釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

63.  直面(ひたおもて)に たゝひ満ちたる暗き水・・・』

2011-10-15 13:49:22 | 釋超空の短歌
『 直面(ひたおもて)に たゝひ満ちたる暗き水。
        思ひ堪へなん。 ひとりなる心に 』
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私の本では、このうたの後のほうに以下のうたが掲載されている。

『 暗闇の 雲のうごきの静かなる
        水のおもてを堪へて見にけり  』

このうたの感想は既に書いた(11)が、いったい作者は何に堪えようとしているのだろうか。ともに『水』が表れている。『暗』も表れている。そして『堪へ』も。

この共通の言葉が示しているように、作者は、ある『なにごと』かに堪えている。 それはなんだろう。

短歌のド素人の私が、恥をもかえりみず、このブログを始めて何ヶ月過(た)つだろうか。私の見当はずれな『感想』に失笑されたかたも多いだろう。

結局、私は、なんのために、このブログを書き始めたのだろう。

それは、詩『きずつけづあれ』が発端だった。

そして、この詩の最後は『わが心 きずつけずあれ』で終わっている。

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当時の私は20歳前の若造だったが、思ったものだ。

この奇妙な名前の人の心は、一体、何に『きずつけずあれ』と願っているのだろうか、と。若かった 私は、それが気になったのだった。

今になってみると僅かではあるが、それが分かったような気がする。

やはりキーは『供養塔』にあった。全ては、このうたに凝縮されているのだ。

釋超空の『堪えなんとする鎮痛な心情・孤独』は、やはり『供養塔』で言い尽くされているのだ。

(私はその理由を言葉で説明するのは大変難しい。短歌って、もしかしたら、そういうものかも知れない。万言を使っても己の鎮痛な心情を表せないものの表現手段の一つが短歌かも知れない。)

ここで、やはり『供養塔』を再び引用しよう。
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『 人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ 』
                                   
『 道に死ぬる馬は、仏となりにけり。行くとどまらむ旅ならなくに 』    
                                   
『 邑(むら)山の松の木(こ)むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓 』
                                   
『 ひそかなる心をもりて、をはりけむ。命のきはに、言うこともなく 』  
                                     
『 ゆきつきて 道にたふるゝ生き物のかそけき墓は、草つゝみたり 』
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そして、釋超空を私が始めて知った詩『きずつけずあれ』は、結局、釋超空自身への鎮魂歌だったのだと、私はやっと気づいた。

この詩も最後に再び引用しよう。
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 わが為は 墓もつくらじ-。
 然れども 亡き後(あと)なれば、
  すべもなし。ひとのまにまに-

   かそかに ただ ひそかにあれ

  生ける時さびしかりければ、
  若し 然(しか)あらば、
  よき一族(ひとぞう)の 遠びとの葬(はふ)り処(ど)近く-。 

  そのほどの暫しは、
  村びとも知りて、見過ごし、
 やがて其(そ)も 風吹く日々に
 沙(すな)山の沙もてかくし
 あともなく なりなんさまに-。

  かくしこそ-
  わが心 しずかにあらむ-。

 わが心 きずつけずあれ
 
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62. 『 目のまへに、ゆるゝ一木のまだ見えて・・・』

2011-10-12 13:50:24 | 釋超空の短歌
『 目のまへに、ゆるゝ一木のまだ見えて、
    このゆふぐれの 山のしづけさ   』
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結局、この世界なんだな私が惹かれるは。

結局、人の心は、その人しか分からない。

他の人の心の中を土足で入るようなことは、もう止めよう。

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想像しよう。

作者は広い野原に座っている。

一本の大きな樹が未だ遠くに見える。

風もないのに揺れているように見える。ゆったりと。

あたりは透明なカーテンが重なっていくように次第に暮れていく。

それにしても、山々のなんという静謐さだろう・・・

61. 『とまりゆく音のまどほさ・・・』

2011-10-11 14:43:56 | 釋超空の短歌
『とまりゆく音のまどほさ。目に見えぬ時計のおもてに、ひた向ひに居り』
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私は古語の知識は皆無だ。

たしか高校生の頃『古語辞典』はもっていたと思うが、はるか遠い昔に捨ててしまった。

掲題の歌の『まどほさ』の意味が私は分からなかった。
古語かも知れないと思いネット検索したが分からなかった。
そこでネットのQ/Aサイトで尋ねてみた。

そしたら直ぐ回答がきた。

『間遠さではないでしょうか。遠くに聞こえるさま。』という回答だった。

なるほど。 それで掲題のうたの私の独断的感想ができる。

その回答に対するお礼は勿論直ぐresした。

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そもそも時間とはなんだろう。

偉い哲学者・科学者なら一言あるのだろうが、私みたいな者(即ち一般庶民)にとっては、時間とは、なんとなく不断に流れゆく何か或るモノだ、ぐらいしか多分実感していないだろうと思う。

特にニュートン力学が、我々の疑うべからざる常識となっている今日、時間とは要するに『目に見えぬ時計』に他ならない、と言えるのではないか。 そういう時間感覚で、現実性生活にはなんの不都合も生じていないのだから。

厳密に言えば、実際は不都合であろうが、それは前の記事にも書いた科学専門家のみにとってであり、非専門家たる我々庶民には、とりあえず何の不都合も生じていない(と私は思う)。

例えばアインシュタインの相対論の『時間』概念等は、私も含めて、現実生活者としては、無縁な概念でしかないのみならず、現実の生活感覚からは全く遠い世界の知的好奇心の対象でしかないのが実情だろうと思う。
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まぁ、そんな話は余談として掲題のうたの迷想をしてみよう。

作者は、ある奇妙な時間感覚に傾斜している。

作者の意識は、特に聴覚は、ある幻覚に陥っている。

作者は、作者の実生活世界から、どこかへと引きずりこまれている。

<<貴方は全身麻酔をした経験はあるだろうか?  私はある。
ある病気の手術をしたとき、私は全身麻酔をさせられた。

麻酔医が私の鼻・口にマスクをして、さぁ麻酔しますよ、と言うDr.の声を聞いた直後、私の意識は混濁というか眠りというか、ともかく意識がなくなっていった。おそらく作者は一種の麻酔状態だと思われる。>>

作者の時間感覚は、いつもの時計感覚ではなくなっている。

速いというか遅いというか、時間の流れは、通常の時間の流れとは奇妙にずれている。

作者の時間感覚次元は、通常とは全く違った異次元へと移っている。

作者は、その『目に見えぬ、その錯乱した奇妙な時間』を、『ひたむきに』つまり、ある種の脅迫観念をもって、あるいは陶酔状態で、凝視している・・・

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さらに迷想すれば、このうたは、コカインによる幻覚のうたかも知れない。

60. 『 病む母の心 おろかになりぬらし・・・』

2011-10-10 13:39:48 | 釋超空の短歌
『 病む母の心 おろかになりぬらし。
  わが名を呼べり。 幼名によび 』
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このブログは釋超空のうたの独断的感想だから、釋超空の個人的な境遇などは私はあまり関心はないのだが、掲題のうたには個人的に少し思うところがある。

掲題のうたから察すると釋超空の母は、いわゆる認知症を患っていたらしい。

しかし、精神科医・飯田眞の例の小論を見ても、それらしき記述は見当たらない。

釋超空の母は上記小論によれば、

『母はいはゆるお孃さん育ちにて、わがままなる人なりしが、父には痛々しく思はるゝ程よく仕へ、父の代診をつとむるなど、獨身なりし叔母二人と家業を切り廻したり。』

とあり、ある時期までは認知症などとは無縁な健康な精神状態だったようである。

実は、私の母はアルツハイマー型認知症を患っていた。
しかし、私を『幼名によ』ぶほどの症状ではなかったが自活は無理な状態ではあった。

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何ヶ月前だったか、『ラジオ深夜便』というラジオ番組で、三浦朱門が話をしていた。
人の老いについての話題だった。そこで彼はこんなことを言っていた。

『人は歳をとれば肉体的に衰弱していくのは当然である。その場合、肉体的には衰弱していながら精神は何一つの疾患もなく健康だということは、ある意味で不幸なことだ。なぜなら肉体の衰弱を自身の心(精神)が冷静に見つめ得るということは残酷なことでもあるからだ。

肉体が衰弱していくのが必然ならば、それに相応して心(精神)も衰弱していくのが理想かも知れない。』

そういう趣旨の発言だった。

私は、それは一理ある見方だと思う。というのは、私なりの実体験があるからだ。

実は、私の母が痴呆症のとき、父が脳梗塞で倒れ半身不随となり入院生活を余儀なくされた。脳梗塞というのは恐ろしい病気で、一瞬にして人をほとんど廃人化してしまう。

私の父は6年間の入院生活後、亡くなったのだが、その事実を私の母に告げたとき、母は、『あ、そう。かわいそうだね。』と言ったきり、今までみていたテレビを何の表情を変えず観続けていた。

母は父の死亡という深刻で悲しい事実を、痴呆という症状が、健康な精神(心)であれば感ぜざるを得ない痛烈な痛みと悲しみを遮断したと言える。

このことは、母自身にとっても、私を含めた近親者にとっても、救いであったと思う。

痛烈に嘆き悲しんでも、どうしようもない現実から、事実上、母を解放してくれたのだから。嘆き悲しむ母の姿を、私たち近親者は見ずに済んだのだから。

59. 『 おもしろく 世にあらなむなど思へども・・・』

2011-10-10 10:30:36 | 釋超空の短歌
『 おもしろく 世にあらなむなど思へども
     人厭ふさがは つひにさびしも 』
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『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角この世は住みにくい。』

ご存知、『草枕』の冒頭の一節である。

各人の事情の差・程度の差はあれ、『兎角この世は住みにくい』のは誰もが感じていることではあるまいか。

私は最近これを嫌というほど感じされたものであった。

あるネット社会においてである。

私の『人厭ふさが』は更に強くなってしまった。

ネット社会だから、PCのワン・クリックで、その社会から遁走でき、全てをリセットできるということは実に爽快な気分であった。

この世が実社会だと、そうは簡単にはいかない。

この世の実社会で、全てをリセットさせ、清々とした気分に浸ることが、もし出来たなら・・・ なんと良い世界だと、私は、つくづく思うこの頃である。

もし、それが可能だとしたら、つまり、ワン・クリックで、この世から何の道徳的制約もなくオサラバできるような社会システムになっていたら、私には、そのような世は薔薇色に見える。

しかし、実際のこの世は、「生きる」ということには全ての価値が付与されてはいるが、「生きない」ということに対しては、ほとんど零に近い例外を除けば、一切の価値が付与されていない。

そのことは、私が、この世で、不条理と思っているものの一つである。

「生きる」ということに価値的意味があるならば、「生きない」ことにも価値的意味があるはずだ。