4.「これで行こう。」面倒くさい事をやっても無駄だ。そもそも、不器用な自分には橋渡しなぞできない。それならば自分の好きなことでつながりを探せばいい。そう思った。
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私は御神輿を担ぐのが大好きだ。嫌がらせ人事で「お前、C-Choへ行かないか。」と言われとき、「やったね!」と思った理由がこれだった。
このときすでに私は東京で御神輿を担いでいた。同好会にも入っていた。その同好会のつながりでこの町のすぐ近くにある町まで毎年御神輿を担ぎに来ていた。そのこともあって、「この先の町に、ものすごい御神輿がある。」ということは聞いて熟知していた。一年の内、半分以上、どこかしらで御神輿が上がっている町。それは御神輿好きにはたまらない環境なのである。
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ここの担ぎ方は独特だ。私が知る東京の担ぎ方は、棒の下に入ったならば自分の肩の高さまで上げるのが原則だ。腰を折ったり肩を落として棒に触っているだけならば抜ける。それが作法だ。もちろんそういう輩もいる。しかし、いわゆる担ぎ屋はそういう輩を冷たい目で眺めている。
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私が担ぐ位置は後だ。これは先輩や仲間の担ぎの哲学に惚れ込んだからだ。
私がお邪魔に上がる御神輿には前後に通した4本の担ぎ棒がある。呼び方はいろいろだが御神輿の本体から延びる棒を本棒または真棒(または心棒)、その両脇に位置する棒を添え棒または舵棒と呼んでいる。
御神輿渡御で一番目立つのは右肩で担ぐ前の添え棒だ。車道を進む御神輿渡御は道路交通法上車道を使用するデモと同じ扱いになる。つまり軽車両の範疇に入る。したがって、通行規制が入っていないときは道路の左端を通行しなければならない。このため歩道から見物する人々の目に映りやすい右肩で担ぐ前の添え棒に人気が集まる。しばしば棒の取り合いが起きるというのはこの棒である。
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御神輿を担ぎ始めた頃、私がいた同好会は前には行かなかった。他のメンバーも徹底して後棒にこだわっていた。はじめその理由がよく分からなかった。前棒では揉め事が絶えないので、あえて後に徹するのかと勝手に考えていた頃もあった。
しかし、次第にその理由が見えてきた。後棒を担ぐ人には特有の雰囲気がある。それはあたかも「この神輿を支配しているのは自分達だ」と誇るような様子だ。実に良い。
実際、御神輿渡御を眺めるとそれがはっきり分かる。後棒を担ぐ人が弱いと御神輿が定まらない。安定して進まないのだ。
しかし、後棒がしっかりしていると、多少前がふらついていても御神輿は安定して進む。小柄な人や女性が形だけ触っていたり、時にはぶら下がっている人がいても後棒がしっかりしていると御神輿は安定して進む。とりわけ後棒もその一番後ろ、つまり端が安定すると御神輿はみごとに安定する。
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ところが、この町の担ぎ方は独特だ。肩まで上げるはずの御神輿を、肩まで上げたあと棒を肩に背負ったまま何度もしゃがみ込む。そしてその後再び肩の高さまで上げのである。これはキツイ。しかし、楽しい。聞きしに勝る醍醐味だ。
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この町の御神輿の世界にどうやって入っていったらいいのか。つながりは全く無い。東京では同好会同士で招待したり招待されたりして担げる場所を増やしてゆく。新たな場所へは、それに先立つお祭で知り合いになることから開拓される。したがって、御神輿渡御の場所は非常に重要な意味がある。不作法なことをすれば担げる場所が激減する。
私は以前同好会にいたがその後離れ単独で行動していた。「単独」とは言っても同好会時代に親交があった仲間が声をかけてくれるので遊びに行けるに過ぎない。御神輿の世界は単独で飛び込めるほど容易いものでは決してない。
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ところが、ここではつながりはゼロだ。もとより仲間もいない。少し離れた町には同好会時代の知り合いがいるが、私が見る限り、こちらではそうした交流は無かった。
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そこで、開学に伴い役所と大学のつなぎ役をしているSさんに「この町の御神輿を担ぎたい。」と切り出した。「良いですよ。」と思いがけず軽い返事が返ってきた。これは奇跡か偶然か。この人は市内のある寺の檀家様であった。そして、その寺を置くM宮様では一年に三度、御神輿渡御をしており、Sさんはその渡御の役員でもあった。私が御神輿を担ぎたいと願い出たお祭は毎年8月に開催されるパレードであった。そのパレードでもこのM宮様の御神輿は渡御していた。
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話は進んだ。私は学内で学生諸氏に向け「担ぎ手募集」を行なった。私個人ではなく大学のサークルとして学生が参加するという形式を採りたかった。
開学初年度の大学は皆活き活きしていた。職員も敏腕なものが揃っていた。「担ぎ手募集」の掲示も迅速であった。
しかし、私には大きな試練が待っていた。(つづく)
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