銭屋の本宅(一部)を移築して、再現した住居「銭五の館」の正面
同上、住居内の一部
金沢への仕事で、銭屋五兵衛記念館に立ち寄った。
その人物について、知識がないままに記念館に入った。
館内の説明書きによる年譜、業績を読みショックを受けた。
要約すると、
銭屋五兵衛は安永2年(1773)11月25日加賀国宮腰(現在金沢市金石町)に生まれた。
六代前から両替商を営み、屋号を銭屋としていた。祖父の代から、「五兵衛」を名乗り、父弥吉郎(六代五兵衛)の時には金融業、醤油醸造業に加え海運業も営んでいた。
17歳で家督を継いだ五兵衛は、呉服、古着、木材、海産物、米穀などの商売を始めるが、北前船による本格的な海運業を始めたのは、50歳代後半からで、江戸時代を代表する大海運業事業者になった。さらに、全国に拠点を拡げ、ご法度であった海外との交易により、巨万の富を築き「海の百万石」と称された。
加賀藩からは、金融、経済に関わる要職を務め、藩の財政を支えなど重要な役割を果たしてきた。
江戸時代の鎖国のなかで本来の日本の進むべき姿をみこし、果敢に新事業への挑戦する姿勢や高所からの視点には学ぶべき点が多い。
しかし、五兵衛の支援者であった加賀家老、奥村栄実が死んだ後、藩では黒羽織党がその任を継んだが、悉く五兵衛の事業に横槍を入れられ、ときに取り組んだ河北潟の干拓事業において、住民の反対に乗じた毒物事件の犯人として銭屋五兵衛一族の投獄、処刑により家名を断絶、財産300万両、家財はすべて没収させられた。
銭屋五兵衛は商いにおける信条「銭五商訓三カ条」として残している。
記念館のパンフレットによると、それは、
一、世人の信を受くべし
一、機を見るに敏なるべし
一、果敢勇断なるべし
ということで、現在においても、ビジネスにおいて参考になりますね。