写真は訪問着ではなくて「紬の付けさげ」です。あしからず…。
これは「古着市」でみつけたもの、安かったっすー。さていつだったか…。
縦横の節のある紬です。透けて見える感じなのは、縦横の節糸が
光を反射しているためで、実物はけっこう厚手、ちと着づらいです。
元々、ずいぶん大柄の人のものだったようで、私にはだぶだぶでしたので、
仕立て直してもらって、結局そのまんまになっていました。
柄がかわいいんですよ、子供たちが遊んでます。
寺子屋の昼休みって感じでしょうか…広すぎじゃ。
真後ろの裾にもいます。
一応落款入りですが、んなものはアテになりません。
そろそろ着ませんとねぇ。
さて、訪問着は留袖より、更に新しいもの。
生まれた経緯については、検索すると出てくると思いますが、
新しい時代に、それこそ自然発生ではなく
「デパートが考案したもの」という形で生まれたというのが定説です。
昨日と同じまずは江戸の昔から…。
江戸時代がどうだったかは、昨日書きましたので省略しますが、
もうひとつ、昔は「ハレとケ」というものがハッキリしていました。
「ハレ」は「非日常」「ケ」は「日常」です。
そして「ハレ」の日は、今に比べてずっと少ないものでした。
「ハレ」は誕生とか元服とか結婚とか、そういったお祝いということだけでなく、
お花見も、芝居見物も、お祭りも含みます。
昔の暮らしは、一年中ほとんど休みなく
「おてんとさまと起き、おてんとさまと休む」…。
ちなみに、お店奉公の奉公人は休みは年二回、それも日帰りです。
やぶ入り、と言いましたが、その時だけはお休みでもあとの363日は
ひたすら働いたわけです。
つまり普段は縞だの格子だの無地だののジミ~な着物でシゴトに励み、
「ハレ」の日にはその分、思い切りはじけたわけですね。
花見などは、木の間に紐を張って小袖を幔幕代わりに下げるという
「小袖幕」なんてことも行われました。
着物の品評会みたいにはなやかだったでしょうね。
時代が変わって、人々は「働くだけじゃなくなった」わけです。
もちろん時間をかけて変わりましたが、
その中で、まず裕福な女性たちが外に出るための着物に不自由し始めました。
やれお茶会だのお芝居だのパーティーだの…。
それまでハレとケしかなかったので、着物も「ピン」と「キリ」しかないのです。
そこで、ピンよりもうちょっとラクに着られるものがほしい…、
というニーズに合わせて、デパート(当時のデパートは呉服屋さん主流)が、
洋装においての「ビジティングドレス」を参考に
たとえば宮内庁でも、女性の洋装として決められたこのスーツがありますが、
ランクづけでこのあたりに位置する着物、
ということで考え出されたもの、これが訪問着です。
私、洋装のしきたりはほんとに弱いんですが、
洋装の礼装は昼用と夜用があります。
ビジティングドレス、という名称はイマドキ聞きませんが、
宮内庁の決まりでは、礼服の下に位置づけられるもので、
侍女などが着用したもの、どちらかというと「制服」みたいな感じに見えます。
こちらに写真があります。
つまり第一正装よりちっと下の着物、それでランクから言うと、
その「ビジティング」になるので、そのまま「訪問服」と呼んだわけです。
留袖や色留となると、どうしても「らしい色・らしい柄」になりますが、
訪問着ならば、別に吉祥紋でなくともいいし、
留袖より柄付けが多いですから、ハデにしたければハデに、
おとなしくしたければおとなしく、と、割と自由にできたわけです。
それでこれはヒットしたわけですね。ただし最初のころは、紋付でした。
当然、最初はこういう着物は裕福でなければ買えなかったわけですが、
時代がさがって庶民にも手が届くものになってくると、
「礼」に関して使える重宝な着物として、定位置を確保したわけです。
ただし、さまざまな社会的変化に合わせて「あまり堅苦しくないほうがいい」で、
紋はつけないことが多くなりました。
紋ってほんとに面倒なものなのですよね。
訪問着、というとその名前とか、或いはしきたり辞典みたいなもので
「結婚式」だのなんだのの「正装」として紹介されているために、
たいへん重厚なもので、やたらに着られない…という印象ですが、
実はそうでもない場合もある、と思っています。
もちろん紋がついていると、そうです、あの「留袖もどき」と同じで、
こっちがいくら「紋ごと模様よ」と言ってもねぇ…です。
紋がなくて、金銀などがあまり使われていなくて、割と柄もおとなしめ、
なんていう場合は、もっと気楽にきればいいと、私は思います。
訪問着は、はじめに「訪問服」という名前のほかに
「散歩着」という名前もありました。散歩というとちっとハズれる気がしますが、
つまり、かの時代にお金持ちの奥様が「今日は○○の奥様とお芝居を見て、
帰りに銀座へでも行って、おすしでも食べて…」なんていうこと…。
つまり、格式ばったことじゃなくても着られるもの、
という意味での「散歩着」だったと思います。
「小紋」が、その色柄によって幅広く使える重宝さがあるように、
訪問着にも、そういう「幅」はあるものだと、私は思っています。
ちなみに付け下げの生まれた経緯は、以前お話しましたが、
戦争で、またしても「奢侈禁止」が叫ばれるようになったときに、
絵羽仕立てではなくて、訪問着ほど派手じゃなくて、それでいて
見た目はけっこう豪華、という再び「禁」を「かいくぐったもの」として
うまれたものです。
実は今日は時間がありませんで、もう少し書きたかったのですが、
とりあえず説明途中で、この先は続き、と致します。
これは「古着市」でみつけたもの、安かったっすー。さていつだったか…。
縦横の節のある紬です。透けて見える感じなのは、縦横の節糸が
光を反射しているためで、実物はけっこう厚手、ちと着づらいです。
元々、ずいぶん大柄の人のものだったようで、私にはだぶだぶでしたので、
仕立て直してもらって、結局そのまんまになっていました。
柄がかわいいんですよ、子供たちが遊んでます。
寺子屋の昼休みって感じでしょうか…広すぎじゃ。
真後ろの裾にもいます。
一応落款入りですが、んなものはアテになりません。
そろそろ着ませんとねぇ。
さて、訪問着は留袖より、更に新しいもの。
生まれた経緯については、検索すると出てくると思いますが、
新しい時代に、それこそ自然発生ではなく
「デパートが考案したもの」という形で生まれたというのが定説です。
昨日と同じまずは江戸の昔から…。
江戸時代がどうだったかは、昨日書きましたので省略しますが、
もうひとつ、昔は「ハレとケ」というものがハッキリしていました。
「ハレ」は「非日常」「ケ」は「日常」です。
そして「ハレ」の日は、今に比べてずっと少ないものでした。
「ハレ」は誕生とか元服とか結婚とか、そういったお祝いということだけでなく、
お花見も、芝居見物も、お祭りも含みます。
昔の暮らしは、一年中ほとんど休みなく
「おてんとさまと起き、おてんとさまと休む」…。
ちなみに、お店奉公の奉公人は休みは年二回、それも日帰りです。
やぶ入り、と言いましたが、その時だけはお休みでもあとの363日は
ひたすら働いたわけです。
つまり普段は縞だの格子だの無地だののジミ~な着物でシゴトに励み、
「ハレ」の日にはその分、思い切りはじけたわけですね。
花見などは、木の間に紐を張って小袖を幔幕代わりに下げるという
「小袖幕」なんてことも行われました。
着物の品評会みたいにはなやかだったでしょうね。
時代が変わって、人々は「働くだけじゃなくなった」わけです。
もちろん時間をかけて変わりましたが、
その中で、まず裕福な女性たちが外に出るための着物に不自由し始めました。
やれお茶会だのお芝居だのパーティーだの…。
それまでハレとケしかなかったので、着物も「ピン」と「キリ」しかないのです。
そこで、ピンよりもうちょっとラクに着られるものがほしい…、
というニーズに合わせて、デパート(当時のデパートは呉服屋さん主流)が、
洋装においての「ビジティングドレス」を参考に
たとえば宮内庁でも、女性の洋装として決められたこのスーツがありますが、
ランクづけでこのあたりに位置する着物、
ということで考え出されたもの、これが訪問着です。
私、洋装のしきたりはほんとに弱いんですが、
洋装の礼装は昼用と夜用があります。
ビジティングドレス、という名称はイマドキ聞きませんが、
宮内庁の決まりでは、礼服の下に位置づけられるもので、
侍女などが着用したもの、どちらかというと「制服」みたいな感じに見えます。
こちらに写真があります。
つまり第一正装よりちっと下の着物、それでランクから言うと、
その「ビジティング」になるので、そのまま「訪問服」と呼んだわけです。
留袖や色留となると、どうしても「らしい色・らしい柄」になりますが、
訪問着ならば、別に吉祥紋でなくともいいし、
留袖より柄付けが多いですから、ハデにしたければハデに、
おとなしくしたければおとなしく、と、割と自由にできたわけです。
それでこれはヒットしたわけですね。ただし最初のころは、紋付でした。
当然、最初はこういう着物は裕福でなければ買えなかったわけですが、
時代がさがって庶民にも手が届くものになってくると、
「礼」に関して使える重宝な着物として、定位置を確保したわけです。
ただし、さまざまな社会的変化に合わせて「あまり堅苦しくないほうがいい」で、
紋はつけないことが多くなりました。
紋ってほんとに面倒なものなのですよね。
訪問着、というとその名前とか、或いはしきたり辞典みたいなもので
「結婚式」だのなんだのの「正装」として紹介されているために、
たいへん重厚なもので、やたらに着られない…という印象ですが、
実はそうでもない場合もある、と思っています。
もちろん紋がついていると、そうです、あの「留袖もどき」と同じで、
こっちがいくら「紋ごと模様よ」と言ってもねぇ…です。
紋がなくて、金銀などがあまり使われていなくて、割と柄もおとなしめ、
なんていう場合は、もっと気楽にきればいいと、私は思います。
訪問着は、はじめに「訪問服」という名前のほかに
「散歩着」という名前もありました。散歩というとちっとハズれる気がしますが、
つまり、かの時代にお金持ちの奥様が「今日は○○の奥様とお芝居を見て、
帰りに銀座へでも行って、おすしでも食べて…」なんていうこと…。
つまり、格式ばったことじゃなくても着られるもの、
という意味での「散歩着」だったと思います。
「小紋」が、その色柄によって幅広く使える重宝さがあるように、
訪問着にも、そういう「幅」はあるものだと、私は思っています。
ちなみに付け下げの生まれた経緯は、以前お話しましたが、
戦争で、またしても「奢侈禁止」が叫ばれるようになったときに、
絵羽仕立てではなくて、訪問着ほど派手じゃなくて、それでいて
見た目はけっこう豪華、という再び「禁」を「かいくぐったもの」として
うまれたものです。
実は今日は時間がありませんで、もう少し書きたかったのですが、
とりあえず説明途中で、この先は続き、と致します。
お写真の紬もツボでした。かわいい柄ですね。
ぱっと見て、おさえめの感じで
よく見て…ほっとなごむような感じで好きです。
次回のお話お待ちしてます。
珍しいつけ下げですね。
写真でみると本当に光っていて薄い生地に
見えるのですが、重いんですか。
私にはちっと柄が大きいのです。
でも一目ぼれでした。
金沢の女将さんのものだとかいってました。
今日の話しは長いですー。
経糸が光るみたいで、透けてるみたいに
見えますね。
実は縦横に節糸なので、なんていうか、
パリっと張りがあって、着づらいです。
体になじみにくい織物のようです。