最近友人が「〝あしなか〟を辞めようかどうか悩んでいる」と言う。〝あしなか〟とは、山村民俗の会が発行しているもので、歴史のある研究会の機関誌である。かつては年に何号も発行していたものの、最近は発行数が減っているうえに、内容も薄くなっている。さらに最近は毎号送付される度に会費納入用の振替用紙が同封されていて、先々の会費まで催促されているようで、そもそもちゃんと会費の納入について整理されているのかどうか心配になってくる。会員数が減って、それほど煩雑ではないと思うのだが、しばらく前には残金がなくて会報の発行が厳しい、みたいな報文が同封されていた。最新号である331号が送られてきて、そこにも振替用紙が同封されていて、振替用紙には手書きで「8年」と朱書きされていた。ようは令和8年分の会費を納入する際に利用してほしい、といった意味のよう。まだ7年が始まったばかりだと言うのに…。
実は今号には2枚の手紙のコピーが同封されていた。1枚は編集者である岡倉捷郎さんの「いま灯りを点し続ける意味」というもの、もう1枚は事務局の塩野谷昭夫さんの「参々壱巻の重み」というものである。いずれも会の状況はひっ迫していること、会員の高齢化や減少といった状況において、〝あしなか〟を継続するべきなのか廃刊にするべきなのかという問いである。一時は300名いた会員が、今は85名だという。同じような状況はどこの会にもあることで、この後こうした発行物は皆がみな消滅してしまうのかもしれない。友人とこのことを話しながら、過去の話を思いだして昔の会報を書棚から取り出してみたりした。すると手元にある最も古い会報は152号だった。そこには新入会員の名前が一覧化されていて、わたしの名前も印刷されている。昭和52年の3月に発行されたもの。わたしがまだ高校1年だった時のものである。当時は年5回発行されていて、会費は2000円だった。現在は会費7000円で年3回発行が目標なのだろうが、会務報告をよく見ると今号を発行すると次の号は金銭不足で会費が入らないと発行できないよう。そもそも今号は昨年度の発行予定のものだったという。これはかなりヤバい状況であることに間違いはない。そんな話を友人としながら、「いつから入っているの」という話になって前述のように最も古い会報を紐解いた次第。会では令和3年に最も新しい会員名簿を発行している。名簿にはそれぞれの入会年が記されていてわたしのところには「昭54」とある。あらためて古い会報を取り出してみて、これが間違っていて昭和52年だとわかった。友人は平成15年に入会している。
古い会報を紐解いてきて、友人に見せたらコピーをされていた。もう少し会員を継続するよう考えるかどうか…。実は入会後間もない157号へわたしは稚拙なものを投稿している。事例を並べただけのごく短いものである。昭和53年の6月に発行されているから、高校2年の時に書いたものだろう。山村民俗の会は、当時復刻本を刊行していて、第2期として101号から160号までの復刻本を昭和56年11月末から配本していた。その第2期全4冊は、34,800円もしたが、注文したので手元にある。その配本された本を開いて見たら、当時のパンフレットが挟んであった。それが下記に載せたもの。スクロールしてもらえば見開きの右側も閲覧できる。160号まで復刻されたから、唯一わたしが投稿した短文も、ここに収録されているが、見るに堪えないような内容である。過去の会報の内容を紐解くと、あらためて「こんな記事もあったんだ」と気づく。155号には横山篤美さんが「野荒し柱の立つ村」をまるごと1冊に書かれている。現松本市の稲核について書かれたもの。しばらく前に稲核には何度も足を運んでいたが、こんな記事があったことすら知らなかった。もう一度読み返してみたい。