長谷部恭男東大教授が、これまでの放送における表現の自由規制の根拠であった「電波の希少性」=使用できる電波は限定されているからそれを使用する者には公共性の観点からの規制がかけられる=とは違う根拠を持ち出そうとしていることには問題があると前から思っていたが、政府への信頼があまりに厚いことを知り、びっくりした。長谷部教授の授業を受けた方もいると思うが、ぜひ、長谷部教授の考え方について教えてほしい。
びっくりしたのは、毎日新聞2月2日付メディア欄(http://mainichi.jp/life/electronics/news/20090202ddm012010026000c.html)。この中で臺記者は、情報通信法の検討過程のうち、放送に関する規制根拠をめぐる議論を取り上げている。
臺記者は、規制根拠に関する総務省を中心とする議論が「電波の希少性」から「社会的影響力」に変えようとしたが、表現の自由を侵害するとの猛反対を受け、現時点では、「日常生活に必需の情報の送信等の公共的役割」と変遷していることを紹介したうえ、その公共的役割論をリードする長谷部教授の論考を引用している。
【長谷部教授は、かつて民放連の月刊誌「民放」(00年6月号)に寄せた論文「憲法と放送法-市民社会の中の放送制度」で、社会生活の基本となる情報について単一企業に独占されたり、特定の政治的・宗教的立場に偏向することは好ましくないとの考え方を提示した。さらに「主要なメディアについて規制を課すことは理由がある。放送を規制すべきか否かについて決め手となるのは、希少性や影響力の特殊性の有無自体ではない」と持論を展開した】
これって、政府による規制を認めるための論拠の一部なんだろうけれど、「政府」が特定の政治的立場に偏向していることをまったく無視した議論だ。それとも、「政府は東大出身の官僚が牛耳っているから任せておきなさい」ということなのか…。
いずれにせよ、臺記者が引用する匿名の民放連関係者の指摘は至極尤もだ。
【「国が特定のメディアに対して特別な機能・役割を期待し、お墨付きを与える代わりにその履行を義務づけようとするのはおかしい」】
長谷部教授は、憲法学の第一人者と目されているが、このように、政府に対し、無批判な考え方でいいのだろうか。少なくとも、私が習った限りでは、憲法とは、国家権力を縛り、人権を保障するためのものであり、国家権力に対する警戒の目がなければ、論じることはできないはずだが…。
冒頭の長谷部教授の著作は、国家権力に警戒しているようなタイトルだが、彼が変遷したのか、それとも…。
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★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
★「News for the People in Japanを広めることこそ日本の民主化実現への有効な手段だ(笑)」(ヤメ蚊)
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びっくりしたのは、毎日新聞2月2日付メディア欄(http://mainichi.jp/life/electronics/news/20090202ddm012010026000c.html)。この中で臺記者は、情報通信法の検討過程のうち、放送に関する規制根拠をめぐる議論を取り上げている。
臺記者は、規制根拠に関する総務省を中心とする議論が「電波の希少性」から「社会的影響力」に変えようとしたが、表現の自由を侵害するとの猛反対を受け、現時点では、「日常生活に必需の情報の送信等の公共的役割」と変遷していることを紹介したうえ、その公共的役割論をリードする長谷部教授の論考を引用している。
【長谷部教授は、かつて民放連の月刊誌「民放」(00年6月号)に寄せた論文「憲法と放送法-市民社会の中の放送制度」で、社会生活の基本となる情報について単一企業に独占されたり、特定の政治的・宗教的立場に偏向することは好ましくないとの考え方を提示した。さらに「主要なメディアについて規制を課すことは理由がある。放送を規制すべきか否かについて決め手となるのは、希少性や影響力の特殊性の有無自体ではない」と持論を展開した】
これって、政府による規制を認めるための論拠の一部なんだろうけれど、「政府」が特定の政治的立場に偏向していることをまったく無視した議論だ。それとも、「政府は東大出身の官僚が牛耳っているから任せておきなさい」ということなのか…。
いずれにせよ、臺記者が引用する匿名の民放連関係者の指摘は至極尤もだ。
【「国が特定のメディアに対して特別な機能・役割を期待し、お墨付きを与える代わりにその履行を義務づけようとするのはおかしい」】
長谷部教授は、憲法学の第一人者と目されているが、このように、政府に対し、無批判な考え方でいいのだろうか。少なくとも、私が習った限りでは、憲法とは、国家権力を縛り、人権を保障するためのものであり、国家権力に対する警戒の目がなければ、論じることはできないはずだが…。
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★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
★「News for the People in Japanを広めることこそ日本の民主化実現への有効な手段だ(笑)」(ヤメ蚊)
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