写真は手持ちの古い留袖、ではなくたぶんこれは芸者さんの「出の衣装」、
つまり芸者さんの正装、と思います。五つ紋付の黒の「お引き」です。
紋は「裏桔梗」ちと大きめ。紋まで粋ですね。
この着物、留袖とおんなじですよね。そうなんですよ、元はおんなじ物なんです。
前の両褄柄、裏は紅絹ですー。もちろん、共八掛です。
では本日、留袖のお話しから。
まず、どんな着物であれ、そのお話をするには、
江戸ぐらいから…江戸の前ももちろんあるのですが、
「天下泰平」という意味では江戸時代が一番安定していて、
伝統が積み重ねられ磨きあげられていった時期ですから。
まずは、今と比べて江戸時代は「身分差が厳しく」「貧富の差が大きく」
「貧しいものが多かった」わけです。
身分によって絹を着られなかったり、武家政治であったために
「奢侈禁止」が何度も発令されたり。
でも、締め付けられると反撥したくなる…のが世の習いで、
押さえつけられると、別のところでガス抜きをする…ように、
江戸では「表ジミ・裏ハデ」の「裏勝り文化?」が育ったり、
「見立て」や「もどき」で楽しみました。
宮中のお膝元である京都が、一目でわかる雅の美を育てたように、
江戸では庶民が上の眼をかいくぐるように、町人文化を育てたわけですね。
そんな時代に留袖は生まれたわけですが…
詳しく説明するとまた長ーくなってしまいますから、
かいつまんでポイントだけ言いますと、
☆ 最初から留袖というものがあって、それが今も変わらず使われている
というわけではありません。
☆ 元々「留袖」は「袖を留める」という慣わしのこと。
かつては「少女」から「娘」になると、袖を切りました。当然未婚です。
最初のころは「振袖」は子供の着るものだったわけです。
これを「切る」というのは縁起が悪いので「留める」といったわけですね。
その後振袖は「若い娘の特権」にかわり、
かつての「大人になると袖を留める」が、「嫁に行くと袖を留める」
になっていったわけです。
☆ 留袖のことを江戸褄と言いますが、「江戸褄」というのは、
柄のつけ位置のことです。褄、衿の下ですね、
そのあたりに品よく柄を入れた着物。この柄のつけ位置のことからきています。
元々は褄下に小さくはいっていたものが、やがて大きな柄になり、
江戸褄でも「片褄」「両褄」など、いろいろ変化が現れました。
(以前「片褄」の着物をアップしました)
一番見慣れているのがつまりは写真の「芸者さんの黒のお引き」ですね。
そのころは、上記の通り、普通の庶民はみな生活水準が低かったですから、
美しい晴れ着を着て、親族は黒の江戸褄、なんてのは、
ごく一部の裕福な家庭のことだったわけです。
とまぁ、そんなさまざまを考えてみると「結婚式に留袖を着る」という
歴史そのものが、それほど古いものではないわけですね。
ポイントだけといっても長かったですね。
江戸時代は、鎖国のこともあり、さまざまなことが
緩やかに少しずつの変化をしてきたわけですが、
「明治維新」のおかげで、この国は急激にいろいろなことが進み始めました。
開国したことで「身分制度」がかわり「貧富の差」が、
すこーしずつ狭まってきました。
世襲制原則であった「職業」も自由に選べるようになり、
国としても経済発展があり、庶民もがんばれば絹を着られ、
誰もそんなことしちゃダメだといわない、そういう状況になって、
やっと「結婚式には留袖」が一般的な慣習として、
広まり始めたけです。つまり「結婚式に留袖」は
たかだか100年も経ってないことなのですね。
世の中が変わって、いろいろなことが変化していきますが、
だからなんでもいい、ではなくその時代背景の中で、
越えてはいけない一線がどこにあるか、それを見極めていけばいいのだと思います。
今の時代、情報は「過多」といわれるほどあふれ、それがまた瞬時にして伝わり、
全てのことが、まるで新幹線のようなスピードで変化していきます。
そんな中では、ちょっと緩んだことが、あっというまにズルズルになる、
逆に「…なのです」といったことが、「それでなきゃ着物じゃない」
みたいに誤解される…。良くも悪くもストレート。
おまけに着物については、戦前から戦後にかけて急速に洋風文化の風にあおられ、
風前の灯??状態になりました。
なくなりはしなかった代わりに、着物そのものについて「伝達されるべきこと」が、
かなりの部分どっかへ飛んでいき、知っている人も
それぞれの生まれ育った環境によっての知識しかない。
教えられるほうは、まるまるそれを鵜呑みにする…。
だから「いってることが違う」とか「どれがほんとなの」になってしまう。
そういう状態なのですね。
何も全ての衣装の歴史を知ってそれをふまえなければならない、
といっているわけではありません。
留袖の歴史なんて、知らなくてもなんにも困りません。
そのかわり、昨日も書きましたが、
留袖はなぜ着るか、その心を伝えていくことだと思うのです。
親が着るときには、子供の幸せを寿ぐ思いと、その子供のために集まってくれて
お祝いしてくれる人たちに対する感謝と
「どうかこの若い者たちをよろしく」という親心。
それをあらわす衣装だよ、ということです。
こめる気持ちは変わらなくても、形は既に最初よりは大きくかわり、
留袖は「襲の着物」から「比翼」という新しい仕立てが考え出されて、
何枚も重ねて着るよりずっと着易い着物になりました。
このあとはどう変わっていくのかはわかりませんが、
形そのものは、これ以上のあまり変わらないのではないかと思います。
変わるためには「使われなければ」なりません。
数使われるから「ここはこうだったら」と変わっていくのですから、
その時代においてはほぼ完成状態、のまま止まってしまった着物は、
これからは形ではなく、別のところが変わっていくのだと思います。
そのひとつが「着方」ではないかと思っています。
昨日、陽花様から、あの「留袖訪問着」に「紋がジャマですよね」と
コメントいただきました。実はそうなのです。
たとえば、あの縫い取り縮緬の「留袖風」を私が来て出たとします。
目的はデパートでお買い物、ちょっといい食事をしてぶーらぶーら。
でもね、だーれも私の目的なんて知りゃしません。
パッと見は「結婚式帰り」のオバサンが帰り道にお買い物…くらい?
よく見る人は「あらっ比翼がない伊達衿もない、あの人あれで結婚式出たのかしら」。
悩ませちゃうでしょうねぇ、すみません。
かまやしません、私は「オシャレ着」としてきているつもりですから。
でも「紋」だけはジャマですねぇ。いえ、こちらとしては、
「この着物は『紋』も柄のうち」と思ってますからいいんですよ。
でも、見る人は「紋つき」という意識で見ます。
「留袖、比翼なし、でも紋がついてる、なんなんだー」と…、
やっぱ悩ませちゃいますねぇ、すみません。
でも私はこれをそういうふうに着たいのです。
私の年になると「お直しおばさん」は寄ってきません。
でも聞かれることはあります。聞かれたら答えましょう、
留袖だけど、私には用がないからちょっとラフな訪問着にしました、と。
そんなのあるのか???
そのへんをうまく伝えていくことができたら、
大切なことは守りつつ、いまよりもっと着物を楽しく着られるんじゃないかと。
いやー、一行で言い切れることじゃないんですけどね。
とりあえず、留袖つながりで…明日は訪問着のお話の予定です。
つまり芸者さんの正装、と思います。五つ紋付の黒の「お引き」です。
紋は「裏桔梗」ちと大きめ。紋まで粋ですね。
この着物、留袖とおんなじですよね。そうなんですよ、元はおんなじ物なんです。
前の両褄柄、裏は紅絹ですー。もちろん、共八掛です。
では本日、留袖のお話しから。
まず、どんな着物であれ、そのお話をするには、
江戸ぐらいから…江戸の前ももちろんあるのですが、
「天下泰平」という意味では江戸時代が一番安定していて、
伝統が積み重ねられ磨きあげられていった時期ですから。
まずは、今と比べて江戸時代は「身分差が厳しく」「貧富の差が大きく」
「貧しいものが多かった」わけです。
身分によって絹を着られなかったり、武家政治であったために
「奢侈禁止」が何度も発令されたり。
でも、締め付けられると反撥したくなる…のが世の習いで、
押さえつけられると、別のところでガス抜きをする…ように、
江戸では「表ジミ・裏ハデ」の「裏勝り文化?」が育ったり、
「見立て」や「もどき」で楽しみました。
宮中のお膝元である京都が、一目でわかる雅の美を育てたように、
江戸では庶民が上の眼をかいくぐるように、町人文化を育てたわけですね。
そんな時代に留袖は生まれたわけですが…
詳しく説明するとまた長ーくなってしまいますから、
かいつまんでポイントだけ言いますと、
☆ 最初から留袖というものがあって、それが今も変わらず使われている
というわけではありません。
☆ 元々「留袖」は「袖を留める」という慣わしのこと。
かつては「少女」から「娘」になると、袖を切りました。当然未婚です。
最初のころは「振袖」は子供の着るものだったわけです。
これを「切る」というのは縁起が悪いので「留める」といったわけですね。
その後振袖は「若い娘の特権」にかわり、
かつての「大人になると袖を留める」が、「嫁に行くと袖を留める」
になっていったわけです。
☆ 留袖のことを江戸褄と言いますが、「江戸褄」というのは、
柄のつけ位置のことです。褄、衿の下ですね、
そのあたりに品よく柄を入れた着物。この柄のつけ位置のことからきています。
元々は褄下に小さくはいっていたものが、やがて大きな柄になり、
江戸褄でも「片褄」「両褄」など、いろいろ変化が現れました。
(以前「片褄」の着物をアップしました)
一番見慣れているのがつまりは写真の「芸者さんの黒のお引き」ですね。
そのころは、上記の通り、普通の庶民はみな生活水準が低かったですから、
美しい晴れ着を着て、親族は黒の江戸褄、なんてのは、
ごく一部の裕福な家庭のことだったわけです。
とまぁ、そんなさまざまを考えてみると「結婚式に留袖を着る」という
歴史そのものが、それほど古いものではないわけですね。
ポイントだけといっても長かったですね。
江戸時代は、鎖国のこともあり、さまざまなことが
緩やかに少しずつの変化をしてきたわけですが、
「明治維新」のおかげで、この国は急激にいろいろなことが進み始めました。
開国したことで「身分制度」がかわり「貧富の差」が、
すこーしずつ狭まってきました。
世襲制原則であった「職業」も自由に選べるようになり、
国としても経済発展があり、庶民もがんばれば絹を着られ、
誰もそんなことしちゃダメだといわない、そういう状況になって、
やっと「結婚式には留袖」が一般的な慣習として、
広まり始めたけです。つまり「結婚式に留袖」は
たかだか100年も経ってないことなのですね。
世の中が変わって、いろいろなことが変化していきますが、
だからなんでもいい、ではなくその時代背景の中で、
越えてはいけない一線がどこにあるか、それを見極めていけばいいのだと思います。
今の時代、情報は「過多」といわれるほどあふれ、それがまた瞬時にして伝わり、
全てのことが、まるで新幹線のようなスピードで変化していきます。
そんな中では、ちょっと緩んだことが、あっというまにズルズルになる、
逆に「…なのです」といったことが、「それでなきゃ着物じゃない」
みたいに誤解される…。良くも悪くもストレート。
おまけに着物については、戦前から戦後にかけて急速に洋風文化の風にあおられ、
風前の灯??状態になりました。
なくなりはしなかった代わりに、着物そのものについて「伝達されるべきこと」が、
かなりの部分どっかへ飛んでいき、知っている人も
それぞれの生まれ育った環境によっての知識しかない。
教えられるほうは、まるまるそれを鵜呑みにする…。
だから「いってることが違う」とか「どれがほんとなの」になってしまう。
そういう状態なのですね。
何も全ての衣装の歴史を知ってそれをふまえなければならない、
といっているわけではありません。
留袖の歴史なんて、知らなくてもなんにも困りません。
そのかわり、昨日も書きましたが、
留袖はなぜ着るか、その心を伝えていくことだと思うのです。
親が着るときには、子供の幸せを寿ぐ思いと、その子供のために集まってくれて
お祝いしてくれる人たちに対する感謝と
「どうかこの若い者たちをよろしく」という親心。
それをあらわす衣装だよ、ということです。
こめる気持ちは変わらなくても、形は既に最初よりは大きくかわり、
留袖は「襲の着物」から「比翼」という新しい仕立てが考え出されて、
何枚も重ねて着るよりずっと着易い着物になりました。
このあとはどう変わっていくのかはわかりませんが、
形そのものは、これ以上のあまり変わらないのではないかと思います。
変わるためには「使われなければ」なりません。
数使われるから「ここはこうだったら」と変わっていくのですから、
その時代においてはほぼ完成状態、のまま止まってしまった着物は、
これからは形ではなく、別のところが変わっていくのだと思います。
そのひとつが「着方」ではないかと思っています。
昨日、陽花様から、あの「留袖訪問着」に「紋がジャマですよね」と
コメントいただきました。実はそうなのです。
たとえば、あの縫い取り縮緬の「留袖風」を私が来て出たとします。
目的はデパートでお買い物、ちょっといい食事をしてぶーらぶーら。
でもね、だーれも私の目的なんて知りゃしません。
パッと見は「結婚式帰り」のオバサンが帰り道にお買い物…くらい?
よく見る人は「あらっ比翼がない伊達衿もない、あの人あれで結婚式出たのかしら」。
悩ませちゃうでしょうねぇ、すみません。
かまやしません、私は「オシャレ着」としてきているつもりですから。
でも「紋」だけはジャマですねぇ。いえ、こちらとしては、
「この着物は『紋』も柄のうち」と思ってますからいいんですよ。
でも、見る人は「紋つき」という意識で見ます。
「留袖、比翼なし、でも紋がついてる、なんなんだー」と…、
やっぱ悩ませちゃいますねぇ、すみません。
でも私はこれをそういうふうに着たいのです。
私の年になると「お直しおばさん」は寄ってきません。
でも聞かれることはあります。聞かれたら答えましょう、
留袖だけど、私には用がないからちょっとラフな訪問着にしました、と。
そんなのあるのか???
そのへんをうまく伝えていくことができたら、
大切なことは守りつつ、いまよりもっと着物を楽しく着られるんじゃないかと。
いやー、一行で言い切れることじゃないんですけどね。
とりあえず、留袖つながりで…明日は訪問着のお話の予定です。
寿光織、仕立ての修行時代に何枚も縫いました。縫い取りのところが地厚になっていてちょっと縫い難かった思い出が。当時、白生地で売られていて、お好きな色の色留袖にできますよ、最後に黒留にされればいいんですよ、というウリだったと憶えています。その頃のがどうだったかはわかりませんが、今の縫い取り訪問着(風色無地?)などは、縫い取り部分が防染糸で、無地染めすると、柄が浮き出るようになっているものもあるようです。
留袖を訪問着に、という場合、色留を、一つ紋、場合によっては三つ紋で、比翼をつけずに仕立てるのを、訪問着仕立てと呼んでいました。
喪服もそうですが、黒留は黒留でいいんじゃないかなあ・・・無理にほかの着方をしなくても、とも思います。もったいないような気もするんですけどね。
きっと「知っているから、しない」「知っているから、やってみる」どちらも必要。こういうの部分でセンスがみがかれて
ゆくとは思いますが…論議よびそうですね^^
いう意識が強いですからねぇ
紋のところを上手く染めてくれる所が
あればいいのにと思いますね。
紋の上絵は墨で描かれているので、白場を黒く染めても墨の線が光って出て来ると上絵屋さんから聞きました。
それで、上絵落としをしてから上絵屋さんで黒く塗って貰ったのですが、これが間違いでした。
上絵の墨は落とした方が良いのですが、黒く染めるのはこちらの方が上手かったのです。
結局少し見える位までは消してお客様には納得してもらいました。
袖が長めであったので、上絵の跡を袖山にして目立たなくする事が出来たのも幸いでした。
と言いきってしまっては身も蓋もないが、ルールが多いので着る人が減ってるんだから自分の気にいったように着ればいいと思います。
白州正子さんも結構型破りだったそうじゃありませんか。
もっとも主人に言わせればえみこさんとおなじようなことを言ってます。
「知ってるけど、やってる」同じ事を私がやれば「知らないでやってる恥知らず」と言われました。
ものすごく大切なお話、ありがとうございました。
「どうせ、きもののことわかる人なんていないから、ワタシがこう着てしまえばこんなもんでしょ!」と言ってしまったら、心無い着姿になってしまうと思うし、かといって、「本にこう書いてあるから、こうなのね。あのヒトがそういってたし。」では、一向に身に添わないままで終わりそう。
肌から、しみこんでくるほどには、きものは身近にはいないから、なんだか「あわてて買い込んで着る」ものになってしまったのでしょうか。
でも、とんぼさんのおっしゃった、お祝いしてくださる方への感謝と若い者をよろしくという、気持ちをこめて纏う・その気持ちはずっと大切にしていきたいと思います。伝わらない世の中になっても。
というわけでしょうか、
長唄のお師匠さんの制服は
流派で決まった比翼なしの留め袖です。
娘歌舞伎の市川櫻香さんも
同じように留め袖姿だったのを見ましたから、
身分の制服としての着物がどんどん無くなっている今、
襲アリでもなしでも、黒留め袖は
残された数少ない制服のひとつですね。
名古屋は結婚式の留め袖、葬式の黒紋付き着用率がまだ高いと思うので、
その習慣は大切にしたいと思います。
すみません、この反ものは
以前に紹介したものでして、
つい説明不足になりました。
おっしゃるとおり、の部分も大いに
あると思います。
私の場合は、まずこれは自分で買ったもの
ではなくて、ほぼタダみたいな価格で
いただいたものであること、
身内全般見渡しても、もう留袖を着ることは
ないと思われること(あっても持ってますし)
それとこの着物がとても好きだから
「着たい」という気持ちに
勝てなかった、ということだと思います。
もしこれが普通に販売されていたものなら、
わざわざ買ってまではしなかったと思います。
つまり、いろんなケースがあるってことですね。
そのようにご理解いただけたらと思います。
そうですね。
これはほんとに言葉を尽くしても
うまくお話しできない部分が
たくさんあります。感覚的なもの、といいますか。
それはそれでまた少しずつ
書いてみたいとおもっています。
ほんとに「紋」って、つぶすのが
たいへんだそうで、何も言わないうちに
9割方あきらめて、といわれました。
紋を入れる技術はすごいのにねぇ…です。