3月11日・・・
あれから約1年半が経って石巻市へ。
非冷房のDCに乗って窓全開で車窓を楽しむ。
仙石線は一部開通
震災後からずっと留置中の電車
石巻線は
前回来た時はここで終点だったけど
渡波まで開通していました。
駅前
良い天気
駅前の市役所分室
建物はやはりまだいたんだまま。
道路も一部修復済み
今日はトリコローレ音楽祭
街の数か所でライブが開かれていました。
商店街を進み
前回来た場所を観に行く予定
決して繁盛している状態では無い商店街
以前は炊き出しをしていた場所も今は元に戻り
北上川を渡る橋に到着
壊れたまま
商店街も壊れたまま
信号機は復活して点灯していますが
辺りは更地が目立ち
でこぼこ道路
倒壊した建物は
そのままの状態のものも多く
一部路面はかさ上げされ
再舗装され・・・。
神戸の時もそうでしたが
1年や2年では
街は復興しません。
三ノ宮のアーケード商店街が元に戻るまで
5年以上掛かったことを考えると
10年は復興できないかもしれません。
河口近くにやって来ました。
瓦礫の山が至る所に・・・
河口付近で気が付いたのですが
水面と道路の高さの位置が変です。
水面の方が上です。
海水が溢れたらこのあたりは冠水です。
鳥居が消えた神社もそのまま
先を進み
ひまわりが咲いているけど
陽の向きと違う方向を向いていました。
亡くなった人の弔い花か・・・
火災のあった学校もそのまま
石巻病院は健在
建物がいっぱいあったところが更地に
一部川になったまま
多くの魚が生息
更地の真ん中にぽつんと一軒家
廃墟です。
マンホールの位置を見ると
かなりの地盤沈下がそのまま。
日和大橋から
廃車になった車がそのまま
景色は
とてもきれい
防波堤が有ったのでしょうか
遠くに見える陸地も瓦礫の山が見えました。
対岸にも山・・・。
海はこんなにもきれいなのに
橋の真ん中
山側も
海側も
こんなに穏やかで綺麗なのに・・・
帰途に着きました。
橋を渡りきると
ぐちゃぐちゃのまま
街中がヘドロ臭い・・・。
5mはある瓦礫の山は
前回来た時となんら変わってなかった。
以前はどんな公園だったのだろう・・・。
想像もつかない・・・。
ふと振り返ると
青空は澄み渡り
でも公園側は
瓦礫と巨大土嚢と
バイクの山
住宅街も
野原に変わり
工場の柵も壁も
塀も
瓦礫が山積みだった以前の光景は
大半が更地や野原に変わり・・・
人の動きどころか
復興の気配すら見えませんでした。
失意の中
小牛田から東北線で盛岡に帰ることに・・・。
途中、石越駅で下車
夕焼けの中黄昏ました。
駅前の地図
栗原鉄道って???
閑散とした駅
乗り降りは私一人
そういえば
朝ごはんを食べてから食事を取って無かったので
駅弁を購入。
一ノ関駅からは新幹線
閑散とした駅で食事。
駅の待合室は約50分
誰もやって来ませんでした。
ホームの端っこの喫煙所まで歩くも誰にも会わず
本当に新幹線の駅なのか疑いたくなる。
一ノ関駅から乗車したのは
確認できたのは3人だけ。
10両編成で乗る人3人って・・・
乗った車両もほとんどが空席
おかげでのんびりできました。
車窓を眺めていると
時折見える明かりが目に飛びこみ
ふと石巻のことを思い出す。
きっと
この街の復興は
忘れさられることでしょう。
2年も経てば
被災地と関係のない遠い地域の人は
何も変わらないことに対し
“えっ?
東北地方って復興したはずでしょ”
そういう認識になる。
一時のブームのように・・・。
テレビで報道されていた震災関連の復興予算のゆくえ
減災関連事業も認められ
沖縄の海岸線道路の補修に使われ
岩手県の復興予算が増額補正できないと
報道されていました。
報道の内容がすべて正しいとは思いませんが
復興関連の予算は増税で賄われたはず。
特財であるはずなのに
いいように行政マンに使われている。
結局
人は自分に降りかかる災難しか親身になれないのでしょうか。
エゴイズム
それがこの世の常なら
変に災害予防や対策事業などでお金を掛けなくていいのでは・・・。
事が起これば
エゴが渦巻き嘆きの山と化す。
その時に対処すればいいのでは。
スーパー堤防を鑑みても
何をやっても中途半端。
余計なことはやめた方が良い。
それとも
そういったことがないと
公務員も
受注する業者も
関連団体もみな共存できないからか・・・。
ならば
テレビで怒りを煽る無駄という言葉は
実は世の常ということなのか。
なにが正しいのか
私にはわからない・・・。
。。。。
あれから約1年半が経って石巻市へ。
非冷房のDCに乗って窓全開で車窓を楽しむ。
仙石線は一部開通
震災後からずっと留置中の電車
石巻線は
前回来た時はここで終点だったけど
渡波まで開通していました。
駅前
良い天気
駅前の市役所分室
建物はやはりまだいたんだまま。
道路も一部修復済み
今日はトリコローレ音楽祭
街の数か所でライブが開かれていました。
商店街を進み
前回来た場所を観に行く予定
決して繁盛している状態では無い商店街
以前は炊き出しをしていた場所も今は元に戻り
北上川を渡る橋に到着
壊れたまま
商店街も壊れたまま
信号機は復活して点灯していますが
辺りは更地が目立ち
でこぼこ道路
倒壊した建物は
そのままの状態のものも多く
一部路面はかさ上げされ
再舗装され・・・。
神戸の時もそうでしたが
1年や2年では
街は復興しません。
三ノ宮のアーケード商店街が元に戻るまで
5年以上掛かったことを考えると
10年は復興できないかもしれません。
河口近くにやって来ました。
瓦礫の山が至る所に・・・
河口付近で気が付いたのですが
水面と道路の高さの位置が変です。
水面の方が上です。
海水が溢れたらこのあたりは冠水です。
鳥居が消えた神社もそのまま
先を進み
ひまわりが咲いているけど
陽の向きと違う方向を向いていました。
亡くなった人の弔い花か・・・
火災のあった学校もそのまま
石巻病院は健在
建物がいっぱいあったところが更地に
一部川になったまま
多くの魚が生息
更地の真ん中にぽつんと一軒家
廃墟です。
マンホールの位置を見ると
かなりの地盤沈下がそのまま。
日和大橋から
廃車になった車がそのまま
景色は
とてもきれい
防波堤が有ったのでしょうか
遠くに見える陸地も瓦礫の山が見えました。
対岸にも山・・・。
海はこんなにもきれいなのに
橋の真ん中
山側も
海側も
こんなに穏やかで綺麗なのに・・・
帰途に着きました。
橋を渡りきると
ぐちゃぐちゃのまま
街中がヘドロ臭い・・・。
5mはある瓦礫の山は
前回来た時となんら変わってなかった。
以前はどんな公園だったのだろう・・・。
想像もつかない・・・。
ふと振り返ると
青空は澄み渡り
でも公園側は
瓦礫と巨大土嚢と
バイクの山
住宅街も
野原に変わり
工場の柵も壁も
塀も
瓦礫が山積みだった以前の光景は
大半が更地や野原に変わり・・・
人の動きどころか
復興の気配すら見えませんでした。
失意の中
小牛田から東北線で盛岡に帰ることに・・・。
途中、石越駅で下車
夕焼けの中黄昏ました。
駅前の地図
栗原鉄道って???
閑散とした駅
乗り降りは私一人
そういえば
朝ごはんを食べてから食事を取って無かったので
駅弁を購入。
一ノ関駅からは新幹線
閑散とした駅で食事。
駅の待合室は約50分
誰もやって来ませんでした。
ホームの端っこの喫煙所まで歩くも誰にも会わず
本当に新幹線の駅なのか疑いたくなる。
一ノ関駅から乗車したのは
確認できたのは3人だけ。
10両編成で乗る人3人って・・・
乗った車両もほとんどが空席
おかげでのんびりできました。
車窓を眺めていると
時折見える明かりが目に飛びこみ
ふと石巻のことを思い出す。
きっと
この街の復興は
忘れさられることでしょう。
2年も経てば
被災地と関係のない遠い地域の人は
何も変わらないことに対し
“えっ?
東北地方って復興したはずでしょ”
そういう認識になる。
一時のブームのように・・・。
テレビで報道されていた震災関連の復興予算のゆくえ
減災関連事業も認められ
沖縄の海岸線道路の補修に使われ
岩手県の復興予算が増額補正できないと
報道されていました。
報道の内容がすべて正しいとは思いませんが
復興関連の予算は増税で賄われたはず。
特財であるはずなのに
いいように行政マンに使われている。
結局
人は自分に降りかかる災難しか親身になれないのでしょうか。
エゴイズム
それがこの世の常なら
変に災害予防や対策事業などでお金を掛けなくていいのでは・・・。
事が起これば
エゴが渦巻き嘆きの山と化す。
その時に対処すればいいのでは。
スーパー堤防を鑑みても
何をやっても中途半端。
余計なことはやめた方が良い。
それとも
そういったことがないと
公務員も
受注する業者も
関連団体もみな共存できないからか・・・。
ならば
テレビで怒りを煽る無駄という言葉は
実は世の常ということなのか。
なにが正しいのか
私にはわからない・・・。
。。。。