釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

74.『光る淵の 其処につどはす三世(みよ)の仏・・・』

2012-07-25 12:06:45 | 釋超空の短歌
『光る淵の 其処につどはす三世(みよ)の仏 
   まじらひがたき、現身(うつしみ)。われは 』
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私は時々、不可解に思うことがある。生まれる前は知らず、私が死んだ後は永遠の時間があると思われる、ということ。 ニュートン力学にドップリと浸かっている私は、一凡人の感覚として、時間は昨日から今日、明日へと一様に流れていると正直なところ実感している。いや量子力学だの、##宗教だの、**哲学だのは、そんな素朴な時間感覚を嗤うに違いない。しかし嗤われても、皮相な科学盲者の私は正直な通常の生活感覚として
時間は未来へと永遠に続いていると感じてはいる。
しかし・・・
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数学の、ある一般読者向けの本で、こういう記述がある。実無限 ( 無限そのもの )に関連しての話である。

『たとえば、時間という概念をとりあげてみよう。このとき、いくらでも (indefinity)長い時間を考えることはできる。しかし「永遠の時間」というのは言葉の綾(あや)であって、時間としての意味はない。』

ここで「言葉の綾」という表現が出てくるが、この言葉は確か大数学者ガウスが、無限について語ったときの表現だと私は記憶している。かの大ガウスは無限というものは、「いくらでも大きくなるor 小さくなる」ことについての「言葉の綾」だと言ったのである。

( しかし、後年、数学者:カントールは、数学的な実体としての無限そのものを厳密に数学的対象にした。それは恐らく数学史上の大革命の一つだろう。無限は単に「言葉の綾」ではなかったのだ。 )
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掲題の釋超空のうたから私なりに迷想するのは、私が死んだ後の「永遠の時間」についである。私が死んだ後にも、明らかに、時間が永遠に続くとは単純に私は思う。

何億年も、何百億年も、あるいは、この宇宙が消滅し再生するとして、更に、それが永遠に繰り返される後にも、私の死後の時間は続くと単純に連想する。そういう意味あいから、私は、私の死後は時間を文字どおり超越している存在となる。痛快ではないか!!
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ここで、「言葉の綾」に話が関連してくる。
私の死後の「永遠の時間」とは、つまりは「言葉の綾」に過ぎず、実は私の死後の時間というものは、もはや時間ではないのかも知れない。換言すれば、私は別次元の時間へと跳躍するのだろうか。涅槃などという世界は如何なる世界か私は知らない。もしかしたら、私は死後、「言葉の綾」ではない「実永遠の時間」へと入りこむのかも知れない。

そして、この今生の時間は、もしかしたら、「言葉の綾」の「時間」に過ぎないかも知れない。果たして「実無限」が実体としてあったように、「実時間」も実体としてあるのだろうか。あるいは、結局、今生は胡蝶の夢か?
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蛇足:私は釋超空のうたが好きである。素人の特権として私は釋超空のうたから迷想・珍想するのも好きである。賢明なる諸兄諸姉よ乞許。

73. 『犬の子の鳴き寄る声の・・・』

2012-07-04 11:58:16 | 釋超空の短歌
『犬の子の鳴き寄る声の 
      死にやすき生きのをに思ふ恋は、さびしも 』
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私は以前より掲題のうたが気になっていた。

しかし、無学な私はこのうたの、『生きのを』を理解できなかった。
そこでネットで、この意味を訊いてみた。そしたら丁寧な回答をいただいた。
回答をしていただいた方の解説を、ここに引用しようと思う。

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ここでいう “を” とは「緒」のことであり、
“生きのを=生きの緒=息の緒”
と捉えて良いと思います。

“生きの緒”を「息の緒」としても歌の意味は変わりないと思います。

また、「緒」と「息」どちらにも“命”“生命”という意味があり、「緒」には “そのもの” という意味があることを考えると、 “生きの緒(息の緒)” とは正に「命そのもの=生ある存在(犬の子)」を指していると言えると思います。

また、ここで “生き” の字を当てたことで、それと対を為す「死」をより強く読み手側に意識させることとなり、リアルに “死にやすき犬の子” に思いを巡らせることを可能にさせています。 そのことが歌にいっそう、切なさ、儚さ、哀れみを持たせています。
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その方は以下のように解説を結ばれていた。

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「犬の子の鳴き寄る声の」の後の空白は、「(哀愁を帯びた声を持つ)犬の子」と「死にやすき生きのを」の関係が同一であることを際立たせているし、感情の高まりと余韻を持たせる効果になっていると思います
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釋超空の掲題のうたに、私の浅はかな感想を付け足すのは要らざる蛇足だろう。
私は釋超空のうたは『供養等』に結局は収斂していくのだろうと素人ながら思っている。
『いきものの』というものの『さびしさ』が『供養等』でも歌われていた。
その『さびしさ』を説明するのは難しい。「寂しい」でもない。「悲しい」でもない。
「哀しい」とも違うように私は思う。

ネットで解説していただいた方に私は感謝する。
私の好きな、というより、尊敬するうたが一つ増えたからだ