあったとは認識していない。」として「知らなかった」と応答する場面をテレビでしばしば見ます。
しかし、あながち「逃げ」ではないのかもしれないなと思えるときもあるのです。
上記の「消しゴム貸して事件」は特異ではなく頻繁に起きそうな気がします。
そして、Bさんだけで止まればA君が自殺するなどという悲劇には至らないかもしれません。
しかし、上記の「消しゴム貸して事件」よりも悲惨な状況が生じた場合、A君はさらに深刻な選択を迫られるのではないでしょうか。
しかし、学校関係者、とりわけ先生には事態の出発点が見え難いのかもしれません。
(justiceの視点から眺める「消しゴム貸して事件」)
さて、ところで、この「消しゴム貸して事件」ではもう一つ、法学の大原理であるjusticeの問題が提起されているのです。次にこの問題について簡単にご案内いたしましょう。
justiceを日本語で正義と訳しているのは周知のとおりですが、ここではjusticeの文字のままご案内したいと思います。
その為にはjusticeと正義の違いについてお示ししておく必要があるでしょう。
我が国では一部の専門家を除くと、justiceの概念を口にする人は少ないようです。
ましてや正義を話題にする学者も多くは無く、学者の中にも正義を話題にすると、「世界観によって正義の内容も変わるから」と言って「正義(=justice)」を法学の基礎とすることに懐疑的な人もいます。
justiceが正義という日本語になると概念内容が曖昧なものだとされる傾向があります。
したがって、私はこの種の議論に入るときは「正義」という文字列ではなくjusticeを用いることにしています。
「正義(=justice)」を法学の基礎とすることに懐疑的な人がいるとはいえ、日本国憲法の思想的かつ理論的背景にAnglo-American Legal System(英米法系)という法体系があることに争いはないでしょう
そしてjusticeはこの法体系の中核となる概念だとされています。
(つづく)
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