釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:ネアンデルタール人の『死の発見』

2013-12-19 13:37:52 | その他の雑談
ネアンデルタール人の埋葬が改めて確認されたという。

http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20131217001

ネアンデルタール人が埋葬という行為をしていたということは、彼らは『死』というモノを知っていたことを意味している。

彼らが其の『死』について、どのような概念をもっていたかは私は知らないが、『死というモノがある』ということは少なくとも認識していたようだ。

ホモ・サピエンス・・・ネアンデルタール人以降の人類・・・以外の生物でも恐らく『死』というモノを認識している生物は私は存在するのではないかと推測するがどうであろうか?

即ち、埋葬という行為をする生物はホモ・サピエンスだけだろうか?

私の勘違いかも知れないが、象が埋葬と似たような行為をするという記事を見たような記憶がある。

もし其れが事実ならば象は『死』という概念を、ホモ・サピエンスほど明瞭ではなくても持っていることになる。

***
アーサー・ケストラーは彼の著書『ホロン革命』で、ホモ・サピエンスの先天的病いとして彼らの・・・ということは我々人類の、ということだが・・・『死の発見と其の拒絶』について書いている。

『死の発見』が、どうしてホモ・サピエンスの先天的病いとなるのか、興味がある人は其の著書を読んでもらいたいが、アーサー・ケストラーの説が正しいとすれば人類の祖たるネアンデルタール人は既に先天的病いを背負っていたことになる。

そういう意味で此の記事は私には興味深い。

雑談:涙活(ルイカツ)って?

2013-12-17 09:59:55 | 釋超空の短歌
テレビをみていたら、当今ルイカツなるものが流行っていることを報じていた。

ルイカツ? 

いったい何のことかと思ったら、涙活と書いて、みんなで集まって積極的に涙を流してストレス解消しようという活動なんだそうだ。

テレビでは、若い男女が集まって映画だか何だかを見て一緒になって泣いていた、その「活動」を映していた。

こんな「活動」が当今流行っているのかと私は驚いたが、試しにネットで検索したら出てきた。

http://www.ruikatsu.com/

テレビでの解説によると、ただ泣くだけではダメで共感をもって泣かなければ「効果」がないとのこと。悔し涙ではダメなんだそうだ。

共感して泣くと副交感神経がより活発に働きストレス解消になるとのこと。それも一人密かに泣くよりも皆んなと一緒になって泣くと、より効果があるのだそうだ。

何かに共感してシミジミと涙を流せば気持ちがスッキリすることは今更言われなくなくても先刻承知なことだが、その行為を皆で集まって、まるで『泣きましょう会』みたいな活動があることや其れを涙活と称したりすることは、いかにも現代風ではある。

子供や女どもが集まって泣くのは、まぁイイが、いい歳こいた男どもが集まって泣く光景は私には異様に見える。

私の世代では男は泣くものではないというのが不文律であった。

しかし若造たちが化粧するらしい当今であるから、男どもも集まって、さめざめと泣きあうのは時代の趨勢というものかも知れない。

***
昔、邦画全盛の頃、母親・娘が無情にも離れ離れになるというお決まりのストーリーの映画が流行った。

母親役は常に三益愛子で、娘役は常に白鳥みずえだった。 彼女たちを知っている人は今や稀有だろう。

このテの或る映画の立看には『三度泣けます』と書いてあった!!

***
私が泣いたのは、さて、いつだったろうか。思い出せない。

雑談:菜食者と自殺者の相関?

2013-12-16 10:42:49 | その他の雑談
テレビをみていたら、野菜や果物を多く摂取する人は自殺率が低いという統計結果が出たことを報じていた。

統計というものは、よほど注意してかからないと騙されるものだが、この統計結果もその例かも知れない。

尤も此の報道では、自殺の要因は複雑であるから此の統計結果は一つの参考に過ぎない旨も付け加えていたが。

私はこの報道をみていて、菜食するから自殺率が下がるのではなく、逆に菜食者は元々彼等の心的傾向が自殺から遠い処にあるからではないか、と思った。

なるほど野菜や果物に含まれる或る物質が鬱を抑える作用があるのは事実かも知れない。だから上記の統計結果が、まんざら嘘八百だとは思えない。

しかし、だからといって、鬱者が野菜や果物をバリバリ食えば鬱から解放されるのかと云えば、それはそうとは思えない。

もしバリバリ食って鬱から解放されたならば、その解放された理由は『野菜や果物を食う』こと自体にあったのではなく、『野菜や果物を食おうと思った心の変化』にあったのではないか。

***
芸術家は鬱病者が多いと私は思っているが、ベジタリアンの芸術家は誰かいるだろうか。知りたいものだ。

芥川龍之介や太宰治がベジタリアンであったならば、あるいは彼等は自ら命を絶たなかったかも知れない。

しかしながら、少なくとも私は『ベジタリアン』の彼等の作品など読む気にはなれない。

雑談:10層プリント基板での電子回路設計

2013-12-14 10:32:06 | その他の雑談
趣味人趣味人倶楽部のマイフレさんが真空管アンプの回路図を写真欄にアップされていたので、ついつい昔の苦労話を思い出してしまった。

最近の電気会社等の電子回路設計部門での設計事情は知らないが、私が電気工場の実験室の片隅で自身が設計した回路基板と格闘していた頃・・・もう20年程の昔話だが・・・回路設計での至上命令の一つは、いかにして電子回路の実装密度をあげるか、だった。

恐らく現在もそうだろうが、一般に電子回路機器は、当時は多くて20枚程度のプリント基板 (この各基板に電子回路部品が実装される)と、それらの基板を電気的に接続するマザーボードと称するプリント基板から構成されている。それらに必要に応じて他の部品が適宜接続されている。

通常、各基板はK1サイズ ( 横幅:30cm,縦幅:20cm,厚さ:数mm程度だったと思う) のものが使用されていた。

その各基板の実際の電子回路図はA2用紙一枚に原則として書かれた。だから一般に一つ電子回路機器の回路図はA2用紙で数十枚になった。

当時は余程の制約がない限り、両面に配線パターンがある2層基板が使われた。原則として部品そのものは片面に実装される。

ところが機器の制約上、私は10層基板を使用して回路設計をしなければならなくなった。実装密度をあげるため、そうせざるを得なかった。

その基板の10層のうち1層はベタアース面、他の1層は電源面として、他の8層で実装部品間の接続をした。

これにはマイッタ。

比喩として言うと、10次元空間を考えているようなものであった。2層基板程度なら、まぁ、どうということはない。

しかし、10層となると、そのヤヤコシサは経験した者でなければ分からないだろう。

***
さて、その試作品の姿は・・・当然、ジャンパー線だらけであった。

ジャンパー線とは、これは業界用語だろうが、パターン設計ミスで其の箇所を切断し、通常の細い電線で正常に接続することである。まぁ設計ミスの具体的象徴のようなものだ。

***
ともあれ、正直なところ、よほど好きでないかぎり、電気工場の電子回路設計屋などになるものではありません・・・

雑談:SNSでの孤独

2013-12-09 13:30:01 | 釋超空の短歌
趣味人倶楽部という年配者を対象にしたSNSがある。
このサイトは入会者は日記を書くことができ、入会者のほとんどは日記を書いているようだ。

このサイトに数日前に入会した或る人が退会するという。
私は、たまたま其の人の日記が目にとまり興味を覚え、その人の此のサイトでの短い期間の日記を毎日読み、かつコメントも書いてきた。

***

このようなサイトで日記を書く理由は人それぞれだろう。

ある人は自身の「何か」の披露であり、その「何か」の賛同者の出現に快感を覚え、その快感そのものが日記を書く主な動機となっていくだろう。

もし、そうでないなら、なにも此のようなサイトに書く必要もなく自身のノートなり、PCのHDへ書き込むなり、然るべきメディア等へ投稿するなりして、コト足りるはずだからだ。

このような志向の人の、SNSで日記を書くということの行為の危険性は賛同者の不在による失望感で傷つき易いということである。

つまり、そのような志向の人の日記を書く真の動機は自身の「何か」の披露ではなく、他の人との人間的な親密な接触にある。

簡略して言えば、そのような志向の人は自身の孤独感から日記を書いているのであり、その孤独感を薄めるために他の人との親密な接触を実は求めている、と断じてよいように私には思われる。

そして、このような志向の人は、その志向が強いほど、他者の反応に過敏であり、その結果、逆に他者から疎遠になりがちだと思われる。

孤独者ほど他者を求めるのだが其の孤独性が逆に他者をして敬遠させるという悪循環に陥りやすいと思われる。

勿論、他の動機で日記を書いている人も大勢いるだろう。

しかし、上記した志向の人も少なからずいると私は思う。

そういう人にとって、このサイトの「お気に入り」とか「拍手」というシステムは必ずしも良いものではない。

その理由が分からないという人は(このサイトの運営者も含めてだが)、私に云わせれば鈍感な呑気な幸せ者と言える。

なにも難解な形而上的理由などではなく、この現在の申し子である各種のIT技術は実は人間の孤独性を更に悪化させている、と私は思う。少なくとも、そういう一面を内在させている。

***
 
上記した事柄が事実であることは私は自信をもって断言できる。
なぜなら、私自身が上記した志向の人間に他ならないからだ。