私は芥川の小説で嫌いなものはないが、特に好きなものの一つが『或日の大石内蔵助』。
芥川龍之介の小説での登場人物の心理描写が特に秀逸だと思っているものには、例えば『枯野抄』などがあるが、この掲題の短編での大石内蔵助の心理の、淡い明から淡い暗へと微妙に変化していく描写は、まさに名人芸と言ってもよい。
その心理の微妙な変化は芥川龍之介独特の細緻な( 私は、これを良い意味での江戸小物細工職人の技巧に似ていると常々思っている )文章で、一文字の隙もなく仕上げている。
登場人物の心理描写という点では、やはり漱石の『明暗』が筆頭だと私は思っているが、漱石の心理描写とは又一味違うものが『或日の大石内蔵助』にはある。
その一味とは説明が難しいが、芥川龍之介という作家は良い意味での『作り噺』作家だと私は思っている。
彼の凝り性と思われるものの一つに、接続助詞の『が』がある。
私が読んだ芥川龍之介の全ての文章で、接続助詞として『しかし』は見たことはない。全て『が』である。もし『しかし』を使った彼の文章があったら紹介してもらいたい。
彼の文章感覚として、『しかし』は冗漫で嫌ったのだろう。こういう点が、私の言う江戸小物細工職人の律儀さなのだ。私はこういう職人気質が好きなのだ。私が芥川龍之介フリークの理由の一つは、こういう彼の職人気質にある。
この『或日の大石内蔵助』は、この職人気質が随所に発揮されていて、しかも大石内蔵助の心理の微妙な変化の描写は技巧を超えている。
今まで私はこの短編を何度読んだか分からないほど好きなのだ。ここ数ヶ月は読んでないが、また近いうち読んでみたい。芥川龍之介の小説の良いところは短編だからだ。読みたくなったら直ぐ読める。誠に私向きな作家なのだ。
芥川龍之介の小説での登場人物の心理描写が特に秀逸だと思っているものには、例えば『枯野抄』などがあるが、この掲題の短編での大石内蔵助の心理の、淡い明から淡い暗へと微妙に変化していく描写は、まさに名人芸と言ってもよい。
その心理の微妙な変化は芥川龍之介独特の細緻な( 私は、これを良い意味での江戸小物細工職人の技巧に似ていると常々思っている )文章で、一文字の隙もなく仕上げている。
登場人物の心理描写という点では、やはり漱石の『明暗』が筆頭だと私は思っているが、漱石の心理描写とは又一味違うものが『或日の大石内蔵助』にはある。
その一味とは説明が難しいが、芥川龍之介という作家は良い意味での『作り噺』作家だと私は思っている。
彼の凝り性と思われるものの一つに、接続助詞の『が』がある。
私が読んだ芥川龍之介の全ての文章で、接続助詞として『しかし』は見たことはない。全て『が』である。もし『しかし』を使った彼の文章があったら紹介してもらいたい。
彼の文章感覚として、『しかし』は冗漫で嫌ったのだろう。こういう点が、私の言う江戸小物細工職人の律儀さなのだ。私はこういう職人気質が好きなのだ。私が芥川龍之介フリークの理由の一つは、こういう彼の職人気質にある。
この『或日の大石内蔵助』は、この職人気質が随所に発揮されていて、しかも大石内蔵助の心理の微妙な変化の描写は技巧を超えている。
今まで私はこの短編を何度読んだか分からないほど好きなのだ。ここ数ヶ月は読んでないが、また近いうち読んでみたい。芥川龍之介の小説の良いところは短編だからだ。読みたくなったら直ぐ読める。誠に私向きな作家なのだ。