以前木綿について少しばかりお話しいたしました。
今日はもう少し詳しくいってみましょう。
写真は「藍染」「備後」「会津」・・全て木綿です。
特に今は「藍染」の価格がほんっとに高いっ!
もう古いものはなくなる一方ですから、高くなるのはしかたないのですが、
これが普通の木綿のハギレだったら、ボロとしか呼べない・・というものも、
お高いんですねぇこれが・・・。ちなみに昔の藍のかいまき布団で「家紋入り」
なんてぇものですと、ゥン万円も致しまして、羽毛布団5点セットなんてのが
いくつも買えちゃうという、とんでもない価格になります。ほお~っ・・
嘆いていないで本題に入りましょう。
例によって、とんぼ流おおざっぱ説明ですが、
木綿が日本に伝わったのは、奈良時代・・とかなり古いのですが、
このころはとにかく「お宝」のようなものです。
とても一般の人に普及するようなものではありませんでした。
800年頃に、今の愛知県西尾市天竹町に難破船遭難者として漂着したインド人が
「綿種」を初めて伝えた・・といわれています。
残念ながらこの時の木綿は、歴史上でいうと「定着」はしませんでした。
持参した種が南方での栽培に適したものだったため、日本の気候では
栽培がうまくいかなかったのですね。ただ、三河の木綿の歴史では、
そのときから木綿を作った・・となっています。一時がんばったのでしょうが
結局100年足らずで衰退したようです。
しかし、もともと「三河の国」つまり愛知ですが、この地は繊維業が盛んで、
絹なども、たいへん質のよいものを産出したそうです。
木綿に戻りましょう。その後木綿は生地として輸入に頼っていたわけですが、
戦国時代に中国経由で入ってきた綿種が日本の土壌、気候でも
栽培可能であったため、広く栽培されるようになったわけです。
この栽培が盛んになったことの理由の一つが以前にも書いた「軍需産業」です。
つまり、戦で使う「陣幕」「兵衣」「帆布」などが必要になったわけですね。
信長にいたっては「火縄銃」の「火縄」部分にも使ったわけで、
木綿の需要が一気に高まったわけです。
今私たちがTシャツを着られるのは信長さんのおかげ・・かいな・・。
ともあれ、木綿は三河・伊勢あたりから全国に広がっていったわけです。
ものが流通するには、それなりのシステム・ルート、が必要ですが、
軍事に使うものとして大量に作られるようになったため、
これが確保できたわけです。つまり木綿を作る人、それを糸や布にする人、
それを買い上げたり販売したりする人、それを買って使う人・・ですね。
木綿栽培ができ、それまで自給自足であったための「機織」の技術を持つ女性が
お金を稼ぐために「機織」を副業とするようになったこと、
商売になると踏んで、木綿を買い付ける仲買や小売をするというシステムが
できたこと・・そういうことが確立していって、木綿が普及したわけです。
木綿はそれまで主流であつた麻よりも柔らかく暖かく、また染めやすかったため
たいへん重宝されたわけですが、それでも一般庶民が木綿を生活着として
使うようになったのは江戸時代にはいり、世情が落ち着いてからです。
よく藍染木綿の古着について話が出ると、どうしても「東北」が中心になります。
これは、江戸時代にはいっても寒冷地の北国では栽培ができなかったことに
由来するのではないかと思っています。つまり、栽培できないということは
自給自足ができないということで、どうしても「買う」ことになります。
ほとんどの人間がそれほど豊かではなく、まして農民は一番貧しかった時代、
遠くからやってくる「木綿」はたいへん貴重で高価なものであったはずです。
北国の「藍染」「刺し子」「こぎん」などは、単に布を補強するという
目的だけでなく、貴重な木綿を出来る限り長く大切に使うための
知恵としてうまれたものではないかと思っています。
手縫いと日本の女性の針仕事について造詣の深い「森南海子」氏の本に、
日本各地での「手仕事」の記録がありますが、あるとき見せられた布の塊、
それはマッチほど、或いは切手ほどの小さな小さな藍木綿のハギレをとにかく
ひたすらつないだもの、つないだといってもパッチワークなどというものではなく
ひたすら串刺しのようにゴチャゴチャにつないである・・それが
布団だといわれたそうです。最後の切れ端まで捨てなかったのですね。
木綿は丈夫な素材であるがため、そのリサイクル・リフォームも
絹の着物以上に行われました。最初から藍で染めて堅固にし、
刺し子やこぎんで補強して使う。それが傷んでくるとツギをあて、その後は
いいとこ取りでつなぎ合わせて着るものや布団など大きなものにし、
傷んだ小さなものは小さなものではぎ合わせ、重ね合わせて別のものにする。
布として使えなくなれば、裂いてそれを「緯(よこいと)」として機にかけ
裂き織りにしたり、ひもとして「編む」ことで別のものを作る・・。
細いものはわらじや籠の背負い紐に編みこむ・・こうして最後は火にくべられ
灰となって「肥料」となる・・究極のリサイクルですね。
参考資料ですが、木綿の切れ端を編んだ「背負子(しょいこ)」の下に着るもの、
真綿を入れるのと同じく暖をとる目的と同時に、籠や背負子など
硬い素材を背負うのに、体へのアタリを和らげる役目をしたものと思います。
アップ写真を見ると、もうよくぞここまで・・とアタマが下がります。
これを見てからは、余計にハギレが捨てられなくなりました。
いまや木綿はほとんどが輸入です。おかしなものですね。
元々日本が養蚕業を普及させたのは、それまで輸入していたのをやめるためですが
理由は「輸出するものがなくなるから」です。つまり、当時はけっこう
鉱石などを輸出して、かわりに絹を輸入していたのですね。
ところが日本は「資源」のない国です。
それで、こんなことやってると売るものがなくなっちまう・・というわけで、
国内産の絹を奨励したわけです。木綿だって似たような経緯で始まってます。
それなのにいつのまにか、日本は何でも「輸入」する国になってしまいました。
外国産が安い・・ということが一番の理由でしょうが、
日本の絹、日本の木綿、日本の麻・・がほとんどないなんて・・。
ナンかヘンだなぁ、日本は着物の国なのに・・。
さて、最後は木綿の種類です。木綿にもいろいろあって、最初に出てきた
「南方の種」は、エジプト綿、インド綿など。長繊維種です。
最近よく耳にする「新疆綿(しんきょうめん)」は、中国の西の端、
モンゴルの隣「ウィグル自治区」でとれる「超長繊維種」、
しなやかで絹のような手触り、下着などにもよく使われます。
現在木綿として世界に流通しているのは「アメリカ綿」といわれる種類
(何十種もあるのだそうで)が多く栽培しやすく、質が良くて丈夫だそうです。
総じて繊維のながいものは「高級品」として使われます。
木綿のお話し、染め織りのことを付け加えると、更に長くなりますので、
とりあえず今日はこのあたりで・・。
染め織りについては別の機会と致しましょう。
立派なものですね。
木綿とも思えない、しわにもならない布あるんですね。Tシャツで一万円以上しますが、この生地着るとヒヤッと冷たいんです。
あんな着物生地ありますかしらね。木綿の着物実は持ってません。しわにもならず、着ると涼しい、よさげですよね。
とんぼさんがおっしゃるように、木綿はつぶしが利きますから、とても重宝する布地ですよね。
私も、普段は下着として、真っさらな濃い口のシャツに晒し木綿のふんどしを締め、木綿と麻の混紡のステテコをはいて、その上は用途に応じて着替えてるわけですが、なんてったって木綿は万能ですから、先日も古いふんどしを四等分して洗って干してましたら、義母や妻が、それを何に使うのか?と聞きますから、茶碗拭きに使ってもいいし、台布巾にしてもいいし、なんて冗談で言いましたら、彼女らは異口同音に「ちょっと、やめてよおー!」なんて言ってました。(笑)
別に、洗ってあるんだからいいと思いますけどねえ!(笑)
着物素材でなければ、最初からシワになってるワッシャーなんて生地もありますが、なかなか難しいですね。化繊はシワの心配はありませんが暑いし・・。夏場は毎年着物が遠ざかります。
千兵衛様
できれば四等分した「元」ふんどしは、「マイ茶碗拭き」「マイ台布巾」にとどめ置かれたほうが、よろしいかと存じます。
「濃い口」は「鯉口」ですね。以前は毎年学校で夏祭がありましたので、ちびさんで既製品のあわない息子に「細身の鯉口」「股引き」「どんぶり」を作りました。お祭着って見ているだけでウキウキします。楽しいですよね。
自分のブログだと翌朝チェックして訂正するのですが、このようなコメントだとそれもかなわずで、恥の書きっぱなしになってしまいますぅ(笑)
昨夜も、りさこさんへの返事で、漢字の誤変換ではないのですが、「~でしたけど、」と書くべき所を、最初「~でして」と書いて、そのあと、やはり「~でしたけど」に訂正したつもりが、今朝チェックしましたら「~でしてけど」になってました(笑)まあ、この場合は書き間違えというのが、はっきり判りますから(方言だと思われちゃうかな?)特に訂正せずとも、大丈夫だと思いますけど、それでなくとも、夜は燃料満タンですから(笑)突っ走って書いちゃう事が多いんですよねー!反省してます!(笑)
よくやるんですよ、私も。本人ちゃんと「やってるつもり」だから始末が悪いですよね。笑える誤変換なんてのもありますね「汚職事件」と「お食事券」なんてヤツ。
ところで、千兵衛様は鯉口は浅草で買われるのですか?メーカーによっていろいろちがうものだと聞いたのです。140センチサイズの細めのがほしいなぁと思っているのですが。