闇の中に、寂しさを紛らわすようにテレビから発する音を求めると、独りごとをただ、ただ、発している。わたしの心臓の鼓動が聞こえることもなければ、もちろん血の流れを察することもない。かつてある山の懐に抱かれたムラで聞いたのは、「昔は心臓の鼓動や、血の流れる音が聞こえた」というものだった。そんなはずはない、と思うが、無音の静寂の世界には、本当にそんなことがあったのかもしれない。少し寒さを感じるようになったこの季節、すっぽりと布団を被り、頭に上着を囲って眠りにつくと、意外にも無音の世界に陥る。ふつうならあっという間に眠りの世界に誘われるのだろうが、「あれも、これも」と考えていると、なかなかそこにはたどり着けない自分が焦りを抱きながら「今、何時だろう」などと浮かび、自ら自らの別世界を作り上げてしまう。音にも、振動にも、そして空間の勢いにも潰されそうな闇が訪れ、気持ちは高ぶるばかり。かろうじて、どこかで「さよなら」とはがり意識のない世界へ送られ、わたしは朝へ突き進む。
このごろは「星空」が話題になる時代だ。気がつけば夜空から星が消えた証。でもこのあたりでは夜空を見上げないだけのことで、見上げればちゃんと「星」は明かりを放っている。でもかつて確実に見えていた天の川は、確かな川をわたしたちに意識させなくなったかもしれない。「日本一の星空ナイトツアー」と銘打って人気を呼んだ地でも、天候が良いと遠来の電光によって空が明るくなってしまうとも聞く。「なんだ、よく見上げてみれば、そんなに違わないじゃないか」とは、そんなところから始まる。人々に意識させる発想だけで、人呼びができるのも、よそのことを意識しなくなった、観察しなくなった、平成30年のわたしたちがいる、ということだ。「もう少し考えたら…」「もう少し観察しろよ…」、そして「もう少し、人の顔色を見て、もう少し自分の言葉に責任感をもとよう」、などと思わせることも多い。「なぜこんなことを言ったのだろう」、「なぜ、わたしはここに居るのよ」、闇の中からそんな言葉が還ってくる。これはわたしの「こころの音」、それともわたしの「あの世の音」。すべて意味ある自分への自分のアプローチ。闇の中から、わたしは蘇るでもなく、闇に葬られるでもない。眠りいつかない自分の「音」。