今回弊ブログで取り上げますのは、「警察術科の歴史」でございます。
「術科」とは耳なじみのない言葉ですが、これは「逮捕術、けん銃操法、警棒の使用取り扱い、柔剣道その他」(「術科必携」より)のことをひっくるめたもので、他にも警杖、体力検定、持久走、救急法なんかも、その仲間に入っています。
しかし歴史を紐解きますれば、もともと警察の表芸として始まったのはまず撃剣、次に柔術、ちょっと時代が下って逮捕術(当初は捕手の形)…ってな感じであり、警杖は昭和初期、警棒は(明治初期のものを除けば)戦後生まれ、拳銃もしかり、JAPPATなどの体力検定等に至ってはずいぶん歴史が下って平成も中期になってから…ってな感じ。
そこで今回の本稿では、「術科」の中でも最も「柔剣道」「逮捕術」のみに焦点を当てることとし、本稿内においてのみ、「警察柔剣道」「警察逮捕術」を「術科」と呼称いたします。
この点については誤解なきよう、まずは冒頭にてお断りさせて頂きます。
また、取り上げる題材の関係上、またしても、長い長いお話になりそうなのですが、ご寛恕頂きますれば幸いでございます。
ではいく~!(←人気Youtuber「考察系キリンチャンネル」キリンさんのマネ(;^ω^))
【その1 警視庁柔術は九州柔術より始まる】
以前「警察官の腰に『二段伸縮』が光るまでの長い歴史(その2)」と題してお送りした記事のなかに、「警察が撃剣を採用したのが明治12年だった」と記載しております。
この点の詳細は上記記事に記載したとおりですので、省略いたします。
撃剣による鍛錬は警察部内において、制圧力の確保にそれなりに効果を発揮しましたが、幕末維新の時期と違い、市中における銃刀による撃ち合い・斬り合いは激減。警視庁は徒手、あるいは非致死性の用具を用いた制圧ができる技術の必要性を感じます。そこで真っ先に「コレが使えるんじゃね?」となったのは剣と並ぶもう一方の武士の表芸・柔術でした。
とはいえ当時の東京府付近では、政府の「内乱の牙を抜く」政治方針(これについては後述)のせいで柔術家はみな道場を畳んでしまっており、専門家を確保することすらままなりません。
警視庁は地方に活路を求めることとし、初代柔術指南役として白羽の矢が立ったのは、筑前有馬藩の御留流・良移心頭流の師範であった下坂才蔵でした。
良移心頭流の実戦性が高く評価されての抜擢でしたが、下坂師範は家事都合(それとも、若い優秀な弟子を中央に出そうという意図があったのか?)で上京不可。かわりに4人の優秀な子弟を推挙したところ、この4人がそのまま、警視庁柔術指南役となります。
この中には、名作柔道小説「姿三四郎」において、主人公・姿三四郎のライバル・「村井半助」のモデルとなった「鐘馗の半助」こと、中村半助もいました。
明治16年、指導陣が固まったことを受け、「警察官は柔術を修練せよ」との内達が出され、ここに警視庁逮捕術の第一歩が刻まれました。
ただ、当時の警察官はいずれも幕末頃に生まれ、撃剣にも柔術にも親しまなかった世代。そんな人たちにいきなり、身長174センチ・91キロ(中村半助31歳時の体格。明治中期におけるこの体格は、現代であれば185センチ・100キロ以上に相当)の体格を誇り、両手に米俵を1つ(米一俵=1石=重さ60キロ)ずつ持って自在に振り回すような怪力の柔術名人がガチで稽古をつければ、死人ケガ人が続出するに決まっています。
そこで、初心者は初心者なりに、そうでない人はそうでないなりにうまくなる「型」の必要性が云われるようになり、ここに「警視庁撃剣の形」と、「警視庁柔術の形」が制定されました。
このうち柔術の形は「第一 柄取」から「第十一 上頭」までの全11形で構成されています。
「警視庁武道九十年史」には「継承者もないまま消滅してしまった」とされていますが、国立国会図書館蔵「早縄活法拳法教範図解」(井口松之助著)にはこの11形全てが網羅されており、「警視庁柔術の形」の略全容を知ることができます。
11の形を順に説明しますと、「柄取」「柄止」「柄搦」は刀(=サーベル)の奪取防止措置、「見合取」は相手が抜刀してくるところへのカウンター、「片手胸取」「腕止」「襟投」「スリ込(「早縄…」では「摺込」)」「敵ノ先」は相手の徒手打撃に対するカウンター、「帯取(「早縄…」では「帯引」)は帯掴みへのカウンター、「上頭(「早縄…」では「行連レ 左上頭」)は連行中の相手が襲い掛かってきた場合のカウンターという技の構成。
仔細に技を検分しますと、当て身については「拳で殴る」技が一切ないこと、当て身にせよ投げにせよ、「きれいに投げる」ではなく、「相手の全身をコントロールする」「こちらの力をロスなく相手に伝える」ということが貫かれていることなどから、古の柔術の高い実戦性が伺われます。
なお、同著緒言(=巻頭の言葉)には「明治拾七年ヨリ同拾九年凡三ケ年間警視庁ニ於テ其頃久富鐵太郎先生ヲ初メ各柔術家拾六流儀ヨリ丗有余名ノ世話掛ノ妙手ヲ撰挙シ其後久富先生書冊ニ成サシ…」とあることから、「警視庁柔術の形」が形成されたのは明治19年ころのことであり、その中心編者であった久富鐵太郎(警視庁柔術指南役)が解説書を作っていた、ということがわかります。
(「警視庁武道九十年史」では、その成立が明治21年となっている)
型が制定され、習得すべき技が決まれば、次はその上達度合を証明する段位・級位制度が必要になります。
現在の警察術科は初・中・上級で分けていますが、この級位制度、発足当初は「切紙・目録・免許・名人」という、むかしの柔・剣術方式丸出しの名称でした。
「さすがにこれは、明治日本の警察級位としていかがなものか」ということで諸々検討された結果、1~7級までの級位分けに変更。これが大正時代になって1~5級(各級ごとに上・中・下が存在)、昭和8年には「武道級位規程」により、1~5級(4・5級のみ上・中・下)に改編され、これがなんと、昭和26年ころまで連綿と続いたりします(;^ω^)。
余談ですが、「早縄活法拳法教範図解」の巻頭には、鷲尾隆伯爵・海江田信義子爵の題字、そして滋賀は膳所藩の産んだ大哲・杉浦重剛先生の序題が掲載(いずれもチョー達筆!)されていますが、そのうち、杉浦先生はこのようにしたためています。
「無恃其不来 恃吾有以待」
これは「孫子」の第八章・九変篇(または「九変第八」)の一文で、「故用兵之法、無恃其不来、恃吾有以待。無恃其不攻、恃吾有所不可攻。」(故に用兵の法は、其の来たらざるを頼むこと無く、吾が以て待つこと有るを恃むなり。其攻めざるを恃むこと無く、吾が攻むる可からざる所有るを恃むなり)の抜文。
序題部分の意味は「軍事力を運用する原則としては、敵がやってこないことをアテにするのではなく、敵がいつやってきてもよいだけの備えがあることを頼りとすることだ」ですが、これをサラっと選ぶこのセンス…近年の「努力」とか「闘魂」みたいな、バカと無教養がソッコーでバレるスローガンしか考えられない指導者や監督者は、下の毛まで剃髪して反省すべきでしょう。おっと、余談が過ぎました(;^ω^)。
次回は、警視庁武道振興の立役者・三島通庸と、講道館柔道がいかにして警察に浸透していくに至ったかについてお話しします。
※ 今次連載も、参考文献は最終回にまとめて表示いたします。
「術科」とは耳なじみのない言葉ですが、これは「逮捕術、けん銃操法、警棒の使用取り扱い、柔剣道その他」(「術科必携」より)のことをひっくるめたもので、他にも警杖、体力検定、持久走、救急法なんかも、その仲間に入っています。
しかし歴史を紐解きますれば、もともと警察の表芸として始まったのはまず撃剣、次に柔術、ちょっと時代が下って逮捕術(当初は捕手の形)…ってな感じであり、警杖は昭和初期、警棒は(明治初期のものを除けば)戦後生まれ、拳銃もしかり、JAPPATなどの体力検定等に至ってはずいぶん歴史が下って平成も中期になってから…ってな感じ。
そこで今回の本稿では、「術科」の中でも最も「柔剣道」「逮捕術」のみに焦点を当てることとし、本稿内においてのみ、「警察柔剣道」「警察逮捕術」を「術科」と呼称いたします。
この点については誤解なきよう、まずは冒頭にてお断りさせて頂きます。
また、取り上げる題材の関係上、またしても、長い長いお話になりそうなのですが、ご寛恕頂きますれば幸いでございます。
ではいく~!(←人気Youtuber「考察系キリンチャンネル」キリンさんのマネ(;^ω^))
【その1 警視庁柔術は九州柔術より始まる】
以前「警察官の腰に『二段伸縮』が光るまでの長い歴史(その2)」と題してお送りした記事のなかに、「警察が撃剣を採用したのが明治12年だった」と記載しております。
この点の詳細は上記記事に記載したとおりですので、省略いたします。
撃剣による鍛錬は警察部内において、制圧力の確保にそれなりに効果を発揮しましたが、幕末維新の時期と違い、市中における銃刀による撃ち合い・斬り合いは激減。警視庁は徒手、あるいは非致死性の用具を用いた制圧ができる技術の必要性を感じます。そこで真っ先に「コレが使えるんじゃね?」となったのは剣と並ぶもう一方の武士の表芸・柔術でした。
とはいえ当時の東京府付近では、政府の「内乱の牙を抜く」政治方針(これについては後述)のせいで柔術家はみな道場を畳んでしまっており、専門家を確保することすらままなりません。
警視庁は地方に活路を求めることとし、初代柔術指南役として白羽の矢が立ったのは、筑前有馬藩の御留流・良移心頭流の師範であった下坂才蔵でした。
良移心頭流の実戦性が高く評価されての抜擢でしたが、下坂師範は家事都合(それとも、若い優秀な弟子を中央に出そうという意図があったのか?)で上京不可。かわりに4人の優秀な子弟を推挙したところ、この4人がそのまま、警視庁柔術指南役となります。
この中には、名作柔道小説「姿三四郎」において、主人公・姿三四郎のライバル・「村井半助」のモデルとなった「鐘馗の半助」こと、中村半助もいました。
明治16年、指導陣が固まったことを受け、「警察官は柔術を修練せよ」との内達が出され、ここに警視庁逮捕術の第一歩が刻まれました。
ただ、当時の警察官はいずれも幕末頃に生まれ、撃剣にも柔術にも親しまなかった世代。そんな人たちにいきなり、身長174センチ・91キロ(中村半助31歳時の体格。明治中期におけるこの体格は、現代であれば185センチ・100キロ以上に相当)の体格を誇り、両手に米俵を1つ(米一俵=1石=重さ60キロ)ずつ持って自在に振り回すような怪力の柔術名人がガチで稽古をつければ、死人ケガ人が続出するに決まっています。
そこで、初心者は初心者なりに、そうでない人はそうでないなりにうまくなる「型」の必要性が云われるようになり、ここに「警視庁撃剣の形」と、「警視庁柔術の形」が制定されました。
このうち柔術の形は「第一 柄取」から「第十一 上頭」までの全11形で構成されています。
「警視庁武道九十年史」には「継承者もないまま消滅してしまった」とされていますが、国立国会図書館蔵「早縄活法拳法教範図解」(井口松之助著)にはこの11形全てが網羅されており、「警視庁柔術の形」の略全容を知ることができます。
11の形を順に説明しますと、「柄取」「柄止」「柄搦」は刀(=サーベル)の奪取防止措置、「見合取」は相手が抜刀してくるところへのカウンター、「片手胸取」「腕止」「襟投」「スリ込(「早縄…」では「摺込」)」「敵ノ先」は相手の徒手打撃に対するカウンター、「帯取(「早縄…」では「帯引」)は帯掴みへのカウンター、「上頭(「早縄…」では「行連レ 左上頭」)は連行中の相手が襲い掛かってきた場合のカウンターという技の構成。
仔細に技を検分しますと、当て身については「拳で殴る」技が一切ないこと、当て身にせよ投げにせよ、「きれいに投げる」ではなく、「相手の全身をコントロールする」「こちらの力をロスなく相手に伝える」ということが貫かれていることなどから、古の柔術の高い実戦性が伺われます。
なお、同著緒言(=巻頭の言葉)には「明治拾七年ヨリ同拾九年凡三ケ年間警視庁ニ於テ其頃久富鐵太郎先生ヲ初メ各柔術家拾六流儀ヨリ丗有余名ノ世話掛ノ妙手ヲ撰挙シ其後久富先生書冊ニ成サシ…」とあることから、「警視庁柔術の形」が形成されたのは明治19年ころのことであり、その中心編者であった久富鐵太郎(警視庁柔術指南役)が解説書を作っていた、ということがわかります。
(「警視庁武道九十年史」では、その成立が明治21年となっている)
型が制定され、習得すべき技が決まれば、次はその上達度合を証明する段位・級位制度が必要になります。
現在の警察術科は初・中・上級で分けていますが、この級位制度、発足当初は「切紙・目録・免許・名人」という、むかしの柔・剣術方式丸出しの名称でした。
「さすがにこれは、明治日本の警察級位としていかがなものか」ということで諸々検討された結果、1~7級までの級位分けに変更。これが大正時代になって1~5級(各級ごとに上・中・下が存在)、昭和8年には「武道級位規程」により、1~5級(4・5級のみ上・中・下)に改編され、これがなんと、昭和26年ころまで連綿と続いたりします(;^ω^)。
余談ですが、「早縄活法拳法教範図解」の巻頭には、鷲尾隆伯爵・海江田信義子爵の題字、そして滋賀は膳所藩の産んだ大哲・杉浦重剛先生の序題が掲載(いずれもチョー達筆!)されていますが、そのうち、杉浦先生はこのようにしたためています。
「無恃其不来 恃吾有以待」
これは「孫子」の第八章・九変篇(または「九変第八」)の一文で、「故用兵之法、無恃其不来、恃吾有以待。無恃其不攻、恃吾有所不可攻。」(故に用兵の法は、其の来たらざるを頼むこと無く、吾が以て待つこと有るを恃むなり。其攻めざるを恃むこと無く、吾が攻むる可からざる所有るを恃むなり)の抜文。
序題部分の意味は「軍事力を運用する原則としては、敵がやってこないことをアテにするのではなく、敵がいつやってきてもよいだけの備えがあることを頼りとすることだ」ですが、これをサラっと選ぶこのセンス…近年の「努力」とか「闘魂」みたいな、バカと無教養がソッコーでバレるスローガンしか考えられない指導者や監督者は、下の毛まで剃髪して反省すべきでしょう。おっと、余談が過ぎました(;^ω^)。
次回は、警視庁武道振興の立役者・三島通庸と、講道館柔道がいかにして警察に浸透していくに至ったかについてお話しします。
※ 今次連載も、参考文献は最終回にまとめて表示いたします。
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