ブログのお客様から「暮らしの手帖の古い本があるのですが」と、お声をかけていただき、
ありがたく、本当にありがたく頂きました。なんとダンボール3箱です。Y様、ありがとうございました。
一番古いのは1962年、私が小学校6年生…のとき…シャボン玉ホリデー、なんてあったときです。
とりあえず、一冊ずつじっくり見て、これから話題にしたいことなど見つけたいと思っています。
本日はその第一弾…なんですが、ちょっと寂しいお話し…。
たまたま最初に手にしたのが、この一番古い本でした。
その最初に「赤いカーネーションにそえて」…とあり、サブタイトルが「中年すぎたおかあさんに」。
なんかチクリとくるなぁ…とぺージを開いてみたら…。
タイトルは「いつまでも美しく いつまでも元気で いつまでも」
そして詩のような一編があるのですが、その途中から抜粋しますと…
「いつかお母さんは もうそろそろ中年もすぎたから 洋服をやめなくちゃね
といっていたでしょう やめてほしくないんです おばあさんみたいなの いやなんです
洋服を着て ちょっとおしゃれしてるお母さん すてきですよ
約束してください お母さん やっぱり洋服にするって」
えっ?えぇっ?ちょっと待ってクラハイ。着物は「おばあさんみたい」、なわけ?
実は、そういう記事でした。
次のページから、例えば随筆家の福島慶子女史、料理と登山の黒田初子女史など、
だいたい明治30年40年代生まれの女性、当時の著名人…ですね。記事のころ50代60代です。
その人たちが「だから着物はやめた」とか「着ない」とか…。
その中に「沢村貞子さん」がいたのですよ。当時で50代半ば…。
タイトルがすごい「とにかく和服は着てられません」。信じられない言葉でしたよー。
でも、6人の女性が「着物は着ない」という理由が「あぁそれで…」と、納得しました。
沢村さんだけは、ジミハデが理由ではありませんでしたが、ほかの5人はみな同じ、
つまり…最初の「詩」にあるように、当時は「中年以降の年相応の和服姿」というのが、
どうしてもババくさいものだったのですね。
「中年の着物は何でこんなに沈むのか」とか「中年になると、着物は赤いものが着られない」とか、
「着物はアクセサリーもなんとなく年相応になんとなくきまりのようなものがあって…」とか。
思えば、このころ、つまり私がまだ子供だったころですが、いわゆる洋服のファッションというものが、
いろいろでてきて、サックドレスとか、何とかラインとか、何々ネックとか…。
この本でもとにかくデザインが自由であることと、洋服だと年をとっても、というより年をとるほど、
赤や黄色など明るくてきれいな色を着られる…と、そのミリョクを語っています。
昨日の「高畠華宵」の本もそうなのですが、華やかな着物について明治大正は、
とにかく対象はなんかしらんけど「若い人」。「大柄」はせいぜい40どまりです。
私は、これが着物離れの大きな原因の一つになったのではないかと思っています。
つまり、いつの時代も中年以降は忘れられるのですよね。
洋服の方が若い格好もできるし、きれいな色も着られる…と、
若い人以上に、当時の中年の着物離れの理由は、デザインや活動性だけではなかったと思います。
この「年齢によるもの」と言うのは、実は大昔から引きずってます。
特に江戸時代は「未婚既婚」で、髪型や化粧までもが変わりました。
これは時代背景もあって、まず平均寿命が短かいのですが(平均30歳とも40歳とも言われています)、
これは乳幼児の死亡率が非常に高かったからですね。
また女性が妊娠や出産で命を落とす確率は、今よりはるかに高かったわけです。
だから、子供が無事生まれて育つとお祝いは盛大にやりましたし、5歳までは人間ではないとも言われました。
やっと育って、女の子は子供を産めるようになる…このころはもう「宝物」みたいなものです。
そして結婚も早いですから「花」の期間が短い…そこで若い娘は麗々しく着飾るわけです。
そして嫁に行けば「家」に嫁ぐわけですから、人の妻になったら家を守り、子供を産み育て、
家を盛りたてる…チャラチャラはしていられません。派手な着物はナシ、袖がちょっと長いくらい。
そしてあっという間に年増になって、40くらいでもおばぁちゃんなんて珍しくもなかった…。
つまり「娘」と「妻」で、ガクンと差がでるわけですね。
これがずーっと続いて、結局いつまで経っても「中年過ぎたらジミに」がアタリマエ。
これは明治大正と、呉服屋さんが時代に乗り遅れたこともあったんだと思います。
色柄ハデは、若い人…ここから抜け切れなかったのですね。
洋服は年をとってもデザインがありますから、欧米の女性は年をとるごとにきれいな色を着ます。
着物はデザインが均一なのですから、多少なりとも若い人向きの色で柄を小さくしたものを作るとか、
中年以降でもこのくらいは着ても…と中年の客層向けの「意識変化」を促す努力を大事にしなかったのですね。
私が子供のころ、つまり昭和30年代の近所のおばさんたちの着物姿、
茶、黒、グレー、紬でも木綿でもウールでも、やたら細かい柄…しか思い出せません。
40過ぎると、浴衣まで細かい柄だったような気がします。今なら「病院で着るヤツ」みたいな。
つまり、着物は洋装の「デザイン豊富」という理由だけに負けたわけではなく、色柄にも負けたんですね。
本当は着物は色柄こそ「勝負どころ」なのに。
確かに戦後、なんだかわけのわからないモダンだという柄が出てきたり、洋服まがいに首を詰めるの、
腰を絞るのと、ものすごい着方なども考え出されましたけれど、ポイントが違いました。
着方なんか好きなようでいい、色柄という点で、もっと優雅な「中年向き」の普段着物を
もう一度考えるべきではなかったかと思います。
そして着る側もまた「年」にとらわれずに、私はこれ着るわ、と若い人向けの色柄を選ぶ意識を
もっともてばよかったのではないかと…。いや、当時の世相や、この方たちが育った時代を考えれば
難しいことではあるのですが…。
先ほどの沢村貞子さんの「とにかく和服は着ていられません」ですが、
女史だけは、色柄のことではなく「手間」のことでした。
当時たいへん売れっ子でしたから、ロケの移動などで寝台車に乗ったりするとき、
脱ぐのはいいが着るのがたいへん…と。帯でも着物でも床に擦れさせられませんから。
今の時代なら、遠方は飛行機、新幹線、たとえ寝台車でも、
売れっ子さんなら個室寝台でしょう。きっとこんなことは、いわずにすんだと思います。
元々あの方は縞の着物をキリッときこなすような、いかにも下町のおばちゃんでしたから、
忙しくなくなってからは、お召しになっていましたね。ちょっとホッとした次第です。
ちなみに、それぞれの女性の寄稿文のタイトルは
福島慶子女史「そうですとも」…これは、要するに「年取っても着物は着ないで、ふけるから」のことです。
文中に「和服はあまりにも年齢的約束に縛られるので…」とあります。だから赤を着るなどという芸当はできないと。
田邊浩子女史「赤いスカーフがたのしくて」…この方は40代から洋装で「洋服のよい点は
年齢なく若い人と同じように、どんな色でも使いこなして、バラエティにとんだオシャレができること」と…。
黒田初子女史「それにおしゃれができますもの」…このかたは「アクセサリーも、着物は年齢相応に、
なんとなくきまりのようなものがあって、いやでも年を感じさせられてしまいます」とあり、
ステキなアクセサリーをみつけてそれを合わせる服を考えるのが楽しいと。
三田庸子女史「初めは勇気がいるけれど」…この方終戦直後、42歳で和歌山の刑務支所長に任ぜられて、
そういう仕事は洋服だろう…と、初めてお召しになったのだそうです。いまじゃ肌のようになじんでいる…と。
この本では、すでに56歳、着物からすっかり離れたわけですね。
坂西志保女史「もう和服にはがまんできない」…この方は作家で評論家、留学もなさっていて、
それまでは着物だったのに、帰国してから20年経っても着物は着ない。
よい趣味を持っているなら膨大な金をつぎこまなければならない、
しかも世間の俗物は他人のきているものを値踏みして、うわさのタネにする。
(中略)着物の煩雑さはがまんできない。着物をたたんでいる間に雑誌一冊くらい読めると思うと…」
きびしいですねぇ。
そして最後のページには
「洋服には年相応がありません。しいてあるとすれば<年をとるほど派手に華やかに>ということかもしれません。
どうぞ、心も体も、いつまでも若くいてください。洋服をおすすめするのは、そのためです」
とあります。
「暮らしの手帖」が何を意図して、こういう企画を立てたのかわかりませんが、
今の時代、着物を作る側、売る側、そして着る側も、これを読むとドキリとすることがあると思います。
今、着物はこのときよりもまた様変わりしています。私はよく、私の年では赤い…と言うようなことを言います。
それは、単純に色が60では派手すぎる…と言うことではなく、60という年齢で着る赤ではない…ということです。
例えば洋服でも、私くらいの人が真っ赤なセーター…ではなく、真っ赤でスケスケでフリフリだったら、
ちょっとやりすぎ…でしょう。いくら洋服がラクだと言っても、70でミニスカートはムリがあります。
それと同じで、単純に赤いからハデ…と言うのではなく、私の年齢、私のイメージ、私の体型、
私の好み…それらを総合判断して、この赤さは着られない…と言うことなのです。
よそ様のことでもそうですが、着られる範囲と言うのは、和洋問わずある程度はありますから、
一般論として「○十代くらいまで」という言い方をします。あくまで一般論です。
デザインが均一なので、着物に関しては、色柄でそういう言い方になるわけです。
着物は洋服に比べれば、どうしても全体にジミにはなりますが、ジミ、イコールばばくさい…にしなくていいことが、
今の着物のオシャレだと私は思っています。
同じ着物でも、八掛ひとつ変えたり、小物を選んだりで、粋にツヤっぽく着るコーデもあれば、
時にはかわいらしくもコーデできるものだと、私はそう思うのです。
年齢不詳…を着物に持ち込むことは、今の時代は可能です。そうすることが「縛られないで楽しむ」ことだと思います。
ジミも楽しむ、派手も楽しむ、今は、着物にとってそういう時代ではないかと思うのです。
但し…別の問題は、昔より大きくなってしまいました。「お金がかかる」ということです。
これはまた長くなりますから、別の機会と致しましょう。
着物や羽織、義母の年齢を超えましたが、
地味すぎてとても着る気にはなれません。
40年前の60歳って本当におばぁちゃん
って感じで老けていましたね。
いま地味なのは着たくない、でも派手目も
浮く感じだし・・と悩みます。
私も時々「母の」とか「祖母の」と頂くんですが、
男物かと思うほど地味ですよね。
洋服の色柄見たら、着たくなくなるのもわかります。
私たちって、なんか中途半端な年齢なんですかねぇ。
ジミとハデの間を縫うようにして選ぶのたいへんですよね。
これからの暮らしの手帖関連の記事が楽しみです~♪
着物の文化は一度廃れたとはよく言われますけど、年齢のくくりがしっかりあった頃は着付け教室などは無くて、みな自然に自分で着られたんですよねぇ。
でも、最近は「年だから地味に」よりも「自分に似合うものを」という傾向になってきているように思えます。
逆に若い人が地味だったりしますし。
大相撲を見てますと、結構なお年に見える方が朱赤の帯を締めていたりしますね。
お正月の晴れ着でしょうか?相当大柄の着物という方も見受けられますし。
くくりが無くなって、自分に似合うものを自分で見つけていくことは、結構難しいようにも思えます。
「外人のおばあさんは年取るほど派手な色の服を着る。」なんてのも、子供の頃さんざん聞いて育ちました。んなわけないでしょうに。
古い小説を読むと、「40過ぎの老婆が」とか書いてありますよね。明治の終わり頃の生まれの私の祖父がいつも言ってましたが、一昔前の人間は、ろくに蛋白質も取らず、毎日朝早くから日が暮れるまで、一日中紫外線にさらされながら働くので、30過ぎたらもうおじいさん・おばあさんだったそうです。だから世の中の見方が変わったのではなく、じっさいに年寄りだったのでしょう。少なくとも今の人とは、見てくれは20~30歳くらいは違いますよね。
今は生活様式も変わって、忙しがってても趣味に割く時間も自由に作れるし費やせるし、ここらで(ファイト一発)私なんぞは着物にチャレンジしているんですが、なんていうか、趣味で着物を着るっていうのが、そもそもおかしい。
日常着にしたいんだもん私は。
雄雄しく時代に逆行する所存でありまする。
(....んな事をほざけるのも平和だからなんですね)
暮らしの手帳のご開陳、楽しみです!!!!!
母も読んでいました。ずいぶんと取ってあって私もかなり読みました。
画像を見せていただいて、あの頃がよみがえってきました~~
古い映画を見ていると着物の着方が今とはずいぶんと違うので面白いなあと思うことがあります。日常着としての着物は今とはずいぶんと違いますね。。
着物がすたれてきた理由もなるほどと納得して読ませていただきました。
私の明治生まれの祖母が残した着物も本当に地味です。
でも思えば今の私の年齢より若い頃に着ていたと思うのですが、今の感覚からすると一寸信じられない感じです。
今はむしろ洋服のほうが受難な時代だと思います。流行だ、ディスカウントだっていって次々使い捨て。安いこととデザインが一番で素材とか縫製は二の次。ワンシーズンでお払い箱になる洋服たちはかわいそうなもんです。
着物でも、洋服でももっと一着一着に愛着を持ちたいと思うんです。世にレディースショップ多すぎると思います。
暮らしの手帳、母が買っていたんでしょう、うちにもありました。内容は覚えていませんが影絵のような挿絵が記憶に残っています。なつかしいです。
今回の暮らしの手帖、懐かしいです。そこはかとなく新しいモダンな暮らしの匂いがして・・・・
わたしも十代の頃、着物ばかり着ている母が颯爽と見えないのがいやで、洋服着たら、洋服着たらと勧めた口です。 人は時代の枷からなかなか脱けられないものです。あの頃着物は、日本人が捨て去るべき旧弊さの目に見える形でした。それがどんなに間違いだったか・・・・・
今は悔恨とともに、父祖が守り育ててきたものを大事にしたいと思うようになりました。
というわけで、夜はほとんど着物を着ています。 地味系ですが。
ほんとにこの本はいろんなことで学べます。
今はまだ「へぇぇほぉぉ」と読んでいるだけで、
頭の中ゴチャゴチャ…。
でも書きたいなと思うことがたくさんありますので、お楽しみに。
戦後、洋風がドドッと入ってきた時に、着物は着物で、
新しいものを探ればよかったのですが、探る場所を間違えた感じですね。
洋装がそれだけ脅威だったのでしょうね。
今の方が、くくりのないことを楽しめるとは思うのですが、
元のくくりを知らないから、へんなトコで自由になっちゃって…。
それでよけいに難しくなってる気がします。
日本は、明治維新といい戦争といい、何かあると、土管とかわり、しかもだんだんスピードアップされて、
いろんなものをボロボロ落としながら着てしまった感じです。
着物は着物で、きちんとした残り方を模索する時間がなかったのでしょうね。
昔の人は、働いて一日終る暮らしでしたからねぇ。
キレイになるべく、鶯の糞を塗っていられたのは、一部のひとだったのでしょうね、
母が「ウテナ・クリーム」と「資生堂アストリンゼント」だったことを
ふっと思い出しました。