●歩いた日:2018年9月2日(日)
●歩いた所
・北楢岡:町頭、下新屋、布田谷地、北楢岡、金助谷地、沖田、一本木、小山田、沼の上
●歩いたログ(足跡)(道のり5.7km)
(以上の地図:国土地理院)
街の南側外縁を通る道をさらに東に進んで県道につながる道との丁字路を過ぎると、道左側の家並みは「町頭」である。道が左に大きくカーブするところから河岸段丘の下へくだる道があり、その道を少しだけ下りたところでカメラを取り出す。
📷012:「町頭」から「下川原」を望む
写真中央に、写真を撮った位置から延びる河岸段丘が写っており、その上下ではかなりの高低差があることがわかる。段丘下の低地は、かつては「雄物川」の氾濫原であったと思われ、その字地名は文字通り「下川原」で、今は一面に田んぼが広がる。
奥の木立が「旧羽州街道」の古い道跡沿いの杉並木で、その真ん中辺りが車を止めた場所。木立から左手に進んで県道に出て、白いガードレールがある辺りからこちらを望んだのが📷001の写真である。
右手に杉林、左手に墓地を見ながら道をさらに進むと県道に出る。スタートしてまもなく県道のこの辺を歩いた時に、少し奥まったところに白い標柱があったことを思い出す。それを探しながら西に向かっていくとその標柱が見つかる。
📷013:「町頭」の天明の飢饉供養塔
地蔵堂と思われる小さな建物のそばに立つ標柱には「天明の飢饉供養塔」と書かれている。風化して文字がほとんど判読できない石柱が供養塔である。
このブログの初めの方で触れたが、「北楢岡郷倉跡」が設けられたのは「天保の飢饉」(天保4~10年(1833~39年)頃)がきっかけになったとあった。ここの供養塔にある「天明の飢饉」は、それより50年ほど前の天明2~8年(1782~88年)頃に発生した飢饉である。太平洋側の藩ほどではないにしろ、この辺も大変な凶作に見舞われたのだろう。
県道に引き返し、右手に段丘下に広がる田んぼと、その向こうの青空に聳える「神宮寺岳」、「姫神山」の景色を眺めながら、古い街道跡に止めてある車を目指して歩を進める。
(その8に続く)
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