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時の関守

心の形 (10) 認知症Ⅱ

認知症ということを、スピリチュアル、霊的観点から考えています。
人はこの世で恩の報じ合いをしているのだと考えてみると…
そのなかのひとつの姿が、認知症なのではないかと思っています。

私たちはまず、生まれてきて、育てていただくことによって、おおきな恩をを受けることになります。
そして、成人して、つぎに今度は自分が社会に貢献して、その恩を返していくことになります。
私はこれだけ、税金をはらっている、寄付をした、人をやとって社会に貢献している。
とても、立派なことですが、本当は恩を返しているだけだよ、神さまだったら、そう言うかもしれませんね。

例え、障害があろうが、引きこもりであろうが、関係ありません。
いちように、何らかのかたちで社会に貢献しています。
いぜんは、障害をもつということは、社会のお荷物になっている、そう思うかたも多かったのではないでしょうか。
でも、今はちがいます。
もちろん、そのことが、常識となっているというには、程遠いかもしれませんが、いずれそうなります。

私が見た認知症のかたは、みんな、人のために尽くすことの大好きな人ばかりでした。
とてもすばらしい人ばかりです。
あえて、欠点を探すとしたら、すばらしすぎて、全部自分でやってしまうところがあるかもしれません。
全部やってしまうことが、必ずしも正解とはいえないのでしょう。
次の人に、おおきな課題を残しておくのも、親のつとめかもしれませんね。

認知症とは、霊的に考えると次のようなことだと思います。

私たちは生まれるとき、おおきな恩をうけます。
そして、成人して社会に、その恩を返していくことになります。
その恩を返しおえて終わりではありません。
最後に、若い人が恩を返す、お手伝いが残っています。
若い人が自分の楽しみだけでなく、ちゃんと恩返しができるよう、その恩返しの受け手(報じ場所)になることも必要なのだと思います。
若い人が恩返しできる、機会になってあげることが必要なのです。

ひとに尽くすことができても、尽くされることがにがてな人もいます。
「誰にも私は迷惑をかけずに生きています。」
それは、一見いいようで、人としては足(た)りてないのかもしれません。

認知症とは、
私たちが心低くして、心優しき若者たちが恩を返せるよう、そして、人に尽くされ、優しくされることを受け入れるという、人生最後の(私たちにとっては、難しい)レッスンなのかもしれません。

コメント一覧

yyhsz0502
こんばんは。
こちらのブログ、大変勉強になりました。私の場合は認知症ではなく都合良く記憶を無くした部分があり、思い出せないことがあるのですが…それも私を守る術だったのではないか?と思えるきっかけを与えて下さった気がします。
有難うございました。
また拝読させていただきます。
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