引き続き『長野県史民俗編』の調査資料の「祭り方」欄に書かれた項目から気になるものを拾ってみよう。
「小坂」(岡谷市湊)では「早朝ムラ人が柳の木で作った弓張りに矢2本あてそえて、山の神さまに供えてお詣りする。一張りを前に供え、人と交換して来て門口に飾っておく」という。人のものと「交換する」という例である。
「東高遠」(高遠町)では「この日は働かず休む。働くと身に災害をうける。ご馳走を腹いっぱい食べて休む」という。「〝山の神〟再考 ⑦」で5合米を集める話をした。長谷村非持の事例に「以前は米を持ちよって御飯をたき、御飯を大盛りにして食べ、食べきれないで泣きだした人もいたという」ものがあったように、山の神の祭りの日は「腹いっぱい食べる」という例は、高遠町周辺によく聞かれる例なのだろう。
「大島山」(高森町)では「山を守ってくれる神で、また田の神ともなるので、毎年耕作の始まる2月になると山の神が山から下りて田の神となり、耕作の終わった10月には、山へ還って山の神となる」といい、いわゆる冬は山の神、耕作期は田の神という二面性を表す事例である。
「小川」(根羽村)では「ヤマシ達はヨイヤマには、親方の家でゴヘイモチを焼いて食べ、一杯飲むのを楽しみにしていた。古くは何人かが組んで山の現場に入り、親方からの仕送りで現場の親方らを中心にヨイヤマにはゴヘイモチを焼いて食べたらしい。五平五合といって一升炊きの鍋で五平餅を2本の五平餅を作った」という。ここにも「5合」が登場する。山の神が味噌を好むという話は知られている。『日本の俗信』(井之口章次)の「山の神と味噌」によれば、「中部地方の山村で御幣餅といい、奥州でタンポヤキと呼んでいるものを、北関東の山村ではバンダイ餅という。赤城山北麓の村々では、今に古風な形を留めている。利根郡の旧赤城根村砂川では、杣の十二講と呼ばれる山の神祭の際、杣たちはふかした粳【うるち】米を板台【ばんだい】の上で、ヨキの鋒で磨りつぶし、それを長さ一尺幅一寸、厚さ三分位の串に固めつけ、囲炉裏で焼いて味噌をつけ、また焼いて山の神に供え、人もこれを食べている」(「山ノ神memo」より)という。下平加賀雄氏は「伊那の山の神」(『あしなか』120)において、「山仕事をする人たちが山の中で火を焚き、串に草鞋のように平たく握りつけた御飯に胡桃味噌をつけ、あぶってまず山の神に供え、それから仲間が頬ばったもので、これが「ごへい餅」のおこりらしい」と述べている。ここではいわゆる板御幣を言っているが「中郷」(上村)では「山で働くものたちが集まって山の神をまつる時は(不定期)祭りのあと串五平餅を作って酒を飲み会食」したという。ここでは串の五平である。
「嶺方」(白馬村)では「各戸トウローを持ち寄りトーロー揃えをしてお宮までお詣りにいった」という。北の県境地方に多いトーローヅレを山の神の祭りに行ったという例である。
「髭沢」(開田村)では「絵馬を木の枝に吊るして山の神を馬でお迎えする意味で農業の神となるので、山から下りてきてもらう」といい、「藤沢」(開田村)では「山の神は春は馬に乗って出雲へ行くと言うのでノリモチのほか絵馬を進ぜる」という。
続く
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