奄美大島は、まだ雨が続いています。
昨日のニュースで、大島紬の工房も被害を受けたことを報じていました。
そのときの映像が「龍郷」の工房…工房の損害だけで1000万だそうです。
本当にショックでした。家にある龍郷柄を出してみました。
「龍郷柄」という名前は知らなくても、柄をみれば「あ、これね」とお分かりになるかと思います。
大島紬の中でも、本場奄美大島の「龍郷町」で生まれた柄です。「たつごう」と読みます。
これは江戸後期、薩摩藩より「奄美大島らしい柄を」、という命により、
ソテツに登る蛇(ハブ)のうろこの美しさを柄にしたもの…といわれています。
この柄が織られていた村の名前が、そのまま柄の名前になったわけですね。
大島紬の伝統的な柄のひとつです。
アップ画像です。
ほかに伝統柄として有名なのは「秋名バラ柄」、バラといっても花のバラではなく、
奄美地方の方言で「ザル」のこと。
日常生活で使うザルの目のきれいさをもように模したものといわれています。
これはホンモノではありませんが柄は「秋名バラ」、母が40代で着ていたものです。
みたことありますでしょ、この柄。
封建的な社会であったころ、大島紬は普通の紬のように作られ島民の普段着物として着られていたのですが、
薩摩藩の支配下で、身分役職のあるのもの以外は、絹を着てはいけない、とされました。
自分たちが着るのではなく、その「許可」されている人たちが着るために織り、
そしてやっと明治になって「商い」としてできるようになり、人気がでてきたところで今度は恐慌や戦争…。
まぁ日本の養蚕や織り、染めなど和装に関する世界は、いつも厳しい状況のなかで、
それに携わる人たちの手によって、必死に守られてきたんですね。
元々は、どこの紬も同じですが、繭として納められないくず繭や山繭などから真綿を作り、
その真綿から手で糸を紡ぎ、それを家族のための日常着として織ったものです。
だからどこの紬も、最初はたいてい無地か織りやすい縞柄から始まっています。
それが町の人の目に留まり、だんだん「売れる商品」として作られ始めたわけです。
そうなるともっといい色、もっといい柄…と、技術が進むわけですね。
「絣」という技法が伝えられ、それを繊細にするにはどうしたらいいか、
独自の染を開発しよう、こんな柄はどうだろう…大島に限らず、
そういうことで、技術や道具、染料などもいろいろ考え出されたわけです。
大島紬も、戦後は壊滅的になりましたが、それを伝えようとする人たちの努力によって、
今の体制を作り上げてきたわけです。
ですから、今の大島の定義の中に入る「染の特色」や「織りの特色」そのものは、
そんなに古くからあったものではありません。
大島紬の織り方の特徴は「締め機」といわれる織り方です。
これは説明すると長くなりますので省略しますが、たいへんな手間がかかります。
この方法が確立されたのも明治にはいってから。そうなると「機(はた)」も変わります。
最終的に今の定義ができ、それ以外の作り方は「本場大島紬」の証書がつかない…
ということになったわけです。
でも、厳密に言えば大島は紬ではありません。島内で、大島紬を量産するだけの紬糸は
つくりだせなかったので、本州から生糸を入れたわけです。
だから大島紬は、正確に言えば「絣の平織り」です。
それでも、あの細い凹凸のない滑らかな生糸で織るから、ものすごい点描のような細かい柄が、
可能になったわけですね。
いずれにしても、大島紬が一反織りあがるまでには、気の遠くなるような
技術と努力の積み重ねがあるわけです。
大雨で、大切な工房が壊滅状態になって…この工房は復興できるのだろうかと、心配になりました。
新潟地震の時には、小千谷縮、越後上布、十日町紬などが多大な被害をこうむりました。
天災、といってしまえばそれまでですが、そんなとき誰が何をできるか…。
やはり「伝統産業」ということであれば、公的な支援は、あって当然だと思うんですけれどねぇ。
トップの紬は、かなり着込まれています。
背中部分ですが、左側、右より色が薄くなっていて、ついでに紅絹の色が落ちたのか、赤くなってます。
紬ですが、八掛にはちりめんがついています。鮮やかな紫。
裏は紅絹。それも足りなかったのでしょう、袂の振りで見えるところは鮮やかないい紅絹をつけ、
中側のみえないところは、ちょっと色の鈍い薄いものをつなげてあります。
袖口は八掛と同じ紫で、袖口と裾には、同色のガロンテープ。
大切にして、まだまだ着るつもりだったんですね。
たぶん昭和初期のものではないかと思っているのですが、
昭和だとしてもすでに80年、織り目から見て本物と思います。持つんですね。
こういう柄や技術がどうかなくなりませんように。
奄美の方々に、声だけですが応援のキモチを…。
最新の画像[もっと見る]
- ほぼ忘れられてる「着物ブログ」であること…。 6ヶ月前
- やーーっと、着物の写真を… 12ヶ月前
- やーーっと、着物の写真を… 12ヶ月前
- やーーっと、着物の写真を… 12ヶ月前
- やーーっと、着物の写真を… 12ヶ月前
- カミナリさま 連日のお越しで。 1年前
- カミナリさま 連日のお越しで。 1年前
- カミナリさま 連日のお越しで。 1年前
- カミナリさま 連日のお越しで。 1年前
- 雨の降り具合が… 1年前
という地名を聞いた時にはっとしました。
なんとなく地名からきているとは知っていましたがここにあったんだあと認識。
この素晴らしい技術が絶えることなく残っていってほしいと心から思います。
古い龍郷柄が気に入って何枚か古い反物を仕立てたり 洗い張りしてもらって仕立て直したりしたりして着たりしています
古いといっても昭和初期ではなくて中期くらいなのではと思いますが・・
素晴らしいですね☆
今では龍郷柄を織れる方も激減されてるとか。
応援の意味も込めて大島紬を意識的にこのところ着ています
こんな風に工夫して着るということ自体
不思議でしょうね。
新しいジーンズを使い込んだようにする
のとは訳が違いますものね。
量産出来るものでは無いのですから、
公的支援が必要ですよね。
黒砂糖と共に薩摩藩に上納していたのが
大島紬でもありました。
その時に どの村から何反収められたか、を
数えるのに 村毎の柄があると
数えやすかったとか・・・
大島は締機、という独特の絣用の機で
絣を作りますが
その締機を開発したのは
薩摩絣で有名な東郷織物の
永江さんの祖父の方だそうです。
良い色柄ですねぇ・・・垂涎ですわぁ。
これって、織りは龍郷で糸の染めは茶泥というんでしょうか?
すごいですねぇ、お好きな方は画像で見ただけでも昭和の初期か中期か判るなんて!
小千谷にしても龍郷にしても、伝統的な技術を守っている地域の災害などについては、国がもっと補助することはできないんでしょうか?と、いつも思います。
相変わらずがんばっていらっしゃいますね。
今日とんぼさんに喜んでいただけそうな銘仙柄の記事をアップしましたので是非ご覧下さい。
私感動した一品です。
今日もたまたまやっていたのですが、
ほんとにめちゃめちゃでしたね。
更にまた台風がきているとのことで、
これ以上何も起きないでと願っています。
現地の方が「復興せにゃ」と、
いってくださっていたのが、ありがたかったです。
はじめまして、コメントありがとうございます。
なんともいえず、魅力ある柄ですね。
私はちゃんと着られそうなのは2枚くらいで
あとはハギレなんですが、
大切にしたいと思っています。
奄美の「泥田」が、文字通りの
ただの泥田になって赤くなっているのを見て
愕然としました。
復興には時間がかかるそうです。
がんばってほしいですね。
靴下もつくろって履いていた私には、
着なくなったら用がない…というのは、
どうにもねぇ…と思います。
新潟の時も、呉服屋さんが「これでますます
作れる数が減った」といってました。
奄美、がんばってほしいです。
天下りなんかに払うお金があったら、
支援してほしいですよね。
なるほど、そういうメリットもあったんですね。
締め機の方法というのは、それを思いつくだけでも
すごいものだと思っています。
明治の男の気骨…でしょうか。
また台風が来ていますし、もうこれ以上
被害がないようにと祈っています。