釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:『或日の大石内蔵助』(芥川龍之介)

2012-04-26 11:32:16 | その他の雑談
私は芥川の小説で嫌いなものはないが、特に好きなものの一つが『或日の大石内蔵助』。

芥川龍之介の小説での登場人物の心理描写が特に秀逸だと思っているものには、例えば『枯野抄』などがあるが、この掲題の短編での大石内蔵助の心理の、淡い明から淡い暗へと微妙に変化していく描写は、まさに名人芸と言ってもよい。

その心理の微妙な変化は芥川龍之介独特の細緻な( 私は、これを良い意味での江戸小物細工職人の技巧に似ていると常々思っている )文章で、一文字の隙もなく仕上げている。

登場人物の心理描写という点では、やはり漱石の『明暗』が筆頭だと私は思っているが、漱石の心理描写とは又一味違うものが『或日の大石内蔵助』にはある。

その一味とは説明が難しいが、芥川龍之介という作家は良い意味での『作り噺』作家だと私は思っている。

彼の凝り性と思われるものの一つに、接続助詞の『が』がある。

私が読んだ芥川龍之介の全ての文章で、接続助詞として『しかし』は見たことはない。全て『が』である。もし『しかし』を使った彼の文章があったら紹介してもらいたい。

彼の文章感覚として、『しかし』は冗漫で嫌ったのだろう。こういう点が、私の言う江戸小物細工職人の律儀さなのだ。私はこういう職人気質が好きなのだ。私が芥川龍之介フリークの理由の一つは、こういう彼の職人気質にある。

この『或日の大石内蔵助』は、この職人気質が随所に発揮されていて、しかも大石内蔵助の心理の微妙な変化の描写は技巧を超えている。

今まで私はこの短編を何度読んだか分からないほど好きなのだ。ここ数ヶ月は読んでないが、また近いうち読んでみたい。芥川龍之介の小説の良いところは短編だからだ。読みたくなったら直ぐ読める。誠に私向きな作家なのだ。

70.『老いぬれば心あわたゞしと言ふ言(こと)の・・・

2012-04-15 07:29:57 | 釋超空の短歌
『老いぬれば心あわたゞしと言ふ言(こと)の、
            こころ深きに、我はなげきぬ』
***
『心あわたゞし』とはどういうことだろう。
それは人それぞれによって違うだろう。

私は? それをこんなところに書いても仕方がない。
ただ、それは擦り傷が沁み入るように徐々に深くなっていく。
それは『こころ深』いところへと侵食していくのだ。
作者は、どこで、なげいているのだろう。
どこ? それは誰も知らないし知りようがない。

To-morrow, and to-morrow,and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day
To the last syllable of recorded time ・・・

69.詩『春のことぶれ』

2012-04-05 14:02:23 | 釋超空の短歌
『眠られぬ夜のために』という本がある。私は読んだことはないが、この二つめの詩は『眠られぬ夜のために』と副題をつけてもよいように私は思う。

眠られぬ夜この詩は貴方の肩にも、そっと手をさしのべるかもしれない。
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 歳深き山の
    かそけさ。
   人をりて、まれにもの言ふ
  声きこえつゝ
 
  年暮れて 山あたゝかし。
 をちこちに、
  山 さくらばな
      白く ゆれつゝ

 冬山に来つゝ
  しづけき心なり。
 われひとり 出でゝ
  蹈む
   道の霜

 しみじみと ぬくみを覚ゆ。
           山の窪。
  冬の日 やゝに くだり行く
     いろ
      *
あけ近く
   冴えしづまれる 月の空
  むなしき山に
     こがらし つたふ
          
  かさなりて
   四方(よも)の枯山(からやま) 眠りたり。
  遠山おろし 来る音の
    する

    目の下に
    たゝなはる山 みな
            低し

  天つさ夜風
    響きつゝ  過ぐ

  せど山へ けはひ
    過ぎ行く 人のおと
  湯屋(ゆや)も
  外面(そとも)も
   あかるき月夜(つくよ)
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68. 釋超空の歌三つ

2012-04-03 10:38:52 | 釋超空の短歌
『山の夜に 音さやさやし。
    聴こえゐて、夜ふくる山を おもへり。』

『雪ふみて さ夜のふかきに還るなり。
    われのみ立つる音の かそけさ 』
***
作者は民俗学探求の旅の途中、宿をとった。
人里離れた奥山の底の宿である。
夜になった。床に入ったが眼が冴えてくる。
山の音。それが耳に冴えてくる。
寝入ったのいつだったか。
作者は一面雪の原に立っている。
それを遠くから見つめている作者がいる。
***
『風の音しづかになりぬ。
   夜の二時に 起き出でゝ思ふ。われは死ぬなずよ 』

雑談:『前提が偽ならば帰結は全て真』

2012-04-03 09:55:29 | 非文系的雑談

論理学の約束の一つに『前提が偽であれば、そこから導かれる帰結は全て真である』というものがある。

論理にも演算があって命題AとBがあったとき、A+B, A×B等の論理演算結果も定義されていて前者の演算はORとも呼ばれ後者はANDとも呼ばれる。ここらの話は例えばデシダル回路の入門本の最初には必ず出てくる。

この論理演算の一つに、A→Bがあって『AならばB』と読む。
この演算結果は以下のように定義されている。
  A B A→B
  偽 偽  真
  偽 真  真
  真 偽  偽
  真 真  真

この表をじっと眺めていて奇妙な感じがするのは、Aが偽でBが真・偽のとき『AならばB』は真と定義されていることだろう。前提Aが偽ならばBの真偽の如何に係わらず『AならばB』は真なんて、なんかオカシイじゃん!!!

この違和感は、この論理演算(→)を『ならば』と表現していることからきているのだが、論理学では『前提が偽ならば帰結は全て真』なのである!!

我々の世界の基本的な骨格は論理から成立している(勿論、超論理・脱論理等等の曖昧さも有るが)。

しかし『前提が偽ならば帰結は全て真』という論理学的真理も我々は心得ておくべきだろう。何かの議論をするとき、その議論の前提が偽ならば、その議論の結果は、要するに何でもありの空論となることだ!! ここに議論の前提の重要さがあるというわけだ。
***
上記した『AならばB』の違和感について上手く説明した本がある。その本は『現代数学小事典』(講談社ブルーバックス)で、以下のように説明している。

『Aが偽ならばBの真偽に関わらずA→Bが真となるという論理図式は実は我々の日常会話でもよく使われている。(中略)
  “君が天才ならば僕はナポレオンのお袋さ”
この発言者は自分の正しいことを言っていると思っている。そして自分がナポレオンのお袋でないことも知っている。よって全体の主張が真であるためには「君が天才」という命題が偽でなければならない。
相手の言い分Aを強く否定しようとするとき絶対真にはなり得ないなるべく突飛なBをもってきて“AならばB”と言い返すのはよく見られる発想である。』