ドイツ語で「義憤」を表現する「sittliche Entrustung」は「慥(たしか)に嘲(あざけり)を帯びている」と森鴎外が書いている。かの地では義憤はほめられたことではなかったらしい▼道徳的憤怒や義憤にかられ「けしからん」と叫ぶ。そういうあなたにその資格はおありなのですかと問われてもなお叫ぶ。そんな面の皮の厚さへの皮肉がドイツ語の「義憤」にはあるという▼日本人が義憤にさほどの気恥ずかしさを覚えぬ理由について鴎外は「日本人は誰も彼も道徳上の裁判官になる資格を有しているのであろう。実に国家の幸福である」と書いた。無論、痛烈な皮肉である▼コロナの騒ぎで気掛かりなのは鴎外がたしなめた日本人の義憤が再び大きな顔をしだしていることか。外出はけしからん。マスクを外すのは許せん。帰省はまかりならん。自粛警察と書くのもためらうが、感染防止の道義をかさに着た義憤ウイルスの拡大が小心者には心配である▼終戦記念日である。戦争中、勝利という「正義」のため、そこから外れたものは義憤と義挙の標的になった。ぜいたくは敵であり、戦争を批判するものは非国民である。義を疑う冷静さも、義憤をためらう情も失われていた▼今年で七十五年。戦争は確かに遠くなった。が、戦争を許しかねない土壌はそれほど変わっていないのかもしれぬ。コロナ禍の八月十五日に震える。