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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

須沢の記憶

2025-01-31 23:04:05 | つぶやき

 古くは2005年の「夜中の赤石林道越えをしたころ」に、霜月祭を度々訪れていたことについて次のように記した。

かつてはこのように八日市場に始まり、10日が南信濃村木沢、11日が上村上町、12日が上村中郷、13日が南信濃村和田、14日が上村程野と南信濃村小道木、15日が南信濃村八重河内(尾島)、16日が南信濃村須沢、17日ころ(ちょっと忘れてしまったが、20より前だった)南信濃村大町と続き、正月に南信濃村上島と上村下栗で行なわれた。連日のように行なわれるため、平日に連続して行くことは仕事にも影響があるため、なかなかできなかった。それでも、たとえば8,10,11,12,14,16というように年に5回か6回は足を運んだ。

昭和61年を中心に前後の時代である。そこに「須沢」の地名があり、この日記での初出である。「夢の弾丸道路」は、その翌年に記した。先ごろも「中央道「幻の南回りルート」とは? 決定後に経路を変更した理由。【いま気になる道路計画】」(1月28日 メルマガ「KURU KURAニュース」)という記事がヤフーニュースに掲載された。わたしの日記にも「左側が東京方面、右側が名古屋方面てある。左端に大井川畑薙ダムが描かれ、真ん中左よりに県境ラインが引かれている。その上に長大トンネルの易老嶽トンネルが表示されている。右側へどんどん下っていき、北又渡、須沢と遠山川沿いに下り、遠山谷最下点の上島へ至る」と記している。ここにも「須沢」が現れる。この中央道「幻の南回りルートが完成していたなら、遠山川上流域は全くことなった景色となっていただろう。もちろん狭い谷の中だから、もしかしたらこんな道路が完成していたら、とっくに須沢の集落は消滅していたかもしれない。

1月28日 メルマガ「KURU KURAニュース」より

 

 さてその須沢については、「須沢の霜月祭り(昭和61年の記憶⑨)」で祭りについて触れた。当時まだ行われていた須沢の霜月祭の記憶を呼び戻したものだが、最近感慨深い話を聞いた。『伊那民俗』139号(2024/12/19発行 柳田記念伊那民俗学研究所)に近藤大知氏が昭和50年に野牧治氏が撮影した霜月祭の写真とともに、祭りのことについて触れている。その中で「須沢には昨年まで住人がいたが、高齢を理由に転居したため、無住の集落となった」と記されている。ようは廃村となったといって良いのだろう。もちろんこうした山中の集落は、無住になったとしても里から通いで耕作、あるいは管理に往来する人がいるから、まったく人影がなくなったというわけではないだろうが。

 以前にも記したが、平成10年に地滑りが発生して霜月祭は途絶えた。その際にも様子をうかがいに向かったが、須沢の集落はわたしにとっては記憶の深い地である。等高線沿いに下栗に向かう道の途中から、祭りが行われた宇佐八幡社までの道を開ける仕事に携わった。それこそ祭りに訪れる直前の年に初めて道から分岐する箇所の測量に入って、どう下って行けばよいか、まったくの新道だったこともあり、悩んだものだ。その道の先に1軒家があり、さらに八幡社の近くにも1軒家があって何度となく立ち寄った。

 考えてみればそれから40年である。当時50歳の人だったら90歳。そんなに若い人と話したことはなかったから、もはや鬼籍に入られている方がほとんどだろう。したがって人がいなくなっても当然なのかもしれないが、そもそもわたしの仕事は、そうした道のまだない家々へつなぐ道を造る仕事だった(本日記では時おり書いていることだが、こうした道は、もともと「農道」で開設されたものが多かった)。須沢だけではない。南信濃をはじめ、下伊那郡内のあちこちで新道を開設した(例えば南信濃なら十原、此田など。上村なら大野、風折。天竜村なら倉平、梨畑など)。しかし、山の中の点々とした家々へ造った道は、もはやその先に住人の居ない状況になっている道は多い。何のための道だったのか、と。

 ここでは「須沢の霜月祭り(昭和61年の記憶⑨)」に掲載しなかった写真を引用して、あの時代の霜月祭を偲ぼうと思う。

 

 

昭和61年12月16日(1986)撮影

 

「遠山谷の今」へ続く

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〝山の神〟再考 ⑩

2025-01-30 23:19:38 | 民俗学

〝山の神〟再考 ⑨より

 引き続き『長野県史民俗編』の調査資料の「祭り方」欄に書かれた項目から気になるものを拾ってみよう。

 「小坂」(岡谷市湊)では「早朝ムラ人が柳の木で作った弓張りに矢2本あてそえて、山の神さまに供えてお詣りする。一張りを前に供え、人と交換して来て門口に飾っておく」という。人のものと「交換する」という例である。

 「東高遠」(高遠町)では「この日は働かず休む。働くと身に災害をうける。ご馳走を腹いっぱい食べて休む」という。「〝山の神〟再考 ⑦」で5合米を集める話をした。長谷村非持の事例に「以前は米を持ちよって御飯をたき、御飯を大盛りにして食べ、食べきれないで泣きだした人もいたという」ものがあったように、山の神の祭りの日は「腹いっぱい食べる」という例は、高遠町周辺によく聞かれる例なのだろう。

 「大島山」(高森町)では「山を守ってくれる神で、また田の神ともなるので、毎年耕作の始まる2月になると山の神が山から下りて田の神となり、耕作の終わった10月には、山へ還って山の神となる」といい、いわゆる冬は山の神、耕作期は田の神という二面性を表す事例である。

 「小川」(根羽村)では「ヤマシ達はヨイヤマには、親方の家でゴヘイモチを焼いて食べ、一杯飲むのを楽しみにしていた。古くは何人かが組んで山の現場に入り、親方からの仕送りで現場の親方らを中心にヨイヤマにはゴヘイモチを焼いて食べたらしい。五平五合といって一升炊きの鍋で五平餅を2本の五平餅を作った」という。ここにも「5合」が登場する。山の神が味噌を好むという話は知られている。『日本の俗信』(井之口章次)の「山の神と味噌」によれば、「中部地方の山村で御幣餅といい、奥州でタンポヤキと呼んでいるものを、北関東の山村ではバンダイ餅という。赤城山北麓の村々では、今に古風な形を留めている。利根郡の旧赤城根村砂川では、杣の十二講と呼ばれる山の神祭の際、杣たちはふかした粳【うるち】米を板台【ばんだい】の上で、ヨキの鋒で磨りつぶし、それを長さ一尺幅一寸、厚さ三分位の串に固めつけ、囲炉裏で焼いて味噌をつけ、また焼いて山の神に供え、人もこれを食べている」(「山ノ神memo」より)という。下平加賀雄氏は「伊那の山の神」(『あしなか』120)において、「山仕事をする人たちが山の中で火を焚き、串に草鞋のように平たく握りつけた御飯に胡桃味噌をつけ、あぶってまず山の神に供え、それから仲間が頬ばったもので、これが「ごへい餅」のおこりらしい」と述べている。ここではいわゆる板御幣を言っているが「中郷」(上村)では「山で働くものたちが集まって山の神をまつる時は(不定期)祭りのあと串五平餅を作って酒を飲み会食」したという。ここでは串の五平である。

 「嶺方」(白馬村)では「各戸トウローを持ち寄りトーロー揃えをしてお宮までお詣りにいった」という。北の県境地方に多いトーローヅレを山の神の祭りに行ったという例である。

 「髭沢」(開田村)では「絵馬を木の枝に吊るして山の神を馬でお迎えする意味で農業の神となるので、山から下りてきてもらう」といい、「藤沢」(開田村)では「山の神は春は馬に乗って出雲へ行くと言うのでノリモチのほか絵馬を進ぜる」という。『あしなか』111号(昭和43年 山村民俗の会)に吉田勇氏が北魚沼郡小国町に滞在した際に山の神祭りの絵馬の版木を見つけたことを記している。宇桜田に住まわれていた星幸永さんとのやり取りである。

 半紙を何故かに切りおわると、墨をすりながら星氏は「今じゃ絵馬も馬という字を書くだけで、板木なんて使うのは見たこたねーよぅだなー」と昔を述懐する口振りであった。板木の上に筆で墨がぬられると、スタンプのようにべったりと馬の絵が半紙に刷られた。「できましたな」と覗きこむと「まあまあ」これを訳すと東京語で「まだまだ」となる。刷りあがった絵馬の一端を細く一部を残して鋏を入れた。けげんな顔で見守るうちに、細く切った方を器用に観世よりに仕上げると、外に出た。ふたたび座についた氏の片手には一米ほどの木の枝が握られている。
 「この枝は栗ん木でねーばならんのし、絵馬の数かね、それは七、五、三のどれかをつけるなも」。説明のうちに奉納絵馬は出来上った。素朴な、そして雅味に富んだ紙絵馬がゆらめくと七夕飾りを思いだした。時ならぬ絵馬飾りに、この家の主婦が「じゅんさま」ともらした。二度三度聞き返したが、らちがあかない。文字に書いて「十二様」と解った。「旧三月十二日のじゅんさまの前の日は、明るいうちに湯へ入ってじゅんさまごしらいしたがんだ」
 雪のくる前に、枝振りのよい栗の木を二本切っておいて、その一本が絵馬飾りで、いま一本が次の弓となる。
 一米ほどの手頃な枝から小枝を払って、下の方から筆で七、五、三本の黒線がくるりくるりと書き込まれる。絃は新しい麻糸できりりと張る。続いて茅が持ち出され、先端を斜めに切り落す。
 「矢ですか」氏は返事の替りに切り落した反対の方を縦に裂くと、厚紙で作った矢羽根を差し込み、「そうです」という顔つきで仕上った弓矢を前にした。たかが飾りものの栗と茅の弓矢だと手に取ってみて、その強さに驚いた。これはなかなかの武器である。祭礼後に子どもたちがこの弓矢をもて遊ぶ危険を重視したことも、山の神祭りのすたれた一因でもあるという。(吉田勇「山の神祭りの紙絵馬」『あしなか』111)

馬の絵馬の事例であるが、遠く新潟県の事例を聞くと、こうした例は昔はもっとあったのだろうと想像する。さらに吉田氏の報告を読むと、棒に紙垂風の飾りを付けているようにも見え、だからこそ「七夕飾りを思いだした」と感想を口にされた。この形、下伊那でコトヨウカに行われる風の神送りの短冊と似ているようにも思う。さらに「旧三月十二日のじゅんさまの前の日は、明るいうちに湯へ入ってじゅんさまごしらいしたがんだ」と言っている。十二様への供物をこしらえるにあたり、風呂に入って身を清めている。これは高遠町荒町で聞いたオトウヤでの風呂焚きに共通している。それぞれの行為の背景に関連性が見えて面白い。さらにだ、最後に「祭礼後に子どもたちがこの弓矢をもて遊ぶ危険を重視したことも、山の神祭りのすたれた一因」という。なるほどとも思う説明である。

続く

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〝山の神〟再考 ⑨

2025-01-29 23:18:55 | 民俗学

〝山の神〟再考 ⑧より

 『長野県史民俗編』の調査資料から読み取る作業はこれまででおおよそ終わりである。資料は調査箇所別に「祭り名」「祭日」「食べ物」(供物)「弓矢」そして「参加者」といった項目で記載されており、最後に「祭り方」という備考欄のようなものがある。ここではその「祭り方」欄に書かれた項目から気になるものを拾ってみる。

 「森」(栄村)では「ダンゴ12個を入れたツトッコ、それに弓矢をつける」という。栄村を中心に北信の事例には「12」という数字が登場する。これは十二講ともかかわってくるわけだが、小池淳一氏は「神々の歳時記」の中で「山の神の祭日は、東北をはじめとする東日本では一二日とする地域が多」いという。このことは〝山の神〟再考 ②において図を示したように、栄村から高山村あたりまで、2月12日を祭日とするところが多かった。新潟県にも十二様といった2月12日に祭りをするところは多く、大護八郎氏は「東国の十二様地帯の山の神祭りには、弓矢が重要な役割を果たしている」(『山の神の像と祭り』昭和59年 国書刊行会 117頁)と述べている。そして新潟県中魚沼郡中里村倉俣の事例として「十二神社では二月十二日を祭日とし、各戸から篠の弓矢を供え、それぞれ戸主が空に向かって弓を射る。古老の話だと、二月十二日が十二講で、各家より持参の弓矢で、大人たちが空に向かって同じく「烏の目玉にスットントン」と唱えながら射る。射るものは悪魔といわれている」という。同じ栄村の「極野」では、「2月9日は山の神が川へ魚を取りに行く日。2月11日十二講の前夜、燈明番に12~13才位から20才位の男子が社殿で社籠りをした。2月12日ウル米の粉を水でこねて丸いダンゴを作って重箱に12個入れて供える。1月2日に迎えた若木(カエデの枝)に内山紙に山の使い道具や動物などの絵を書いてつけて供える(ハチジョウ)」といい、ダンゴを作る数も「12」だといっている。同様に「大町」(木島平村)では「小豆のご飯をお頭づきの魚をワラのツトッコに入れ、その上に弓と矢(12本)を作って乗せて供える」という。また「箕作」(栄村)でも「カアラコで団子を12個作り、ワラヅトに居れて弓の弦にそえた」と言っており、供え物の数に「12」という数が現れている。

 少し変わった例は「稲附」(信濃町)の「祠の前にムシロを敷き獅子舞をする」というもの。それ以外にとくに記載がないため、なぜ獅子舞が行われるのか、それがどのように意味があるのかは不明である。

 「田端」(千曲市倉科)では「倉科神社祭をする。もとは山の神祭。神像軸を飾り、山、田、畑、海の幸を供える(当番の家で)。これが済むと山の神は田の神になる。この祭りがすむと田に出始める」という。祭日を境に山の神は田の神になるという例である。

 弓矢を射るのが「山の神」であるという伝承も見られる。「小井田」(上田市)では「1月12日に山の神が天に向かって矢を放って、この矢が17日に天から降って来るのでこの日山へ行って仕事をすることを禁じられている」といい、「金剛寺」(上田市)でも「12日に山の神さんか矢を放って17日にその矢が降ってくる」と言っている。佐久地域では弓矢を高く掲げるところが多く、「豊昇」(御代田町)では「弓、矢、オシメとイネノハナを半紙に刻んで包み、これを柱に立てて高く掲げる」といい、「菱野」(小諸市)では「山の神様に笹竹を立て、オシメを張り、弓矢を作り供え、神酒、餅をあげる」という。また同じ小諸市「耳取」では「庭先に弓矢を上げる。中折半紙でスカリを作り、その中に松カサを入れる。弓は萩、矢はススキ。この日は山へ行くなといわれていた。木切り、鳥打ち、兎狩りを戒めた。1月14日に正月飾りを下ろし、15日に門松をおろし、その松柱に十二様への弓矢を立てたとも聞いた」という。詳細はともかくとして、中信や上伊那を中心に小正月に立てられる道祖神の柱系統のものと似ている感じだ。

 「三分」(臼田町)では「御物作りの時のイネノハナ、マユダマを下ろした柳で下った弓と矢とマユダマを紙で作った編袋に入れて弁当に入れ供える」という。やはり山の神とはいうものの、作の神とのかかわりを印象付ける連続性がうかがえる。

続く

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学習しない人たち

2025-01-28 23:21:04 | つぶやき

 運転に関することは何度となく書いてきた。思い出すように同じようなことを書いてしまうが、それほど鬱陶しいというか、腹立たしいことが多い。以前にも記したかもしれないが、いつもと同じことを繰り返していれば、学習能力によって鬱陶しいことを回避したいと思うもの。それを繰り返し学習せずに繰り返す人は、頭が悪いんじゃないか、と思うのはふつうだと思う。

 いつも通り我が家の近くまで来ると、前に車がいれば、とくに車間を長めに保つ場所がある。左折する車が直進する車より多い交差点。左折レーンがあるわけではなく、みながみな左折する車はブレーキをかけるから、当然のこと後ろについている車は減速せざるを得なくなる。直進車もだ。わたしはほぼ100パーセント、その交差点は直進する。したがって車間を詰めると自ずとブレーキを踏まなくてはならなくなるため、あらかじめ車間を長くとってブレーキを掛けずに減速だけで通り過ぎることを選択する。ところがだいぶ手前から徐々に減速するから、わたしの後ろについている車は接近してくる。鬱陶しいわけである。時には後ろについた車も直進する車だったとすると、わたしの前の車が減速して左折支指示をすると、わたしがいるのに対向車線にはみ出して左折車を追い越すようにわたしの車も含めて抜いていく車もある。わたしは左折指示など出していないのに。

 後続車の学習能力のない例はいくつもある。例えばやはり交差点でのこと。前方の交差点の信号機が赤になりそうなのでアクセルを戻して減速していく。にもかかわらず右折しようとする後続車が前方にいるわたしの車を右折レーンに出て抜いていく。もうすぐそこに信号機があるというのに、あえて追い抜くように右折レーンに入っていく。赤なのだからそんなに早く行ったとしても停止しなくてはならないことが目に見えているのに、スピードを上げて右折レーンに入って行くのである。こういう交差点の場合、信号機が青くなったとしても、対向車が繋がっていればしばらく右折できないのに「何を焦っているんだ」というしょうもない行為だ。

 同じような例だが、信号が赤で、あるいは赤になりそうなのに、横道から出ようとしている車の前に出て、道を防ぐ行為。当然のことだが、交差点であれば前が詰まっていれば開けなくてはならない。詰まっていないとしても前方の信号機が赤であるならば横道から出ようとしている車は出させてあげるのが常識だ。とくに自分側のレーンに入ろうとしているのではなく、対向車線に出ようとしている車がいて、対向車が来ないのならなおさらだ。少しは周囲のことも見ろよ、考えろよ、学習しろよ、と思う。

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〝山の神〟再考 ⑧

2025-01-27 23:51:23 | 民俗学

〝山の神〟再考 ⑦より

 

 山の神の祭りがどのような人たちで実施されているのか、どういう人たちが参加するのか、そうした捉え方のまとめが『長野県史民俗編』ではされていて、調査表のまとめた欄に「参加者」という欄が設けられている。例えば高遠町藤沢荒町の例では、同姓別に講が組まれていたようで、過去には4つの講があったと地元では言われていた。県史の調査地「上堀」(旧堀金村)でも同姓ごとに講があったといい、「下之原」(下諏訪町)ではムラ内に6組の講があり、ムラ人はその講のどれかに所属したという。下之原の場合同姓に限られたものではなかったのかもしれないが、いずれにしても小集落内にいくつかの講があった例は多いようだ。いっぽう地域全体で祀っている例も多く、地図に示したようにムラ中や区といった単位で祭るという例は全県に分布している。「神宮寺」(諏訪市)では、ふだん山に出入りして仕事をする人は誰でもよいというものの、現在は狩人のような特殊な人が祭るといい、また「柏原」(旧穂高町)でも大正時代は村全体で祭ったが、今は山に関係ある人だけで祭ると言っており、かつては地域全体で祭っていたものが、山とのかかわりがなくなると、山の仕事をする特殊な人だけの祭りと受け止められているようだ。したがって山の神の捉え方も、昔とは様変わりしているといえる。県史のデータは昭和40年代のものであり、当時すでに山とのかかわりがなくなりつつあったことがわかる。したがって、今ならもっと山の神の存在は特異なものと捉えられるのかもしれない。図でも「山仕事をする人々」という答えが全県に分布し、かなりの数みられることからもその傾向がうかがえる。したがって「講仲間」で祭るという事例は意外に少なく、長野から上田周辺、そして上伊那、さらに下伊那南部に点在するのみである。また、各戸それぞれで祭るというところが長野から上田周辺にかけて点々とあり、木曽谷にもみられる。

 参加者については、男性のみというところは多いが、必ずしも男女問わないというところもある。「野底」(伊那市)では地域の子ども、とくに男子とされていて、「中坪」(伊那市)でもムラ中の男子と言っており、この場合の祭りの内容は餅をワラヅトに入れて神前に供えるというもので、十日夜に行われた。いわゆるトオカンヤの行事で同様のことは他地域でも十日夜に行われているが、それらは山の神の祭りとして行われているわけではないよう。「〝山の神〟再考 ②」で述べた通りである。「下殿島」(伊那市)では「昔はとおかんやに「おからこ」をはたいて藁づとにつめ男の人が朝早くお参りし山の神に供えたのち、たき火をしてそれを焼いて頂いたものだが、今はほとんどやらない」という。

続く

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〝山の神〟再考 ⑦

2025-01-26 23:42:25 | 民俗学

〝山の神〟再考 ⑥より

山の神の石祠

 

貴船神社

 現在行われている山の神講と、過去の変遷について、高遠町藤沢荒町の事例について触れてきた。掛軸には「大山祇命」と書かれているが、地元では「おおやまつみのかみ」と読んでいる。貴船神社の裏山にある山の神であるが、裏山といっても神社から20メートルほどの高低差。山の神へお詣りし、神酒と洗米を供えると弓で矢を射、貴船神社へ下るとお宮にお参りし再び矢を射る。貴船神社は水神さんと言われており、山の神とのかかわりははっきりしない。山の神の石祠はふたつある。ふたつとも山の神かどうかもはっきりしないが、両者尾根の突端に祀られていて、おそらくふたつとも山の神なのだろう。大き目の主神と思われる石祠には銘文がある。向かって右側面に「延宝六年」、左側面に「戌午二月吉日」とある。延宝6年は1678年に当る。350年ほど前のもの。山の神の祠でこの年代のものがほかにあるのかどうか、あまり山の神の祠を調べたことはなく判然としないが、かなり古いもののひとつと言える。ちなみに貴船神社は永禄から天正のころに勧請されたものと言われており、この山の神の祠より100年ほど早い。高遠城主だった保科正之が山形へ転封されたのが寛永13年というから1636年であり、その40年ほど後にこの祠は祀られている。転封された際に山車や神輿、子供騎馬行列の祭具一式が貴船神社へ寄進されたと言われ、それらが現在も残されている。

 では山の神講の始まりはいつかということになるが、掛軸を納めている木箱の裏に墨書きが残っており、「文化十三丙子年」(1816)とある。少なくともその時代には山の神講は行われていたと推測される。かつて荒町には4つの山の神講があったといわれ、平成20年の伊那谷ネットニュースには「現在2つ」の講があると報道されている。そのもうひとつの講も現在はなくなっており、残っている講はこの講のみ。前回「山之神講連名帳」について触れたが、その中で平成13年ころ講の合併の話があったことについて触れた。いずれの講も同姓が中心になって組まれていたようで、とりわけ現在残っている講は、いろいろな姓で構成されている。もともとは秋山姓の人たちによって構成されていたと思われるが、しだいに同姓外の家々を講員にして継続されてきたとも想像され、時代に応じて変容を受け入れてきた講ともいえる。故に現在も継続されてきたのだろう。

 講員の方たちと話題になったのは、なぜ米を5合持ち寄るのか、ということであった。使うのは現在2合。しばらく2合のよう。であるならば持ち寄るのも2合で良いと思うのだが、あえて5合持ち寄って、3合は持ち帰る。その持ち帰った米は特別な利用法があるのか聞くと、ふつうに炊いてしまうしまうという。そこには意図が見えないわけだが、この「5合」の話を他の事例に拾うことができた。前回も引用した辰野町川島の講では、「お頭屋では米五合宛集めて回る」という。荒町の5合と同じである。川島の事例では5合集めた米のことについてほかに記述はない。そもそも現在川島で山の神講を実施しているという話を聞かないが、調べてみる必要はある。同じ『長野県上伊那誌民俗篇』には長谷村非持の事例も紹介されていて「以前は米を持ちよって御飯をたき、御飯を大盛りにして食べ、食べきれないで泣きだした人もいたという」。ようは山の神講では腹いっぱい食べることが伝わっていて、故に5合という米を持ち寄る話が聞かれるのかもしれない。荒町ではその5合を今も伝えているが、さすがに食べきれないため、利用しているのは2合ということなのだろう。

 さて、こうした矢を射る山の神講、現状はどうなのかということになるが、ウェブ上で検索すると、諏訪地域で実施例が目立つ。例えば下諏訪町第三区では1月17日の朝早くに山の神へ集まり、神職による神事の後に「山の神様、三仙護王」と唱えて竹の矢を射るという。また諏訪市北澤、南澤両区では同日に双葉ケ丘の山之神社において神事後に矢を放っているという。いずれの例も地域をあげて行っているもので、神事を伴っており、荒町のような素朴なものとは趣が異なる。とはいえ、諏訪に隣接する藤沢であることから、ここの山の神講は諏訪方面から伝わったものといえ、県内では藤沢谷を境にそれより南にはこうした矢を射る講は認められない。

 なお、荒町にあった4つの講は、いずれも貴船神社裏山の山の神の祠が祭祀対象だったという。

続く

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〝山の神〟再考 ⑥

2025-01-25 23:40:06 | 民俗学

〝山の神〟再考 ⑤より

 

 高遠町藤沢荒町の山の神講には、写真のような「山之神講連名帳」というものが毎年綴られて残されている。中には会計報告(前年度繰越金、収入、支出、次年度繰越金)、出席者、欠席者、次回当宿、申し送りが書かれ、最後に「当宿」が記されている。「当宿」とはオトウヤのことである。出席者は参加された全員が書かれており、ここでは軒数ではない。昔は1戸ひとりの参加だったことから出席者=講員数だったのだろうが、現在は参加者全員なのである。自治組織も家ではなく個人になりつつあり、現代風の対応と捉えられる。令和6年には11名が参加されており、欠席者は3名記されている。

 そもそも講員数を聞くと軒数で答えられており、令和6年時は7軒だったという。今年から移住された方が1軒加わり、8軒となる。この連名帳といわれるものは、明治45年(1912)から残されていたようで、それらを講員の秋山さんがまとめられていて、オトウヤに渡される記録簿に綴られている。連名帳の当時の実物が無いかと確認したが、現在オトウヤに回されている箱にはそれらしいものが入っておらず近年のものだけ回されている。処分されたのかどこかに保存されているのかは不明である。ただしまとめられているため、その経過がよくわかる。最も古い明治45年の欄には実施日1月17日とあり、会費として「20,32銭」と記されている。20銭だったのか、32銭だったのかはよくわからない。ちなみに翌大正2年の会費は21銭だった。大正3年の「申し送り事項他」欄に「明日よりも今日を楽しむ山の神」とある。この時代には特別な記載がないなかであえてこう記されていることを察すると、この祭日には酒盛りをして「楽しむ」という意識が強かったと思われる。このことはほかの山の神講の事例からもうかがえる。例えば辰野町川島では、やはりオトウヤでかつて山の神講が行われ、「酒を飲み御馳走を食べ大騒ぎして晩方帰」ったという(『長野県上伊那史民俗篇』971頁)。

 昭和11年には新規加入者が3名記されている。それから9年後にその加入者が3年続けてオトウヤを担っている。現在オトウヤは、事前に抽選で決められている。抽選で決められたオトウヤが終わる3年ほど前にあらためて次のオトウヤを抽選しており、新規加入者は抽選で決められたオトウヤの最後にあてられると言う。当時も現在のようなオトウヤ決定方法だったかは不明だが、3年連続しているところから同じ方法をとっていたと思われる。抽選のことが連名帳に記されるようになるのは昭和21年のこと。そこには「23年よりの抽選」と記されている。ようは昭和23年(2年後)以降のオトウヤを決めたのは昭和21年だったわけである。次に抽選のことが記されるのは昭和35年のことで、「37年よりの抽選」と記されている。ここからオトウヤ役は14軒ということになる。昭和11年に加入された方がオトウヤを終える2年前に抽選したことからも、前述したように新規加入者がオトウヤの最後に名を連ねていたことが解る。

 このころから休会、あるいは休講という文字が見える。昭和23年に3名、同26年に1名記されている。3名中2名が女性のことから、もともと山の神講は男性のみの講だったことから、主人が亡くなられて講に参加できなくなったことによるものと思われる。

 昭和49年にオトウヤを抽選しているが、この年から祭日を「成人の日」に変更している。ただし成人の日がハッピーマンデー制度で第2月曜日に変更されたのは平成11年であることから、記録を見る限り、必ず成人の日ではなかったようで、昭和51年は18日、以後も15日ではない日に実施されている年が多い。現在のように1月17日に近い日曜日、あるいは「成人の日」にしたと思われる。平成11年に近い年は、ほぼ1月15日に実施されていて、平成12年以降は現在のように第2日曜日に設定したようである。

 かつてはオトウヤで講は行われていたが、その際にはオトウヤで風呂を焚いて身体を清めてもらったという。この風呂焚きがけっこう大変だったと、経験者は語られる。昭和50年の欄には、その清めの風呂を中止すると記されている。翌昭和51年にはオトウヤではなく公民館で行い、「17日前後の日曜日」と実施日の目安が記されている。さらに昭和61年には「男子不都合の時女子で良い」とあり、この年から女性の参加が認められた。さらに2年後の昭和63年には「次年度より夫婦同伴で出席する」となっており、記録では翌年から1戸当たりの会費が上がっている。記録の冒頭にもあったように、「今日を楽しむ」を実践するために昭和から平成になったころ、それまでの風習をいろいろ変えた様子がうかがえる。

 平成13年と14年には「山の講の合併」話が上がっていたようで、担当を決めている。その後この件について記載はなく、結果的に合併はなかったと思われる。

 現在弓の弦はバインダーの紐を利用している。それまでは藁で綯ったというが、平成28年に「麻縄寄贈」と記されており、このころこの紐を利用するようになったと思われる。令和3年はコロナ禍のため「休会」となり、オトウヤは次年度に持ち越された。令和6年、昨年新たにオトウヤの抽選がされており、抽選に加わったのは6軒だった。令和7年までオトウヤが決まっていたため、今年加入された方は、令和8年にオトウヤを努めると言う。

続く

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塩川原道祖神の屋根葺き替え

2025-01-24 23:55:09 | 民俗学

下ろされた昨年の屋根

ケヤキの根元の道祖神には松飾りで利用された注連縄が掛けられる

ケヤキの根元の道祖神屋根完成

道祖神の屋根完成

 

 明科に寒念仏を訪れた日からだいぶ日が過ぎてしまったが、寒念仏と一緒に行われていた道祖神の屋根葺き替えを記録しておく。寒念仏の日はサンクローの日でもある。午前9時に塩川原農業研修センター近くの水田に子ども達が集まるが、その前に各戸から松飾りを集めて歩く。軒数が少ないからそれほど多くの飾りが集まるわけでもなく、増量するために藁が使われる。このあたりでは山の木ではなく藁を使って増量するところが多いようだ。したがってそれほど大きな櫓にはならず、三角錐形にでき上った櫓は高さにして2メートルほどと小さなもの。真ん中に親柱を建てるのではなく、三方から竹を三脚風に組んで形作っていて、この形式もこのあたりのやり方のよう。

 サンクローの準備ができると、道祖神の屋根の葺き替えと、寒念仏のお堂の掃除のふたてに別れる。実際のところ子どもが少ないこともあって、屋根の葺き替えは子どもの親が近年はやっているよう。お堂の掃除も子どもというよりはおとながやっているのが実際のよう。

 塩川原には道祖神が何体もある。いわゆる双体道祖神もあり、屋根をの葺き替えをされていた方もそれが道祖神なのかどうかはっきりとした認識はされていなかった。もちろん道祖神であることは事実だが。とはいえ屋根付きの道祖神は、いずれも自然石ということもあって、認識が薄れているのも仕方ないのかもしれない。お年寄りにはなしを聞いた際にも、はっきりと道祖神であるということを口にされなかった。

 2箇所にある自然石道祖神は、いずれも近い位置にある。最初に屋根を葺き換えたのは天狗社のケヤキの根元にある道祖神である。小さな自然石であり、その道祖神に三角状に屋根を掛ける。桑棒に似た木を利用しているが、毎年同じところから採ってくるという。三角状に2方向からヤスで葺くもので、構造は簡単なもの。そのケヤキの木から北へ100メートルほど行った、河原に下りる道沿いの畑の脇に、やはり自然石の道祖神が祀られている。こちらの道祖神の方がケヤキの根元にある道祖神よりは大きい。したがってまさに小屋風に土地の傾斜を利用して2点支持された屋根組をして、その上にヤスを葺いていく。道祖神の屋根が葺き替えられると、「寒念仏」となるのである。もちろん寒念仏でこの道祖神もお詣りされる。

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道祖神の幟

2025-01-23 23:27:11 | 民俗学

伊那市高遠町長藤中条(令和7年1月19日午前8時30分撮影)

 

 先日荒町の山の神講を訪れた際、手前の集落で道祖神の幟が上がっている所が2箇所見られた。ひとつは長藤の中条である。国道が藤沢川に沿って北上していて、藤沢川を渡って中条の集落に入ったすぐの辻にそれは見えた。この谷でこうした道祖神の幟を見かけたのははじめて。この時期に藤沢川の谷へ入ったことが今までなかったということになるのだろう。通り過ごしてから引き返して写真に納めたわけだが、頭の中では「山の神講が終わってから」という考えもあったが、経験上後回しにすると片付けられて無くなっているケースが今までにも何度もあったため、引き返すことに躊躇はなかった。

 辻にはだいぶ風化した双体道祖神が祀られているが、目立つのは「庚申」である。その庚申塔の前には茶碗の欠片がたくさん散らばっていて、いわゆる厄落としがされたことがわかる。欠片の雰囲気から今年のものではないが、それほど昔に投げられたものでもない。厄落としの状況も、小正月になると毎年注視しているが、さいきんこれほどたくさん欠片が散らばっている場所はなかった。厄落としについても、後日少し考えてみたいと思う。双体像の横には角灯籠が置かれており、「道祖神」と正面に書かれ、側面には「中条祭事連」と「令和七年一月吉日」とある。建てられた幟には「欽上道祖神」とあり「平成二十四年一月 中条氏子中」とある。日章旗の建てられている金属のポールにも「奉納 中条氏子中 平成二十四年一月吉日」と記されたプレートが付けられていて、さらに幟が建てられている石製の幟立てにも同じく「中条氏子中」と「平成二十四年一月吉日建之」と刻まれている。さらに国道端の橋の脇にも「道祖神」文字碑がありその脇にも同じ角灯籠が置かれていた。文字碑の右側にある石祠も道祖神だろう。『長野県上伊那史』の民俗編「信仰」の項の道祖神一覧に記載がないが、双体像の左側に建つ棒状のものは自然石道祖神にあたるだろう。

 山の神講を終えてから帰りに再度立ち寄ってこれらについて確認してみた。するとここでは幟は正月に建てて、どんど焼きが終わって下ろすという。どんど焼きは小正月の終わり、ようは二十日正月にかつては行われていたようで、今は20日に違い日曜日がどんど焼きの日に定められているようだ。高遠界隈では二十日正月にどんど焼きをする所が多い。

 中条から北上するとすぐに旧藤沢村に入り、北原の集落に入る。その辻にも道祖神の幟が建てられていたが、そこでは写真に納めなかった。やはり帰りには既に幟は片付けられていて、話だけでも聞こうと何軒か立ち寄ったが、不在で話は聞けなかったが、おそらく中条と同じような日取りで建てられているものなのだろう。こう捉えると、いわゆるデーモンジと同じような意図で幟が建てられていることも考えられるが、実は道祖神の幟を建てるのは、諏訪や山梨でもよく見られる。やはりこの地域は山梨からの影響があると考えられる。

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手紙を書く

2025-01-22 23:14:43 | つぶやき

 新年早々「年賀状じまい 後編」において、「「年賀状」ではなく、自分スタイルの新年のあいさつに変えれば良いだけのこと」と書いた。そして「もう少し歳をとったら、そんな仕掛けに変えていきたい」とも。その後6日ころ新たに年賀状が届いて、遅くなったがもちろん返信は投函した。しかし、あまりに遅い年賀状となってしまったため、あらためて「自分スタイル」ではないが、手紙を書くことにした。近ごろはメールで返信すれば早いし、字のきたなさも目立たないから楽なのだが、あえて手紙を書くことを選択した。ということで、久しぶりに手書きの手紙を書くことに…。最近は、もし手紙だとしてもワープロで印刷して出していたから、本当に久しぶりだった。もちろん半世紀近く前は死語となった文通好きだったから、面倒とも思わないが、なにしろ年老いてくると漢字を忘れているし、勢い文字を間違えたりする。なかなかワープロで文字を打つようなわけにはいかない。

 とはいえ、実は最近はワープロも、かつてのように早く打てない、というか文字を間違える。文字を羅列していく順番をよく間違えるのである。したがってこの頃、backspaceキーを押すことが多い。なんだかしらないが、最近のパソコンは昔のように思うような漢字変換をしてくれない。ようは思うような文章を書くには時間がかかる。単純に年老いた、だけではないと自分では言い訳をしている。先ごろ提出した原稿も、初校があがってきて読み返していると、あまりに程度の低い間違いをしていて、「こんな間違いをするはずがない」と印刷屋のせいにするが、あらためて原稿をパソコンで開くと、確かに間違っている。情けない事実である。

 さて、その後も数通手書きの手紙を出している。いずれも年賀状のお詫びのようなもの。さすがに茶封筒では、と思い便せんや封筒を買い足そうと文具を売る店に行ってみると、ちょっと気の効いたものを買うと、1000円くらいしてしまう。そこへ値上げされた郵便料金となると、手書きで手紙を書くのも、もはや贅沢な世界だ。だが、手紙をもらう方の気持ちになってみればどうだろう。もちろん年老いたわたしの捉え方であって、若い人は無駄だと思うのだろうか。カタチ、モノにこだわってきたわたしたちとは、世界が全く違うように見えるこの後の世界。そもそも年賀状を「出す」という意図が意味不明なら、手紙を書くなどと言う行為は選択肢から消滅しているのだろう、若い世代からは…。今こそ、「手紙がいい」とわたしは思う。

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〝山の神〟再考 ⑤

2025-01-21 23:41:28 | 民俗学

〝山の神〟再考 ④より

 

 高遠町藤沢荒町における山の神講の現在について触れたが、ここでは必ず芋汁を作って食べる。加えてかつては兎の肉を食べたというが、『長野県史』において「何を食べるか」という聞き取りはされておらず、祭りで必ず作るもの、食べるものははっきりしない。供え物で把握するしかないわけで、ここでは祭りでの供え物を地図にしてみた。実は調査表には「食べ物」をまとめた欄もある。しかし、それは東信を除いた3地区の表であり、東信の表には「供物」とある。ただ東信以外の「食べ物」欄にまとめてあるデータをみてみても「食べ物」というより「供物」の答えに近く、はっきりと「食べ物は何をつくりましたか」と聞いた回答とは考えられない。したがってここではあくまでも「供物」として捉えた。

 供物のうち洗米や酒といったふつうに神様に供えられるものについては図から省いた。ようは特徴の表れそうなものをまとめてみたわけだが、地図からもわかる通り、あまりはっきりした地域差を表すには至らなかった。シロモチ、カラコ、オハタキは、いずれも生米を水に浸して粉にして丸めたもので同意として捉えた。海のものについては、「魚」と表記されていると必ずしも「海のもの」とは限らないが、凡例上同意としてまとめた。野菜も洗米や酒同様にふつうに神様に供えられるものなのでここでは外すことも考えたが、目立たないように図には表してみた。その上で図に地域性を見いだすなら、シロモチやカラコといったものは奥信濃など北の県境地域にも見られるが、主たる分布域は県南部と言える。事例数は少ないが五平餅が中信から南信に掛けて点々と分布する。あとは点々と全県に分布する事例で、地域特有性は見られない事例と言える。食べ物とは別に弓矢があるが、これは「〝山の神〟再考 ③」で示した図「山の神の祭りの弓矢」の方が正しいのかもしれない。あくまでも調査をまとめた表の供物欄に記載されたデータでここでは作成したもの。あえてそのデータのみで作成した本図から言えることは、弓矢は上伊那や中信南部にのみそれは表れている。

 さて、高遠町藤沢荒町では芋汁を作ったわけであるが、実際のところ芋汁を山の神に供えるということはしなかった。直会の料理として必ず作られているもので、ここで示してみた図と必ずしもリンクしないが、長野県史調査データの中に芋汁という単語は発見できなかった。ようは荒町独自の風習と考えられる。

続く

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道祖神とゴミ収集場

2025-01-20 23:14:09 | 民俗学

 1月11日に「令和7年オンバシラ」を記し、その際安曇野市三郷一日市場下町のオンバシラを紹介した。当日は長野県民俗の会第244回例会が開かれたわけであるが、オンバシラは道祖神の祭りであり、道祖神の脇に建てられる。一日市場下町のオンバシラもかつては道祖神の脇に建てられていたというが、現在は少し西側の車の往来が少ないところに建てられている。道祖神のある場所は県道沿いで、車の往来が激しい。このオンバシラを訪れた際、「道祖神のある場所はゴミ収集場になっている」と話題になった。まさに一日市場下町の道祖神の横が収集場になっている。車の往来が激しいのになぜゴミ収集場になっているか、違和感があったことは言うまでもない。オンバシラの建てられるさらに西側には集会施設があって、そこにもゴミ収集のスペースが確保されているようだったが、あえて車の往来が激しい道端にそうした空間が設けられたのか、それほど道祖神とゴミ収集場は関係性がなくてはならないのか、といった話題に繋がった。

 その後柱立ての現場をいくつか見て歩く中で、同じような事例はほかにも見られた。例えば辰野町羽場中村のデーモンジである。ここの道祖神の真横が、やはりゴミ収集場なのである。みなが利用しやすい空間が、やはり道祖神の建てられている場所、ということになるのだろう。一日市場下町の場合、今でこそ車の往来が激しくて「危ない」場所になってしまっているが、かつてはみなの集まりやすい場所ということだったのかもしれない。もちろん安全を考慮して場所を移動することも必要なのだが、あえていまだ場所を維持している理由を聞きたいところである。羽場中村では、14日にデーモンジは建てられる。それまでは竹が横たえられていて、そこへ厄年の人が扇を結び付けていく。ゴミを出しがてら厄を落としていく人はいないかもしれないが、「厄を落とす」=「ゴミを捨てる」、考えてみれば同じような心持ちなのかもしれない。

 

安曇野市三郷一日市場下町道祖神

 

辰野町羽場中村道祖神

 

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〝山の神〟再考 ④

2025-01-19 23:34:44 | 民俗学

〝山の神〟再考 ③より

 水神ほどではないが、里から山へ入ると山の神と称されている祠を目にすることはよくある。『長野県史』の調査地である飯島町石曽根の事例には「山の神を鎮めるため今は飯島区で合同して祀っている」と記されている。飯島区の西山裾のうどん坂を上り与田切川源流へと山道を走ると、道端に「平澤山の神」という社が祀られている。これがここでいう飯島区で祀る山の神社であるが、こうした大きな山の神とは違い、小さな山の神は各地に祀られるが、前回も記したように、山とのかかわりがなくなって忘れ去られそうな山の神であることも事実である。

 旧高遠町藤沢の荒町では、今日「山の神講」と言われる祭りが行われた。前回山の神の祭りの呼び名の図を掲載したが、長野県史のデータからは高遠町近在に「山の神講」という名称は分布せず、むしろ「山の神の祭り」といった記号が目立っていた。この荒町で行われている現在の山の神の祭りについて見ていこう。

 荒町ではかつて4つの山の神講があったという。しかし現在も祭りを行っているのはさまざまな姓がの方たちで構成される講のみ。ほかの講はどちらかというと同姓の人たちによって編成された講だったという。ちなみに荒町の現在の戸数は27戸といい、かつて多かった時は64戸ほどあったというから、ほぼ3分の1まで減少している。ここの山の神講は、昨年まで講員は7戸だったが、今年から移住された方が1戸加わって8戸となった。午前9時に荒町にある公民館に講員が5合の米(このうち現在は2合分の米を使って米を炊き、残りの3合は持ち帰るという)を持って集まると、広間の正面に「大山祇の命」と書かれた掛軸が掛けられ、まず皆でお茶をいただく。当番に当る御当屋(オトウヤ)の挨拶で山の神講は始まる。男性は弓と矢を作り、女性は芋汁と肉を入れた汁を作る。もともとはオトウヤで行われたが、公民館ができると公民館で行うようになったという。過去の経緯については後述する。また男性のみの祭りだったが、現在は女性も加わっている。講員の減少もあるだろうが、時代や環境の変化に伴って変えてきたようである。

 弓はもともとはヨウズミの木を利用したというが、近年竹に変更した。ヨウズミの木を選ぶのには少し経験もいるようで、若い人たちでも手に入れやすい竹にしたようだ。4尺ほどある青竹を4分割にし、4つの弓にする。持った時に手に刺さらないように割った竹は節を取り、割った面は綺麗にする。弦にはバインダーの紐を利用しているが、昔は藁を綯ったものだったともいう。矢は茅を利用したが、これも理想の材料が手に入りずらくなったため、近年竹に変えた。数年前にもらった竹が残っていて、今年はその竹を利用して矢を50本ほど作ったが、一人3本作ると言われている。ここでいう一人とは、かつては1戸当り一人が参加したため、1戸3本と捉えられるのだろうが、現在は一人3本という捉え方のようである。

 弓矢と芋汁などの準備が整うと、弓矢と洗米と御酒を持って貴船神社裏の山の神の祠へ向かう。今年は祠のある尾根に登ったのは男性のみだったが、年によっては女性も登り弓を射る。山の神の祠へ洗米と御酒を供えお詣りすると、神酒を頂く。そしていよいよ弓を射るわけである。恵方に射ると言われており、今年の恵方である西南西に向けて一斉に弓を射た。その最「あたりー」と言って弓を射、その弓が木の枝に載って落ちてこない方が良いとされている。葉の落ちた木に向かって落ちてこないように射るのは難しいと思っていると、意外に枝に引っかかったり、中には木に刺さって落ちてこない矢もある。祠の前で矢を射た後、弓と矢を1対山の神に供え、山を下りると貴船神社境内で再び矢を射り、貴船神社に参拝後再び御酒をいただき公民館に帰り、直会となる。

 

矢を放つ(音声)

 

令和7年1月19日撮影

 

続く

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〝山の神〟再考 ③

2025-01-18 23:27:39 | 民俗学

〝山の神〟再考 ②より

 山の神の祭りの呼び名についても『長野県史民俗編』総説Ⅰの「民間信仰」の節「山の神の祭り」の中で「山の神-祭りの呼び名-」と題した民俗地図にして県内の分布が示されている。あえて同じことをわたしも作図してみたわけだが、驚いたことに分布の姿に地域性を見いだすような記号を選択していたら、結果的に似たような記号を拾うことになった。先般の長野県民俗の会第244回例会(1月11日開催)において、民俗学会でグループ発表したことに触れ、この後のことが雑談で話題になったが、福澤昭司氏は「結局いろいろ図を作成してみたが、『長野県史』以上の図を示すのは難しいかもしれない」というようなことを口にされた。確かに今回の図を作成してみて、結果的に同じことを提示しているとすれば、同じことのトレースに過ぎないことになる。ただし、GISを利用することによってほかの図と重ねることはできる。そのメリットを利用して新たな発見をすることが求められることになるのかもしれない。

 いずれにせよ、今回作成した図「山の神の祭りの呼び名」は、刊行された県史からの引用ではなく、その下資料から図化してみたもの。必ずしも一致しないわけだが、この図から解ることをまとめておこう。山の神様あるいは山の神の祭りなどと称している地域は全県に分布する。ただし記号そのものの密度が南信のとくに南部に薄いことがわかるだろう。この地域では山の神信仰そのものが薄いという印象を受ける。印象だけではなく実際事例数が少ないということは、山の神に対しての意識が低いことを示すことになるのだろう。後述する予定だが、調査資料を見ていて気がつくのは山の神を信仰している人たちのことである。とくに資料に目立つのは昔はムラ全体で信仰していたが、今は山に関わる仕事をしている人たちだけで祭っているという書き込みである。調査された年代が昭和40年代後半。とすると既に山の仕事は昔のように誰でも関わっていた時代ではなく、農業における山への依存度も低下していただろう。したがって山の神への信仰がすでに希薄化していた時代と言える。とくに平地の山から遠い地点での回答には、山仕事の従事者だけの祭りという捉え方が強いように思われた。

 そうした背景を前提に図から見える地域性をうかがってみると、特徴的なものは十二様地帯である。山の神を「十二様」と呼ぶ地域が栄村に多い。図からはそれが読み取りにくいが、北信域に十二様という記号がみられる。また「山の講」と呼ぶ地域が際立つのは下伊那南部である。さらに木曽谷まで続く。北安曇にも見られるがどことなくこの分布は中央構造線の西側に分布しているとも受け取れる(正確には東にも記号は見られるが)。もうひとつ、やはり上伊那であるが、「トオカンヤ」の記号が落ちているのは上伊那に限定されている。

 

 その上で山の神の祭りでよく供えられる、あるいは射られる弓矢のことを図化してみたものが「山の神の祭りの弓矢」である。弓矢が祭りに供えられるかどうかは記号のあるなしで判断できよう。したがって北信、東信に集中し、南信にはほとんど記号が落ちていないことが解る。その上で使われる樹種が記載されているものについては樹種別に記号変えてみた。長野市近辺にはウツギの木を利用するところが多く、しなる木を利用していることが解る。

続く

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〝山の神〟再考 ②

2025-01-17 23:39:49 | 民俗学

〝山の神〟再考 ①より

 山の神について『長野県史民俗編』総説Ⅰの「民間信仰」の節に「山の神の祭り」と題して触れられている。まず祭日である。

祭日は必ずしも一定ではないが毎月一七日とする所が多い。このほか北信の秋山や市川谷から下高井地方、上高井地方、小県地方にかけて十二日を祭日とする所があり、北信の善光寺平、川中島平を中心とする地域では九日としている。上伊那地方、下伊那地方及び木曽地方の一部では十日とし、下伊那地方、木曽地方の大部分は七日としている。木曽地方では十日と七日とが並行しているのである。それは二月七日と十月十日と春・秋に二度まつるとする所である。祭日を年一回として一月あるいは二月にまつるとしている所も多い。

 この解説には「山の神-祭日-」という地図が添付されており、県内の祭日分布が示されている。凡例には7、9、10、12、17という各日別の記号で図示されており、「日」にこだわったまとめ方となっている。県中央部を中心に「17日」が最も多く図示されていて、北部は9日と12日、南部は7日と10日が目立つ。明確に地域分布がわかる図ではあるが、あくまでも「日」に焦点を当てたものである。あらためてここに県史の調査資料から山の神の祭日を図化してみた。今回の図を作成するにあたり、回答されている月日別に一覧化した上で、事例数の多いもの(目安として10例以上)を図に落としてみた。ただし、複数の日数を回答している地点も多く、とくに目立つのが1月17日を祭日として挙げながら、「毎月17日」と回答している事例である。424地点のうち18地点においてこの回答をしており、それらが県史の地図でいう「17日」地点であることに違いはない。今回の図では「1月17日」と「毎月17日」と回答しているものは優先的に「1月17日」の凡例に含めた。したがって「月の17日」の凡例に該当するものは、単独回答のものということになる。回答された祭日は多様で、毎月10日、毎月12日、毎月16日、毎月17日、正月、1/7、1/8、1/9、1/10、1/11、1/12、1/14、1/16、1/17、1/18、1/19、2月初旬、2/5、2/7、2/9、2/12、初午、2/17、3/9、3/10、3/12、3/15、3/17、4/7、4/12、4/15、4/17、4/22、4/24、4/27、八十八夜、5/7、5/17、5/8、6/17、6/24、7/27,28、8/16、8/17、8/27、8/28、9/9、9/15、9/16、9/17、9/24、秋分の日、10/1、10/7、10/9、10/10、10/12,13、10/17、10/18、11/7、11/10、11/17、11/23、12/1、12/3、12/7、12/8、12/9、12/10、12/12、12/17と実に71回答にのぼる。このうち複数回答についてはそれぞれの日に割り当てているが、2月7日に関してはすべて複数回答にあたるため、今回凡例として2月7日と10月7日、2月7日と10月10日の凡例に振り分けた。したがって凡例は1/17、2/12、10/7、10/10、10/17、2/7と10/7、2/7と10/10の7例に毎月17日を加えた8例とした。ちなみに最も回答数の多かったのは、1月17日の93例である。そして凡例にあげたものは10回答以上のもので、前述したように2月7日とセットに10月7日と10月10日にあらためて割り振ったため、記号として表示されているものは10回答以下になっているものもある。

 

 まず1枚目の図てある。山の神の祭日を単純に表したもので、少し見づらいが昭和の市町村割りを示してみた。ほぼ奥信濃のみに2月12日が分布し、1月17日と月の17日という事例が北は信州新町から箕輪町と高遠町あたりまでに広範に分布し、東西の地域性は表れていない。10月17日という事例は北安曇を中心にしており、開田から伊那市といったラインから南に10月10日、ようはトオカンヤを祭日とした地域が分布する。そして木曽南部と飯田市より南に10月7日地域があるということになる。実は空白地帯もはっきりしており、長野市と西山地帯、上伊那南部から飯田市までの地域はほぼ記号が落ちていない。もちろん前述したように回答数が10例を越える地点だけ示しているため、祭日がないというわけではないが、地域性を示せるほど傾向のない地域と言えるのだろう。

 

 トオカンヤについてはこれまでにも「かつての祭りを振り返り③(平成4年11月4日)」にリンク付けした記事で何度となく触れている。それらに示した地図で上伊那地域にトオカンヤに「山の神をまつる」という事例が目立つことについて触れた。この日「山の神をまつる」というのは県内でもほぼ上伊那だけである(木曽に1例あり)。その際に利用したトオカンヤの行事に関するデータを今回の図に載せてみたのが2枚目の図である。市町村枠は邪魔なので消して示したが、行事の中でも事例数の少ないものは省いた。今回の図と同じような傾向がトオカンヤの行事にも地域性として表れていることがわかるだろう。トオカンヤの行事がない地域が10月7日祭日地帯と重なる。やはりトオカンヤと山の神信仰はなんらかの関係性があるのでは、と想像する。

続く

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