「徒然草」の作者兼好法師は、平家物語は後鳥羽院の御代の信濃の国の国司を務めた経験者で学識豊かな行長という人物が作者だと記した。平家物語成立後100年ほどの記述なので証言としては有力だが、信濃の国ではなく行長という人物は下野の前司は実在した。平家物語の作者として必要な知識や条件は次の通り。都の知識人、朝廷や宗教界、特に比叡山の情報に詳しい、歴史に関心が深いなどを考慮すると、行長である蓋然性は高い。行長の父である行隆は実務官僚として平家全盛時代に朝廷に精勤していた。朝廷の事情に通じ、平家物語の中にも登場する。比叡山延暦寺で天台座主に4度なった慈円は、保元の乱以降の戦乱の犠牲者を供養している。承久の乱直前には後鳥羽院を諌めようと愚管抄を書いて日本歴史を振り返り、当時の危機的状況を見つめている。そうした慈円の元で行長が庇護されていたとしたら、上記の条件を満たしていると考えられる。
合戦や武芸などの武的側面の記述については、東国で平家語りをしていた盲目の生仏や東国の武者たちに問い聞いたとする。琵琶法師として平安時代に広まった人たちは、琵琶を伴奏楽器として歌や物語を演じ暗誦していたが、彼らもこうした話を見聞きしたという。
承久の乱の直後の成立したという平家物語は、平清盛を中心とした平家一族の興亡を描いた50年ほどの物語で、諸行無常という仏教思想に基づく心理から、盛者必衰という人間の生の哲理、格調高い巻頭の言葉は有名。中国と日本の反逆者の例から平清盛の登場を導き、清盛という反逆者と平家一門の興亡物語が始まる。最初の登場人物は清盛の父、忠盛。公家社会へ進出、闇討ち計画を未然に防いだ話から始まり、忠盛の死後、熊野の加護を受けて清盛は太政大臣にまで至る。物語は一族が日本の大半を支配し、その後壇ノ浦に沈むまでを描き切る。最後の段では建礼門院が都を追われて寂光院にて静かに暮らし亡くなるさまを描いて物語は幕を閉じる。平家滅亡を逆算するように描く物語であり、栄華の記述よりも、平家一門それぞれの最期が詳しく描かれるのが特徴。琵琶法師が語るそうした悲劇的な最期は聞く者の胸を打つ。本書内容は以上。