今回もまた、わが国ボディビル&力技の開祖にして、かの有名な力法並に肉体改造体力増進法」の著者・若木竹丸先生関連のお話です。
若木先生の「怪力法…」、その増補改訂版である「筋肉美体力増強法」にはいずれにも、リンゴ箱に板を取り付けたプッシュアップ&ディッピングバーや、木机と滑車・石・ロープでできた腕相撲練習器など、若木先生考案の「自作できるトレーニング器具」が紹介されています。
そんな中で、若木先生が最も力を入れて解説している「自作できるトレーニング器具」は何かというと、コンクリート製バーベル(同著では「セメント亜鈴」と呼称)。
今は全くと言っていいほど見かけなくなりましたが、実はこのコンクリート製バーベル、鉄が貴重品だった戦前からかなり長い間、わりかしポピュラーなトレーニング機材であったようで、日本ボディビル界の大立者・玉利齊JBBF元名誉会長(昭和8〔1933〕~平成29〔2017〕年)が「体道 日本のボディビルターたち」(昭和41年刊)に寄せた文章によりますと、「ジムに通えない若者たちが、手製のコンクリートバーベルでトレーニングに励む姿が、街頭やビルの屋上、港湾のふ頭や農家の裏庭などで見られる」とあり、また、玉利会長と同時期に活躍したボディビルダーで、後にわが国トレーニング界の大先生として知られた早大名誉教授・窪田登氏(くぼた・みのる。昭和5〔1930〕~平成29〔2017〕年)も、昔の思い出話として「昭和30年代頃まで、東京ではカラーリングされたコンクリートバーベルが、普通に運動具店で売られていた」と語っていましたから、
高度経済成長前夜ころまでは「とっても普通の運動器具」であったようです。
コンクリート製バーベルが最大にして最後の活躍をしたのは、前回の東京オリンピック開催前後ころ。
東洋初のオリンピックに開催に沸き立った当時のわが国には「にわかトレーニングブーム」みたいなものが巻き起こり、安価且つすぐに入手できるコンクリートバーベルはそのブームに乗って、なかなかの人気を博しました。
昭和39年に刊行された「日曜左官」なる本に、コンクリート製バーベルプレート作成法が紹介されているくらいですから、前回の東京五輪時におけるにわかトレーニングブームの規模、そしてコンクリートバーベルの活躍ぶりがわかろうというものです。
さて、話を若木先生のほうに戻します。
若木先生は前出「体力増強法」において、現在のバーベルトレーニングに相当するトレーニングを「鉄亜鈴運動法」という項目で紹介していますが、その冒頭「著者の鉄亜鈴運動法は何も鉄の亜鈴を必要としない」「如何に美事な鉄亜鈴によるも、又、貧相なるセメント亜鈴によるも、其処に何等の差異なき事を知らねばならぬ」とし、セメント亜鈴でのトレーニングを大いに推奨しています。
またこの「セメント亜鈴推奨」は、若木先生が「国家の敵」として見られないための伏線の意も込められています。
このころのわが国ですが、昭和12年に始まったシナ事変は現在のウクライナ戦争以上に泥沼化、加えて対米関係も悪化の一途を辿っていた時期。民生品に使用される金属の量が少しずつ減っていた、そんな時期です(悪名高い「金属類回収令」の初登場は、「体力増強法」発行の1年後の昭和16年。18年には全面改正され、ありとあらゆる民生の金属が吸い上げられるようになる)。
「鉄亜鈴運動法」を鉄亜鈴で実施することを読者に勧めるのは、当局に「若木は『貴重な鉄類をトレーニング機材にせよ』と扇動する不届き者」という悪印象を与えてしまいます。
自身の運動法が人口に膾炙することを望んでいた若木先生は「節を枉げる」というより、「つまらんイチャモンをつけられないよう、念には念を入れて」という感覚で、「セメント亜鈴を使え」と力説したと思われます。それは次の一文からも明らかです。
「現在鉄は、我国に於る必要欠くべからざるもの、即ち国防上の最大武器となるものなれば、其の点より見ても、我々は国家の一員として斯くの如き鉄類の使用を互いに禁じませう。」
若木先生のバーベルプレート作成方法は
①樽の底に穴をあけ、そこに竹筒を差し込む(これがシャフトを通す穴になる)
②セメントを樽に流し込む。セメントの配分はセメント1に対し砂3,砂利5(「日曜左官」では1:2:4を推奨)
③そのまま3日間放置して固まるのを待つ。
④セメントが乾いたのを確認したら、樽の箍(たが)と横板・底板・竹筒を外す。するとプレート1枚ができあがる。
⑤プレートの穴にシャフトとなる棒を通し、カラー(プレート脱落防止器具)のかわりに、プレートの横を自転車のチューブを巻き付けて止める。
というもの。
「体力増強法」には、若木先生が愛用のコンクリートバーベルと、それを使用してワンハンドジャークをする写真が掲載されています。
バーベルに着けられたコンクリートのプレートは、2つ合わせて40キロはありそうな立派なもの。シャフトの長さは同著に「プレートとプレートの間は三尺程度」とありますから、全体で1.5mくらいはあると思われます。
ただでさえシャフトが長くてバランスの取りづらいバーベル、しかも40キロのプレートがついたバーベルをワンハンドスナッチで持ち上げる若木先生…やはりタダモノではありません。
さて、これまで見てきましたように、コンクリートバーベルは意外と長い間、わが国トレーニングの一時代を担いましたが、高度経済成長以降鉄製のバーベルが少しずつ普及するにつれ、割れ易く、欠け易い(=重量が勝手に変わってしまう)という欠点が人々の目につくようになり、いつの間にやらその姿を消してしまいました。
今ではよほどの物好きが自作しない限り、なかなかお目にかかれないコンクリートバーベルですが、こうしたものを使用してトレーニングに励んだ古人に思いを致すのも、たまにはいいかも知れません。
若木先生の「怪力法…」、その増補改訂版である「筋肉美体力増強法」にはいずれにも、リンゴ箱に板を取り付けたプッシュアップ&ディッピングバーや、木机と滑車・石・ロープでできた腕相撲練習器など、若木先生考案の「自作できるトレーニング器具」が紹介されています。
そんな中で、若木先生が最も力を入れて解説している「自作できるトレーニング器具」は何かというと、コンクリート製バーベル(同著では「セメント亜鈴」と呼称)。
今は全くと言っていいほど見かけなくなりましたが、実はこのコンクリート製バーベル、鉄が貴重品だった戦前からかなり長い間、わりかしポピュラーなトレーニング機材であったようで、日本ボディビル界の大立者・玉利齊JBBF元名誉会長(昭和8〔1933〕~平成29〔2017〕年)が「体道 日本のボディビルターたち」(昭和41年刊)に寄せた文章によりますと、「ジムに通えない若者たちが、手製のコンクリートバーベルでトレーニングに励む姿が、街頭やビルの屋上、港湾のふ頭や農家の裏庭などで見られる」とあり、また、玉利会長と同時期に活躍したボディビルダーで、後にわが国トレーニング界の大先生として知られた早大名誉教授・窪田登氏(くぼた・みのる。昭和5〔1930〕~平成29〔2017〕年)も、昔の思い出話として「昭和30年代頃まで、東京ではカラーリングされたコンクリートバーベルが、普通に運動具店で売られていた」と語っていましたから、
高度経済成長前夜ころまでは「とっても普通の運動器具」であったようです。
コンクリート製バーベルが最大にして最後の活躍をしたのは、前回の東京オリンピック開催前後ころ。
東洋初のオリンピックに開催に沸き立った当時のわが国には「にわかトレーニングブーム」みたいなものが巻き起こり、安価且つすぐに入手できるコンクリートバーベルはそのブームに乗って、なかなかの人気を博しました。
昭和39年に刊行された「日曜左官」なる本に、コンクリート製バーベルプレート作成法が紹介されているくらいですから、前回の東京五輪時におけるにわかトレーニングブームの規模、そしてコンクリートバーベルの活躍ぶりがわかろうというものです。
さて、話を若木先生のほうに戻します。
若木先生は前出「体力増強法」において、現在のバーベルトレーニングに相当するトレーニングを「鉄亜鈴運動法」という項目で紹介していますが、その冒頭「著者の鉄亜鈴運動法は何も鉄の亜鈴を必要としない」「如何に美事な鉄亜鈴によるも、又、貧相なるセメント亜鈴によるも、其処に何等の差異なき事を知らねばならぬ」とし、セメント亜鈴でのトレーニングを大いに推奨しています。
またこの「セメント亜鈴推奨」は、若木先生が「国家の敵」として見られないための伏線の意も込められています。
このころのわが国ですが、昭和12年に始まったシナ事変は現在のウクライナ戦争以上に泥沼化、加えて対米関係も悪化の一途を辿っていた時期。民生品に使用される金属の量が少しずつ減っていた、そんな時期です(悪名高い「金属類回収令」の初登場は、「体力増強法」発行の1年後の昭和16年。18年には全面改正され、ありとあらゆる民生の金属が吸い上げられるようになる)。
「鉄亜鈴運動法」を鉄亜鈴で実施することを読者に勧めるのは、当局に「若木は『貴重な鉄類をトレーニング機材にせよ』と扇動する不届き者」という悪印象を与えてしまいます。
自身の運動法が人口に膾炙することを望んでいた若木先生は「節を枉げる」というより、「つまらんイチャモンをつけられないよう、念には念を入れて」という感覚で、「セメント亜鈴を使え」と力説したと思われます。それは次の一文からも明らかです。
「現在鉄は、我国に於る必要欠くべからざるもの、即ち国防上の最大武器となるものなれば、其の点より見ても、我々は国家の一員として斯くの如き鉄類の使用を互いに禁じませう。」
若木先生のバーベルプレート作成方法は
①樽の底に穴をあけ、そこに竹筒を差し込む(これがシャフトを通す穴になる)
②セメントを樽に流し込む。セメントの配分はセメント1に対し砂3,砂利5(「日曜左官」では1:2:4を推奨)
③そのまま3日間放置して固まるのを待つ。
④セメントが乾いたのを確認したら、樽の箍(たが)と横板・底板・竹筒を外す。するとプレート1枚ができあがる。
⑤プレートの穴にシャフトとなる棒を通し、カラー(プレート脱落防止器具)のかわりに、プレートの横を自転車のチューブを巻き付けて止める。
というもの。
「体力増強法」には、若木先生が愛用のコンクリートバーベルと、それを使用してワンハンドジャークをする写真が掲載されています。
バーベルに着けられたコンクリートのプレートは、2つ合わせて40キロはありそうな立派なもの。シャフトの長さは同著に「プレートとプレートの間は三尺程度」とありますから、全体で1.5mくらいはあると思われます。
ただでさえシャフトが長くてバランスの取りづらいバーベル、しかも40キロのプレートがついたバーベルをワンハンドスナッチで持ち上げる若木先生…やはりタダモノではありません。
さて、これまで見てきましたように、コンクリートバーベルは意外と長い間、わが国トレーニングの一時代を担いましたが、高度経済成長以降鉄製のバーベルが少しずつ普及するにつれ、割れ易く、欠け易い(=重量が勝手に変わってしまう)という欠点が人々の目につくようになり、いつの間にやらその姿を消してしまいました。
今ではよほどの物好きが自作しない限り、なかなかお目にかかれないコンクリートバーベルですが、こうしたものを使用してトレーニングに励んだ古人に思いを致すのも、たまにはいいかも知れません。
かなりニッチ&マニアックな話題なのに、4つもコメ頂けることに驚いております。
老骨武道オヤジさま、お待たせして申し訳ございませんでしたm(__)m。
コンクリバーベルの存在は知っていましたが、その詳しい歴史まではほじくり返したことがなかったため調べますと…意外と面白かったので取り上げてみた次第です。
(゜_゜)さま、さすがよくご存じで。玉利元会長は三島を教えたことについては終生自慢されており(;^ω^)、今回紹介した「体道」にも、三島先生の写真が2ページほど掲載されていますが…単純な感想を述べますと「ガリガリくんだった三島先生が、よくこれほどに!」という筋肉量になっていました。
玉利会長の自慢は「日本文壇のレジェンドを俺が教えてやった」というものではなく、いちトレーニーとして「人生に迷う若者を、トレーニングで救ってあげることができた」という、単純でありつつ、純粋なものであったと確信しています。
安納雲さま、たまに出没されてのいつも暖かいお言葉、ほんとうにありがとうございますm(__)m。
本稿でもご登場いただきました、窪田登先生の著書によりますと、欠けやすいため、左右のプレートの重さが容易に変わってしまうコンクリバーベルのセンターを取るため、窪田先生はシャフトの持ち手位置を頻繁に変えていたといい、「それが筋肉の増強に良い作用をもたらした」とおっしゃっていました。確かに、左右非対称のバーベルを持つのは本当に難しい!
窪田先生、さすがです。
琴石山に茜差すさま、はじめまして。先輩か後輩かは存じませんが、同じ高校出身と簡単に察することができるHN,ありがとうございますm(__)m。
ことしのわが校の夏は、あんまりにもあんまりでしたね~_| ̄|○。ワタクシが高校2年次の野球部(春県体優勝したのに、夏予選初戦で久賀に敗退)がフラッシュバックしましたですよ(;^ω^)。
ミカポンさんのことについてはさておき(;'∀')、もうちょっと何とかしないと、甲子園再出場はムリだと思います。
皆様、これからもよろしくお願い致します!
今年はAシードで優勝候補だったのだが、初戦で見事に敗退でした。回の先頭打者に四球が多かったですね。まあ、毎度のことだけどねえ。今の監督も、〇神本の子飼いなので、クオリティはあんなもんなんでしょうね。
足下にやけに大きな塊がありましたのは
それだったんですか。
細かい調整は無理そうですが
いろいろ工夫して作る、使う
してたんですね。
また一つ先人の気持ちがのぞけた
気がします。
ブログ主さまが歴史に当てる光が
長くあちこちに届きますように。