釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

76.『汽車の燈は、片あかりおり・・・

2012-08-31 16:14:51 | 釋超空の短歌
『汽車の燈は、片あかりおり。 をぐらき顔うつれる牕(まど)に、夜深く対(むか)へり』
***
だれにも読まれない詩だと言って、君が寂しげに、そっと私に見せたのは、もう何十年も前になるのだろうか。

君はいつも教室の片隅に居た。友人といえるのは私だけだったかも知れない。

最近、私が身辺整理をしていたら、君からもらった『誰にも読まれない詩』がたまたま見つかった。私は君の寂しげな表情を懐かしく思い出しながら、ここに、その詩を紹介しよう。  (誰かに読まれるかも知れないから(微笑))
***
ふすまを あけると げんとおは
  あおい かあてんのなかに ゆれていて

いくつも いくつも
  だれもいない おざしきを とおって
     ほんのんのりと あかるい おへやの ふすまを あけたのです

もやのなかに ひすいが いちめんに ひろがって
               きらきらと わたしの めから あふれ

 ほんのりと あかるい 
   かあてん のなかに
      げんとおは ゆれ

 ひすいは
   あついたまとなって
          ながれおち

 ころころと ころがってゆき

     だれもいない おへやで
       げんとおは ゆれていたのです

***
だれにも読まれないと君が言った詩を書いた紙はもはや黄ばんでいる。
君と連絡が途絶えて久しい。
今でも何処かで、君は寂しげに佇んでいるのだろうか。

だれにも読まれない・・・そう、人生って結局そうなんじゃぁない。
私は君の詩を懐かしく読んだよ。
そして、どいうわけか釋超空のうたも思い出していた・・・

 『汽車の燈は、片あかりおり。 をぐらき顔うつれる牕(まど)に、夜深く対(むか)へり』

雑談:『わが人生の時の時』(石原慎太郎)

2012-08-16 15:14:43 | その他の雑談
私は石原慎太郎の本は、この本と、『わが人生の時の人々』しか読んでいない。
私は特に石原慎太郎のシンパでもなんでもないが、また政治家としての彼には全く興味も関心もないのだが、この『わが人生の時の時』は大変面白く、私の愛読書の一つとなっている。

『時の時』とは、普段の日常生活から遊離した『特別な・特殊な体験をした時』という意味だろうが、この言葉は何処か外国の作家の小説か何かから引用した・・・ということを昔、ある人から聞いたが、その作家は忘れてしまった。(先日、ノーマン・メイラーだと知った。)

この『わが人生の時の時』は石原慎太郎の40件の実体験が、ショートショート風に書かれている。日常の生活の中で不意に遭遇した非日常的体験談であるが、これが実に面白い。

私は内田百けんの、いつかの短編が好きだが、『日常性の中において不意に遭遇する非日常性への疎外感』という点で、この石原慎太郎の体験談は共通している。海が
主題となっているから、今読むには最適な短編集だろう。

彼の体験談は『罔(くら)』くはないが、ある種の不気味さは、内田百けんの短篇と共通したものがある。例えば、『ライター』と題された体験談などは、ちょっと冷やりとした怪異さがあり、この体験談が本当なら( -本当だろうが-)薄気味悪い。

私は怪談噺は嫌いなほうではなく、例えば野村胡堂の怪談集『影を踏まれた女』など愛読していたが、あいにく、この本は紛失してしまった。

怪談は今は最適な季節。ちょっと気味悪い話が好きなかたは、この『わが人生の時の時』を一読してもよいだろう。石原慎太郎という強面の都知事からは、ちょっと予想できない「感性」をこの人に見るだろう。

怪談に話が進んだので、時期はずれだが、私の好きな怖い俳句をここで紹介しよう。
これは実は芥川龍之介が紹介している怖い俳句である。

・池西言水(『点心』より、芥川龍之介)
「御忌(ぎょき)の鐘皿割る罪や暁(あけ)の雲」
「つま猫の胸の火や行く潦(にはたづみ)」
「夜桜に怪しやひとり須磨の蜑(あま)」
「蚊柱(かばしら)の礎(いしずえ)となる捨子(すてご)かな」
「人魂(ひとだま)は消えて梢(こずえ)の灯籠(とうろ)かな」
「あさましや虫なく中に尼ひとり」
「火の影や人にて凄き網代守(あじろもり)」

・芭蕉(『芭蕉雑記』より、芥川龍之介)
    骸骨の画(え)に
 夕風や盆桃灯(ぼんぢょうちん)も糊(のり)ばなれ
    本間主馬(しゅめ)が宅に、骸骨どもの笛、鼓をかまへて
    能する所を画(えが)きて、壁に掛けたり(以下略)
 稲妻(いなずま)やかほのところが薄(すすき)の穂

75.『日のくもり・・・』

2012-08-14 08:32:50 | 釋超空の短歌
『日のくもり ゆふべに似たり。
      ひぐらしや 声みじかくて、ふたたび鳴かず』
***
先日、うちの猫が虫をつかまえてきて、もてあそんでいた。

ときどき、朝、虫の死骸が畳の上に転がっているのを見ることがある。
この猫の仕業であるが、固くなったその小さな死骸を屑籠に捨てるとき、
『いのち』ということを私はふと思ったりする。

もてあそばされた、その虫は未だモゾモゾと動いていた。
私はその虫を捕まえて窓から放り投げたのだが、あいにく雨樋の中に落ちてしまった。
庭の草むらに落ちていたら、少しの間は落ち葉の露で命を繋いだかも知れない。
***
ひぐらしを聞かなくなって、もう何十年たつだろう。
夏の夕暮れに鳴く、あの淋しげな声は今でも耳の奥に残っている。

雑談:『3ポンドの宇宙・脳と心の迷路』(その4)

2012-08-02 14:58:22 | その他の雑談
いままで書いてきたのは、もう20年近い前のこの本の感想文だ。
この本は、著者たちがインタビューした、ある脳神経学者の言葉を紹介して終わっている。著者たちはその神経学者に、こう質問した。

『アインシュタインその他の物理学者は宇宙の法則について思索しているとき、ほとんど宗教的といえるような畏敬を感じたと述べています。脳についてもそのように感じましたか?』

この質問についての、その神経学者の言葉も実に印象なので、それをここに付け足しておこう。

『脳について畏敬は感じませんが、神には畏敬の念を覚えます。わたしが脳に認めるのは宇宙の美とその秩序ですーーー神の現存することの揺るがぬ証しです。私は脳が宇宙のあらゆる物理法則にしたがうことをいま学んでいます。脳は特別なものじゃあありません。それでいて宇宙でもっとも特別なものです。』

何度も書くが、この本が出版されたのは20年以上も前だ。今や脳科学の当時よりも格段に進歩しているだろう。だから、この本に書かれていることには、だいぶ訂正すべきこと、あるいは付け足すことが多いと思う。
しかし、まんざら間違いだけではないだろう。ともかく圧倒的に面白い本であることは確かである。著者たちが、もう一度奮起して、この本の改訂版を出版してもらいたい。特に、この本の最終章の『カオス、ストレンジ・アトラクタ、そして意識の流れ』という主題の更なる進展を是非読んでみたい。

この本の序文『汝自身を知れ』でアイザック・アシモフはこう書いている。
『私たちは脳を用いて脳を理解しようとしている。あるものが、それ自身を理解することは可能か? 脳の複雑さは脳の複雑さを理解できるのか? 』

脳科学は格段に進歩し続けているのだろう。しかし、20年前よりも格段に脳科学の知識は増えているだろうが、もしかしたら更に混迷へと深みに入っているのかも知れない。

私は前記したアシモフの言葉から、なんの脈絡もなくゲーデルの不完全性定理を連想する。人間の脳は自身の脳を完全に理解できるのか? 例えば蛇が自身の尾を飲み込んでいったら最後はどうなるのか?