1600年に行われた関ヶ原の戦いは、その後徳川家康による政権が安定したため、西軍・東軍それぞれに加担した大名たちの260年にわたる運命を決定づけることになった。東軍に味方した諸将は優遇されて所領を増やし、西軍に味方した150名ほどの諸将の運命は惨憺たるものだった。本書はこの150名に焦点を当てて、関ヶ原のあとの各将の行方を決めた処世術や運命の分かれ目になった事柄を分析し、復活を遂げる知恵を探るもの。
信長亡き後に権力を振るう秀吉に仕えることになった家康は、利家との力学を図りながら秀吉の寿命が尽きるのを辛抱強く待っていた。朝鮮出兵で秀吉家臣団の中に大きな亀裂が生じていたのをつぶさに観察していた家康は、秀吉の死後、五大老、五奉行、そして秀吉子飼いの諸将たちを、仲違いさせる方向に舵を切る。家康が豊臣家の置き目をないがしろにするような振る舞いはこうした勢力間に波紋を広げ、疑心暗鬼が生まれていった。石田三成が率いる勢力は家康排斥を進める一方、それに反発する勢力との間で深まった対立もあり、旧豊臣家臣団間の確執が深まる。家康から見れば恰好のチャンスであり、利家の死をきっかけに満を持してきた政権簒奪の決意を固めたと思われる。狙いはまずは五大老の各個懐柔、そして三成勢力の排除である。最後の仕上げは秀吉子飼いの諸将排除であり、関ケ原後も生き残った福島正則や加藤清正も、後には言いがかりをつけられて転封、改易されている。
関ケ原直前の五大老の勢力は、徳川250万石、を筆頭に毛利輝元170万、上杉景勝120万、前田利長83万、宇喜多秀家57万である。利家死去をきっかけに家康は四大老に大坂からの帰国を勧めた上で彼らに難癖をつけ始める。利長には家康暗殺計画があると言いがかりをつけ、芳春院を人質とさせた。上杉景勝には豊臣家への出仕を怠っていると言い、会津征伐に向かった。これは三成挙兵時に豊臣家臣団分断を図ったもの。家康の思惑通り三成が挙兵し、毛利輝元は安国寺恵瓊に引っ張られて大阪城入りをして西軍の総大将に担ぎ上げられた。関ヶ原は毛利と家康との対決であり、吉川、小早川を調略して毛利一族の分断を図る。
戦後、毛利は8カ国を削られ36.9万石となり、上杉は米沢30万石とされた。芳春院を差し出した前田利長は83万から120万石となる。宇喜多秀家は八丈島送り、5奉行の前田玄以と浅野長政は無罪、三成は小西行長、安国寺恵瓊とともに斬首された。長束正家は切腹、増田長盛は高野山へ追放。戦後の論功行賞では西軍に加担した諸将を改易し、全国の34%にもなる所領416万石を没収した。戦国武将にとって戦争でどちら側に味方するかは博打のようなもの。関ケ原以降は徳川幕府が成立し乱世が収まっていったため、主を失った侍たちの再就職は厳しいものがあった。更にその後の大阪城の陣では10万人の浪人が発生することになる。
こうした中で復活を遂げた大名もいた。丹羽長重は加賀小松12.5万石の大名、関ケ原に出陣しなかったため所領は没収されたが、戦闘指揮に秀でていたことを評価され陸奥四郡で10万石に返り咲く。立花宗茂も西軍加担したため所領没収されたが、武将としての力量が家康に認められ柳川に11万国で返り咲く。滝川雄利は伊勢3万石を失ったが、その見識を評価されて家康お伽衆に召し上げられ、常陸に2万石を与えられた。本書内容は以上。