釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

72. 『 身のさかり われは はかなくなしにけり・・・』

2012-06-24 10:14:17 | 釋超空の短歌
『 身のさかり
    われは、はかなくなしにけり。
     よき子の わかき
      見れば、おもほゆ 』
***
釋超空が『はかなくなしにけり』ならば、私はなんと言ったらよいだろう。

黒澤明の映画に『我が青春に悔いなし』という映画がある。
学生の頃、私の友人が『我が青春、おおいに悔いあり』と笑っていたものだ。
彼はいつもニンニクくさい口臭がして閉口していたものだが、
彼は今も健在だろうか。

『君、若きおり、なにをなせり ? 』

そんな詩があった気がする。

雑談:芥川龍之介という人

2012-06-16 13:58:41 | その他の雑談
大学の文学部では芥川論を今まで何万という学生諸君が彼を卒論のテーマに挙げてきたに相違ない。また、これまで、これまた何万( はオーバーかな )と芥川論が書かれてきただろう。

私は、偉人凡人含めて、いわゆる人物論には興味がないので、芥川人物論も全く読んだことがない。つまりは、私は彼の作品が好きなのであって人物自身にはあまり興味がないのだ。

しかし、『或阿呆の一生』に添えられた前書きを読み、また『あの頃の自分のこと』を読むとき、私は彼の人柄にある種の懐かしみを常に感じている。

『或阿呆の一生』の前書きは彼の友人宛への遺書とも言えるものだが、いずれは世間の目に晒されることの承知の上の文章だろうが、ここには彼の無念さが痛々しく滲み出ている。その前書きを、少し引用してみよう。
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僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思つてゐる。 (中略) 僕は今最も不幸な幸福な中に暮らしている。唯僕の如き悪夫、悪子、悪親をもったものたちを如何にも気の毒に感じてゐる。ではさやうなら。 (中略)
最後に僕のこの原稿を特に君に委託するのは君の恐らくは誰よりも僕を知ってゐると思うからだ。(中略) どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑ってくれ給え。
    昭和二年六月二十日      芥川龍之介
  久米正雄君
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私はこの前書きを読むにつけ、『あの頃の自分のこと』を思い出す。これは彼の学生時代の若き日の交友が書かれている。この作品の最後の章に彼が友人・松岡譲の下宿を訪れれたときのことが書かれている。久米雅夫も松岡譲も同人誌『新思潮』の仲間同士である。芥川が松岡の下宿を訪れたとき、松岡は創作で徹夜しているらしいことを下宿のお婆さんから知らされる。芥川は、二階の彼の部屋にそっと上がり彼の部屋を見ると、原稿用紙が乱雑に散らばっている中に松岡は『髭ののびた顔を括(くく)り枕の上にのせて、死んだやうに寝入っていた。』
この後の文章を引用してみよう。
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その時ふと松岡の顔を見ると、彼は眠りながら睫毛(まつげ)の間へ、涙を一ぱいためてゐた。(中略) 「莫迦(ばか)な奴だな。寝ながら泣く程苦しい仕事なんぞをするなよ。体でも毀(こわ)したら、どうするんだ。」ーーー自分は、その心細さの中で、かう松岡を叱りたかつた。が、叱りたいその裏では、やっぱり「よくそれ程苦しんだな」と、内緒で褒めてやりたかつた。さう思つたら、自分まで、何時(いつ)の間にか涙ぐんでいた。
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こう中略して書いてしまうと、芥川の文章のデリカシーが損なわれてしまって、ただの感傷文になってしまうが、全文を読んでもらえば分かるが、ここには芥川龍之介という人の人柄がよく表れている。芥川龍之介の作品全てに言えることだが、彼の作品の最後の文章の上手さ( というか余韻の深さ )は格別なものがある。この『あの頃の自分のこと』もそうであって、松岡の下宿を出た後、この作品は以下のように終わっている。
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往来は不相変(あいかわらず)、凄(すさ)まじく、砂煙が空へ舞い上がってゐた。気になったから上を見ると、唯、小さな太陽が、白く天心に動いてゐた。自分はアスファルトの往来に立った儘(まま)、どつちへ行かうかなと考えた。
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理由を説明するのは難しいが、と言うより私自身がよく分からないのだが、この、『あの頃の自分のこと』のこの最後の文章が私は芥川作品の中で最も好きな文章の一つである。そして、始めにも書いたが、この作品を読むたびに私は久米正雄宛の遺書とも言える『或阿呆の一生』の前書きを思い出す。芥川龍之介が若き日に見た松岡譲は実は芥川自身だったのではないか。

『莫迦(ばか)な奴だな。寝ながら泣く程苦しい仕事んぞするなよ。』と松岡譲に語った芥川の言葉は実は芥川自身への言葉だったのではないか。私はそういう芥川が好きである。

                         

雑談:『妄想に取り付かれる人々』

2012-06-15 07:26:27 | 非文系的雑談
(リー・ベア著、渡辺由佳里訳、日経BP社)

フェデリコ・フェリーニの映画に『悪魔の首飾り』という短篇がある。

原作はE.A.ポー『悪魔に首を賭けるな(Never Bet the Devil Your Head)』)だが、
この映画の主人公は妄想・幻覚に日ごろから悩んでいる。
彼のその妄想・幻覚は少女として現れる。

彼は英国の映画or演劇の人気スターで、ある映画の出演でイタリアに来る。
彼がTVインタビューを受ける場面がある。 インタビュアーと彼とで、こんな会話がされる。

Q「あなたは神経質だとか?」
A「はい。唯一の長所です。」
Q「お酒が好き?」 
A「はい。でも飲むと悲しくなるのです。実は今も泣いているのです。」
Q「神を信じますか?」
A「いいえ」
Q「では、悪魔は?」 
A「悪魔は・・・信じます。」
Q「見たことありますか? ヤギとかコーモリとか?」 
A「いや、そんなじゃあありません。私はカトリックではないので。
    私の悪魔は・・・・かわいい少女。」
***
私はこの映画が好きなので何度も観ている。
観ながら、いつも思うのだ。
一体彼の幻覚・妄想は精神病理上なんと呼ばれるものなんだろうと。

さて、ここから掲題の本の感想にうつる。

この本は、精神病理の素人向けに書かれた本だ。

著者はハーバード大学心理学の脅迫性妄想の専門医で、臨床経験も豊富なようで、本書では症例の具体例を挙げて、それを丁寧に説明している。

この本で著者は『妄想に取り憑かれる』とはどういうことかを、E.A.ポーの短篇『天の邪鬼』を引用して説明している。 このポーの説明が最も完璧にして優雅な表現だと、著者は言う。

そのポーの説明を簡単に説明すると以下のようになるという。

『人間には、生得的に相矛盾する行動をとらせるモノが内在しており、 それを「 天の邪鬼 」とでも呼んでおこう。 そいつのせいによって、 人間の、ある特定の精神が、ある特定の状況におかれたとき、その人間の、不合理な行動への衝動は、 抗いがたいものになる。』

ここで上記の映画にもどると、彼の『不合理な行動への衝動』による結末は、(詳しくは映画を観ていただきたいが)、結果的に鋼鉄のワイヤ線で自身の首をはねるということになる。

彼は、実は、少女という面をかぶった『天邪鬼』に取り憑かれていたのだ。

この天の邪鬼に取り憑かれると『脅迫性障害』という病名がつく状態となるそうだ。

しかし怖ろしいことに、人間は誰しも、この天の邪鬼は極くありふれたものとして自身に内在しているというのだ。

『決してしてはならないことをしてしまう、おぞましい想念』が、この『天邪鬼』の正体であり、それは多少なりとも誰もが持っている、というのだ。

多くの人にとって、それは『シャクのタネ』程度ですみ、無くなっていく。

ところが、ある種の人々には、その天の邪鬼は凶悪化し、その人々を苦悩させ破滅へと導く。  上記の映画では、彼の頭に執拗に内在していた天邪鬼は、少女=悪魔という脅迫性障害を発症させ、その結果、『決してしてはならないコト→ワイヤによるギロチン』で自身を破滅させる。

『決してしてはならないことをしてしまう衝動』の対象は自身だけではない。
他人にも及ぶ。 わが子にも及ぶ。 ホロコーストから児童虐待など、その例は山ほどあるのだろう。
***
『決してするな』と言われたら、いや言われたればこそ、してしまう人間の心の闇は
謡曲『黒塚』の主題であり、ポーの『天邪鬼』説をまつまでもないことかも知れない。
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そして、この本によれば、興味深いというより怖ろしいことに、この『おぞましい想念』は人類の遺伝子に組み込まれており、そのような想念をもつ理由を進化論で説明できるというのだ。

(この本のP94~参照)。
人類に植え込まれた攻撃的で性的な衝動は、他のほ乳類と共通する”下位の”脳で管理されている。

この管理は脳の眼窩前頭皮質( つまり目の穴の上に乗り、大きなおでこの裏の部分の脳 )によってなされる。この皮質の役割は下位の脳が作り出した思考や衝動を行動に移すかどうかを決める。

要するに、私たちにとって重要なことは『天邪鬼』は誰にでもいる、ということだ。

すなわち、私たちは『決してしてはならない、不合理な行動への衝動』は私たち自身に実は内在している、ということだ。 例えば児童虐待は決して他人ごとではなく、状況によっては貴方自身が行ってしまうかも知れないということだ。

***
以上、上記については、この本の解説において私の誤解があるかも知れません。
興味あるかたは本書を読んでください。

雑談:『白骨』(蓮如の御文=おふみ)

2012-06-15 07:16:11 | その他の雑談
私はちょっと覚えておきたい言葉などをメモしている。以下はそのメモだ。蓮如の言葉(御文=おふみ)だそうだ。( 以下の言葉は詠みやすいように私が勝手に空白行を入れた。)
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夫(それ)人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり。

さればいまだ万歳(まんざい)の人身(じんしん)をうけたりといふ事をきかず、一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。

我やさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしづく、すゑの露よりもしげしといへり。されば朝(あした)に紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。

すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李(とうり)のよそほひをうしなひぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外(やがい)におくりて夜半(よわ)のけふとなしはてぬれば、ただ白骨(はっこつ)のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。

されば人間のはかなきことは老少(ろうしょう)不定(ふじょう)のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏まうすべきものなり。

あなかしこ。あなかしこ。
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『読み解き 般若心経』(伊藤比呂美著、朝日新聞社版)という本があって、著者がこの後文(おふみ)「白骨」を以下のように現代語訳している。この訳が私はおもしろいと思うので、それを引用しよう。
(この文章も私が勝手に空白行をいれた。)
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つまりこういうことでございます。

ただよっているような人の生きざまを、つらつら観察しておりまして、はかないなぁと感じるのは人のいのち。はじまるときもその途中でも終わるときも、まぼろしのような人のいのちです。
そういうわけで、

一万年生きた人の話は聞いたことはございません。
一生はすぐ終わります。百年間、老いずに生きた人が、これまでにおりますか。

自分が先か、人が先か、今日かも知れない、明日かも知れない、滴が、木の根元に落ちたり葉末にひっかかったりするよりも、せわしく、人は、死に後れたり生き急いだりしてゆきます。

そういうわけで、朝のうちにあかいほっぺをかがやかせておっても夕方には白骨となってしまうかもしれない身の上です。

今にも無常の風が吹いてくれば二つの目はたちまち閉じる。一つの息はたちまち絶える。笑顔がむなしく死に顔となり、花のようだった美しさが消えてなくなる。そのとき、親類縁者が集まって嘆き悲しんだところで、もう、どうしようもない。

ほっとくわけにもいきませんから、野辺の送りをして夜のうちに煙となる。そして、白骨だけが残るのであります。あわれというだけでは、とうてい言い足りませぬ。

おわかりいただけましたか。

人間のはかないことは、老いも若きもありませんから、どなたもお若いうちから、いつかは死ぬのだということを心がけ、阿弥陀仏におまかせして、念仏をおとなえすべきなんであります。

失礼しました。
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現代は、
『百年間、老いずに生きた人が、これまでにおりますか。』
には訂正しなければならない時代になるかも知れないが、恐らく二百年生きる人は流石に将来でもあるまい。

また、かっては信長が愛好したといわれる幸若・敦盛では、
『人間五十年、化転の中をくらぶれば夢まぼろしのごとくなり。一たび生を受けて滅せぬ者のあるべきか。』
と謡われた。五十年にしろ二百年にしろ我われは無常であることには変わりはない。 
***

中世の今様に以下のようなものがある。

昨日見し人今日はなし
今日見る人も明日はあらじ
明日とは知らぬ我なれど
今日は人こそかなしけれ
***
ところで『今日は人こそかなしけれ』の『かなしみ』とはなんだろう。
勿論、「悲しみ」ではない。「哀れ」とも違う気がする。強いて言えば、「懐かしみ」に近い情感だろうか。

『明日とは知らぬ我なれど』だが私は今日も病院通いを続けている。
思えば、結局は無駄な努力ではあるのだが、『阿弥陀仏におまかせして、念仏をおとなえすべきなんであります。』からは私は全く遠いところに居る。
つまりは、私は縁なき衆生の一人だが、『まぁ、明日は死なないだろう』と思っている嗤うべき存在というところだろう。