Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

闇の裁き

2016-11-07 23:59:59 | 

 

闇の中に、寂しさを紛らわすようにテレビから発する音を求めると、独りごとをただ、ただ、発している。わたしの心臓の鼓動が聞こえることもなければ、もちろん血の流れを察することもない。かつてある山の懐に抱かれたムラで聞いたのは、「昔は心臓の鼓動や、血の流れる音が聞こえた」というものだった。そんなはずはない、と思うが、無音の静寂の世界には、本当にそんなことがあったのかもしれない。少し寒さを感じるようになったこの季節、すっぽりと布団を被り、頭に上着を囲って眠りにつくと、意外にも無音の世界に陥る。ふつうならあっという間に眠りの世界に誘われるのだろうが、「あれも、これも」と考えていると、なかなかそこにはたどり着けない自分が焦りを抱きながら「今、何時だろう」などと浮かび、自ら自らの別世界を作り上げてしまう。音にも、振動にも、そして空間の勢いにも潰されそうな闇が訪れ、気持ちは高ぶるばかり。かろうじて、どこかで「さよなら」とはがり意識のない世界へ送られ、わたしは朝へ突き進む。

このごろは「星空」が話題になる時代だ。気がつけば夜空から星が消えた証。でもこのあたりでは夜空を見上げないだけのことで、見上げればちゃんと「星」は明かりを放っている。でもかつて確実に見えていた天の川は、確かな川をわたしたちに意識させなくなったかもしれない。「日本一の星空ナイトツアー」と銘打って人気を呼んだ地でも、天候が良いと遠来の電光によって空が明るくなってしまうとも聞く。「なんだ、よく見上げてみれば、そんなに違わないじゃないか」とは、そんなところから始まる。人々に意識させる発想だけで、人呼びができるのも、よそのことを意識しなくなった、観察しなくなった、平成30年のわたしたちがいる、ということだ。「もう少し考えたら…」「もう少し観察しろよ…」、そして「もう少し、人の顔色を見て、もう少し自分の言葉に責任感をもとよう」、などと思わせることも多い。「なぜこんなことを言ったのだろう」、「なぜ、わたしはここに居るのよ」、闇の中からそんな言葉が還ってくる。これはわたしの「こころの音」、それともわたしの「あの世の音」。すべて意味ある自分への自分のアプローチ。闇の中から、わたしは蘇るでもなく、闇に葬られるでもない。眠りいつかない自分の「音」。

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予感

2016-10-19 23:27:32 | 

すでに暗くなった屋外に出ると、
「おや、雨…」か、
天気予報でもみなかった雨の装いに
「なぜ雨なんだ」
思わず独り言を口に。
部屋まで傘を取りに戻ろうか、
それともこのまま車まで向かうか、
そんな選択がよぎったが、
「霧雨、いや小雨か…」と
当然のようにそのまま駐車場まで向かうことに。

いつもどおり城跡の坂を一気に下り、
もうそこに車が見えているところまで進むと、
背後にざわつきが。
「これは、」
明るければ振り返ることで視認できたのだろうが、
もう周囲は真っ暗。
振り返ったところで判断も、
この目でそれを推し量ることもできない。
そう思うと
わたしは一気に走り出す。
すぐにでもやってきそうなざわつきが、
背後を足早にやってくる予感は、
なかなかわたしを包み込まないので
「予感だけだったのか」
そう思って走るのをためらい始めた直後だ。
わたしは猛然と天からの雨粒で叩かれる。
もう一度
思い新たに屋根の下へと走り抜ける。
一瞬の予感と、ためらいと、ありふれた結果だけが
そこに記憶された。
まるで、
今のわたしのすべてを表しているような
「予感」

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“時”を描く

2016-08-21 23:15:25 | 

人影はけして多くない坂道へ
いつも通り一歩踏み出すと
その日の先々を重たく感じたり、
あるいは軽く感じたり、
この一歩はその日を推し量る一歩になる。

時おり出会う男性は、
坂の先を歩いていても
その足取りは
大地を踏みしめるかのように
ゆったりとし、
そう時を待たずに
わたしは彼を捉える。
それはどれほど身体が重く、
また軽くとも
容易にその差を縮めるほどの
彼の歩みとわたしの歩みの
大きな違い。
しかしながら、
彼を捉え、
抜き去ろうとするも、
そこには、
自らの呼吸の乱れを読みとられまいと
息遣いを押し殺すわたしがいる。

日々くりかえされる
いつも通りのわたしに、
唯一訪れる場面。
彼がいなければ、
そして
彼の前に出ようとさえしなければ、
訪れない“時”

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“成”し遂げられたもの

2016-06-08 23:27:22 | 

旧南信濃村名古山で

 

日々重ね
“成”し遂げられたものとは
思いさまざまに
異なりしもの。

持ち得た“時”の
限りあることに、
気がつきはするが、
果たさねばならぬことの
如何な大きさに
潰されることなく
歩を進めることの
なんと重きこと。

肥大化した身体の
そしてこころの、
蟠りを拭えずに
ひとの顔をうかがう。

もはや個人差などと言い、
自らを諌めることでもなく、
ただ、
立ち位置を
勘定する弱さを嘆くばかり。

 

 

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日々に生まれしもの

2016-05-31 23:41:31 | 

 

 

なんでもない景色だった、
かもしれない。
「どこにでもある景色だと思っていたし、
子どもの頃から見慣れた景色」
そう言うも、
このごろは観光バスを仕立ててやってくる人たちも…。
混在することなく、
「かつての」と言えそうな
ごくふつうの景色が、
今はそうではなく、
どこにでもない景色となる。

ここが整備されなかったのは
「川向こう」のため
現代の道具を持ち込むことができなかったためかもしれない。
祖先が水田にしようと、
耕す先々で石が掘り起こされ
それらは畦に畦にと運び出され、
結果的に整った石積を見せることになった。
けして大型の機械が入ることはできないが、
最低限の動力が使える強み、
今もってほとんどの水田に水が湛えられ、
急峻な山々の影が水面に映し出される。

山々もまた、
分け与えられてきたそれぞれの山。
そして間伐された木々は
そのまま山に横たわり
なすすべもなく
風の餌食となる。
用を成すこと
用を成さないこと
いずれも
日々に産まれしもの。

 

 

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「さんざ働いたで…」

2015-12-27 23:51:45 | 

 

 「さんざ働いたで…」、そう言う母の言葉にはどんな気持ちがあるのか、はっきりとは解らない。「お金がかかるに」と何度も口にした。「そんなの気にすることはない」と言っても、お金が掛かっていることに気を病む。でもその方が楽だから、と周囲は母を施設に送った。でも母のこころは違う。お金が掛かっていることそのものに気を病む。家族の思いとはかけ離れているのだ。そして自分を諭すようにこの言葉を吐く。

 記憶の中には、遠い面影が消え、そして見え、あらためて過去は去る。揺り動かされたこころの残照か。今の姿を見、これからの日々を思い、時は横たわる。多々ある人生のひとつに、母は頷く。

 

 

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喝采

2015-11-25 23:14:49 | 

段丘崖の道を上りつめると、
しだいに増した川の音が斜面に反射し、
わたしを喝采の渦に取りこむ。
それは大河で
なお急流であるほどに高まり、
わたしのこころを揺り動かす。

今は車の音、
畑を耕す動力機の音、
そして、
ちまたを濁らす不明瞭な音ともに、
わたしのこころの歪の音と相まって
川の音もかき消されることも。

動力もなく、
血の流れる音すら聞こえたと言われる
かつてのこの野に立った人々にとって、
段丘崖に響く喝采はどんなものだっただろう。
もちろん景色は異なるも
大河の流れも、
層をなす幾重もの段丘も、
かつてと変わりなく眼前に広がるのに、
きっと
そこに立つわたしを包み込む喝采の音は
今のわたしたちには聞こえなかったのかもしれない。

 

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朝の予感

2015-08-24 23:17:23 | 

すでに収穫も近い
そう思わせるほど垂れた稲穂をわきに見ながら
いつもどおり坂へ
“重い”
そう思うと
いっそう身動きは鈍く、
そして頭の中では
これから始まろうとしている1日が
途方もなく長くなるのだう、
そう思わせる。
それが月曜日ならなおさらのこと。

日々、
この坂へのアプローチに差はない。
垂れかけた稲穂を
鳥から護ろうと掛けられた網は、
見渡される水田のほとんどに見える。
田植え後にホウネンエビの泳ぐ田もあれば、
草ひとつなく、
まるで死の世界のような静けさの水面の田、
そして密生した草に水面が覆い尽くされる田、
それぞれの思いを蓄えた稲穂の波に、
それぞれの思いを隠すように
均一化した薄赤いベールが掛けられる。
それは季節の変化に過ぎず、
日々の歩を急かせるようなきっかけにはならない。

ところが坂を上り始めて間もなく、
わたしはその違いに気づく。
今日という日の予兆か
それとも身体の変調か。

上り着いた丘の上で
達成感など生まれるはずもなく、
坂を振り返ることもない。
すでに明日の朝を思う。
意図もない朝の予感

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間を埋める

2015-06-30 23:03:53 | 

 このところあまり利用しなかった飯田線に、ようやく乗る余裕が出てきたところ。久しぶりの車内の雰囲気は、久しぶりだけに新鮮に映る。とはいうものの、座る場所を容易に求められないほど、その空間は以前に比べると立ち入り難い空間。したがってこうした空間を利用しようとする思いも、なにがしら得るものがないと楽しくないものだ。求めて座らなくても良い、そう思って乗り込むと、また違ったものも見えてくる。座るにはためらうものの、立っていれば隣の車両まで見渡せるような空間が、時を重ねるごとに埋め合わせられていく。もちろん息の届くようなところにも乗客が乗り込んできて、半時にも満たない1日の間を埋めていく。

 学力で位置づければ、地域の1位校の学生が1人、2位校の学生が2人、そんな3人組がいつもわたしの息の届くような空間にやってくる。そして2位校の学生はいつもの通り問題集を手にし、集中するでもなく問題集を持った者同士雑談と問題集と、交互に目的の駅までの時間を埋めていく。いっぽう1位校の学生は、そんなふたりの会話を聞きながら、片手に持つスマホと彼らの会話を捉えながら時折注釈を入れる。2位校ふたりが問題集を持たないひとりに「なんで勉強しないんだ」みたいに揶揄する光景も。彼らの会話を聞いているかいないかは定かではないが、周囲の間を埋めた同じ世代が無言で時を埋め合わせる。もちろん参考書を開く女の子もいれば、スマホの画面をひたすらなぞる男の子も、とさまざまだ。いつも思うのだが、かれらの手にあるスマホと、そこから繋がったほぼ画一的な黒い線が、身体のどこかに繋がる。まるでスマホと身体を結ぶ電源のように。例えばイヤホンもそうだが、これほど厄介な邪魔者はないが、その画一化された黒い線は、この機械が登場する以前から当たり前のように若者の身体と耳とを繋げた。こんなに厄介なのに、その進歩はないかのように。いっそ身体の中に無線ランでも格納し、この厄介な黒い線を取り除けば世の中もスッキリするだろうに、と思うのだが。

 埋め合わせられた車内の空間に、このように黒い線が災いとなってトラブルが起きることもなく、目的地に向かうほどに間は取り除かれていく。

 地域では唯一の私立高校(女子高)の女の子は、規律が厳しいのか、教えに対する履行能力が高いのか、スマホを人前でかざす姿を見せない。これは他校との大きな違いだ。したがって彼女は一緒に立つ同じ高校の女の子と盛んに会話を続ける。そして周囲の様子をよくうかがっているせいか、まだ空間に余裕のある間は、同じように様子をうかがっていた私と何度か視線が合った。様子をうかがいながら、友だちと話をする彼女は観察力を養っているのか、単純に周囲に気を使うタイプなのか、まだわたしには解らない。

 かつて身体と手元を結ぶ黒い線を演出するような機械が出まわらなかった時代には、間を埋めるために話が始まったが、今は間を埋める道具がある。これは彼らだけの道具ではなく、オトナもなんら変わらない。音一つ聞こえず、他人が空間に接近しても、間を埋め合わせるのは機械となったのだ。

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春へ

2015-03-12 23:51:54 | 

厳冬のころから
冬枯れの野に
埋もれるように花を咲かせていたロウバイが、
ようやく最期を迎えようとしている。
その最期を待たず
もう周囲では梅はもちろん
サンシュユの黄色い蕾がふくらみ
桜のころも間近に。

厳冬に淡く
そして芳しく周囲を和ませたに違いないその姿が
けしてひと目には華やぐこともなく、
日々を繰り返す様は、
朝陽を浴び
“今朝も訪れた”
と気づく妻の目覚めのよう。

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雪“霰”

2015-03-10 23:37:28 | 

花吹雪が舞っているわけではない。
はっきりと、目に映る白い塊は
激しく降り注いでも
身体をそれほど濡らすわけでもない。
賑やかに大地を叩き、
わたしの耳元で囁く塊も、
そのまま足もとに乾いた音を立てて落ちていく。

春を迎えようとサンシュユの蕾も膨らんだころ、
ひっくり返すような冷え込んだ空気が、
雪“霰”となって空を、
そしてあたりを包んでいった。
冬じまいと思い込んでいた人々も
山々も、野も、
乾いた音に起こされるように、
一面を埋めた粒に目覚める。

長年の経験と、
蓄積された記憶。
それぞれが人々の動きを予測する。
しかし、それだけでは解決できない出来事が
今は日増しに新たな記憶としてわたしを揺り動かす。
人々は穢れなき定説を描き、
安心と安全をこの世の常道と言うが、
わたしにとって、
それは“迷い”への導き。
わたしはこの世の常道から逸れた道を歩むしかないのか。

わたしの心の冷たさを癒すように
乾いた雪“霰”が身体をさする。
一面を埋めた心の汗は
わたしを白く打ち消していく。
消え果てる明日を前に…。

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悔い

2015-02-13 23:08:22 | 

 人のやることに完璧などということはない。ましてや人それぞれの考え方があるから、相手しだいによっては思うようにいかないことなど数え切れない。ストレスが蓄積するのも無理はないということ。

 書斎の机の上には書類が山となっている。ときおりそんな中から目的のものを探そうと机の前に立つが、何度となく積み上げた山を考えもせずに積み替えた中から、それを探すことは容易ではない。会社の机の上の方がまだましだ。自宅でいかに何もしていないか、と教えられる。いつものことながら、この山をなくさなくては、と思いこの正月にも実行したいと思っていたのに、結局遅れ遅れの仕事に頭の中が埋め尽くされてその余裕は見つからなかった。見れば1年以上も前に送付されてきたものがそのままになっている。ようは書斎に持ち込んで「いつか」と思ったまま1年以上過ぎてしまったということ。その情けなさには声も出ない。これは書斎に限られたことではない。家中、いや家の外も含めてすべて1年以上止まったままという感じなのだ。「どれから手をつけてよいものか」と思うともう手がどこにも出なくなる。そんな混乱が、結局仕事から帰っても気疲れのようになって自分を襲い、何もできずに一夜が過ぎていくのである。わたしだけではない。同じことを妻も繰り返してきた。その最たる現象が「今日もまたか」と思うほど朝方の新聞屋さんのバイクの音に時を知らされることだ。誰も訪れることのない夜は、どこまでも穏やかなながれであるものの、新聞屋さんの訪れが、悔いばかり募らせる1日の終わりと、始まりを告げるのである。いつになったら止まったままの時計の針は動かせるのか、果てしない机の上の光景は、少しでも手を差し出せば崩れ始めそうなわたしの腐った「時」の証し。

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ロウバイ

2015-01-25 23:17:41 | 

ふと、気がつき枕元の時計に
ちょうど午前6時を示し
「予定通りだ」と安堵。
ところがベルの鳴らなかったことが不安に。
1時間のズレに気がつく。
日々、後悔ばかりの“眠り”と“目覚め”
ささやかで、そして重たい後悔。
これはわたしの人生に降り注ぐ警鐘。

冬が訪れ、
くらがりばかり歩いていた道に
“ロウバイ”が咲いていたことに、
今朝、
気がついた。

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“めでたい”

2015-01-05 23:02:32 | 

明けましておめでとう

新しい年を迎えると“めでたい
そう誰もが共通して思う
そんな挨拶のことば。

果たして“めでたい”のか、
などと冷やかしのことばを並べないまでも、
こころの“どこか”で
自らに投げる問を、
躱さないわけにはいかない。

新しい”が“めでたい”のなら、
古は何か、
めでたい”の対義語が浮かばないのも
よほどわたしたちには“でたい”姿、光景
そんなものが理想なのだろう。

”をとるこが“めでたい”と言われたころ、
世の中はずっとうまく回っていたのだろう。
今や、
後悔ばかりを積み重ねる新しい“”の到来。

老いた父や母の姿に、
長寿”なる単語を冠すのは、
ひとにぎりの幸福な世界。

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灯り

2014-11-13 23:39:51 | 

 

山に雪が訪れた、その日
陽の落ちたマチに
灯りが点々と残るも、
冷え込みのせいか戸は閉ざされる。
名ばかりのマチは、
陽が落ちるとともに、
居酒屋の灯りにとって変わられ、
クリーニング店にそのネオンは放たれる。

いつものように
灯され続けてきたクリーニング店は
闇の中に浮かぶ。
このマチに数少ない
つるべ落としの灯り。
そして遅くまでその灯りはともり続ける。
閉ざされた窓は曇り、
老夫婦の姿もうつろになる。

いつまでも消えて欲しくない
ただひとつの灯り。

 

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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****