新聞や雑誌、報道番組を観ていて
事件発覚後から
大阪の体罰自殺問題が
大きく取り上げられています。
最近では
大阪市長が
「教育の現場の職員入れ替え」や
「新入生の受け入れを中止する」など
変革がなされないなら
議決後の予算を含めて
今後
予算執行できないようにするとまで
発言する事態になっています。
このことを受け
ネットニュースでは結構な否定的見解が多く
在校生の保護者や弁護士など
市長発言は行き過ぎと
独善的で横暴だとしています。
私は
あくまで個人的見解ですが・・・
市長の発言は正しいと思います。
あくまで
雑誌などの記事を総合して
私なりの解釈に基づいて判断していることです。
ところで、
私がその判断を下す前に
ある一つのことを
考慮したことを記しておきます。
それは、
桜ノ宮の高校に限らず
ここで問題の契機になっている“体罰”は
どこにでも存在するということです。
指導の名のもとどこにでも存在する。
で
以前から体罰は行われ常態化している。
常態化しいているがゆえに
他の生徒は、
それを見ても“指導”と認識する。
心の奥底では
どこかおかしいと思う心が存在するのに
それを考えることは
「周りの人と違う意見だからやめておこう」
と認識してしまってその感情を抑え込もうとする。
勝敗優先の強い体育会系なら
尚更です。
勝つことで
体罰は体罰でなくなり
一部の生徒にとっては
“理不尽な痛み”が
“勝つための厳しさ”
に記憶がすり替えられるから。
勝利を得た生徒は、
過去を振り返るとき・・・
「あの指導のおかげで勝てた」と美化され
体罰ではなく“愛の鞭”であり
厳しい指導だったという風になる。
はたしてそれが賢明な考え方なのだろうか。
生徒には
多くの沈黙した“その他大勢”が存在するはずです。
生徒は
一部の勝利を得た生徒だけではない。
スポーツ学校の部活は
レギュラーより控えの方が圧倒的に多い。
生徒の中には
体罰を直接受けるだけでなく
間接的に受ける場合もあっただろうし、
視覚から受ける場合もあっただろう。
それに耐えられず
自己防衛本能から
退避行動に出てしまった人も多くいたであろう。
数はわかりません。
それらの生徒の特徴は、みな沈黙することだ。
第三者的立場の人はこれを「意見なし」とみなす。
だからといって
「沈黙=意見がない」
と決めつけるのは、
これがすべての生徒の見解とすることに対し
少々私見との相違があります。
ここで
日本の社会風習の事を考えてみると
日本の一般的な風潮は
目上の人に刃向うことはご法度とされています。
指導者と生徒という関係なら尚更です。
体罰を見兼ねて
実力を発揮できないまま
消えていった生徒・・・
沈黙したまま去って行った・・・
多く存在することでしょう。
大リーグの鈴木イチロー選手のように
誰もが
逆境に負けず能力を発揮できるわけではないのです。
新人時代、
土井監督に
振り子打法をやめないなら一軍では使わんと言われ
彼には合わない指導を強要されても
彼は不遇を受けたものの意志を貫き通した。
やがて
実力を認めてくれる仰木監督時代まで
二軍で耐えた。
でもこのことは例外中の例外で
普通は指導者に従ってしまう。
“長いものに巻かれてしまう”
それが普通だと思う。
ここから
桜ノ宮の高校に話を持って行く・・・。
この高校では
自殺者が出るくらいだから
すさんだ学校の雰囲気があったと
私は思います。
なぜなら
体罰が日常茶飯事で起こっているクラブなら
罵声が日々響き渡っていることは想像に難くない。
自分自身の経験上
こういう指導者の罵声は
人格否定発言なども常態化しているだろうし
雰囲気は最悪だったと思う。
それでも
なお
部活として成り立っていたのは、
勝負事には
「勝つためには断固とした厳しさが必要」
という至上命題が存在し
それが麻薬のごとく関わる人全員に浸透し
人間的な感覚をマヒさせる部分があったから。
このことを改善するには
以前のような指導者では
絶対に不可能です。
人間は、
自分の価値観と信念に基づき行動していた場合、
それが勝負の世界になると
勝つことで“自分の正しさ”が証明された・・・
そう思う傾向にある・・・。
そして
その積み重ねが続くと
「証明された正しい自分自身」を
否定することも
顧みることも無くなってしまう。
こうなってしまった人間が
いくら意識改革するだの、
反省しているなど
表面上発言したとしても
根本は絶対変わらない。
例えば
受刑者が刑を終えて出てきた場合を考えてください。
表面上
多くの人たちは、
「刑が終われば償いが終わり普通の人間に戻る」
と言いますが、
前科者のレッテルを張り
どこか犯罪者扱いする気持ちは変わらないのでは・・・?
刑を終えた人が
刑務所でまじめに服役し刑を終えて出てきても、
アンラッキーで捕まり服役し
出所したらまたやろうと考えている人殺しを趣味にしている凶悪犯も、
正当防衛が行き過ぎ過剰防衛になってしまった人も、
多くの人たちは、
「前科者」と一区切りにして認識し
その人がなぜ「その罪」を犯してしまったのか
「その罪」のことを考えることはない。
多くの人たちは
「普通の人とは違う」
それで思考が止まってしまう・・・。
指導者にもいろんな人がいるでしょうが
自分の証明された正当性を
根本から見直す人はいない。
上記のように
多くの人たちは
前科者のその罪を顧みないのと同様に、
多くの指導者は、
その証明された正当性を
顧みることはない。
また、指導者には他のタイプもあって
「熱心過ぎてこうなってしまった」
「飴と鞭が指導の基本」
と考える人もいる。
この手は
厳しく管理し統制することが
指導と考える人たちです。
しかし、
厳しく統制することは
実は
指導者の指導力のなさを
武力の恐怖で服従させ管理することで
補っているだけ
単に「自己の無能」を隠しているに過ぎない。
私はそう思う。
話が尽きないので
沈黙の話の戻すと・・・。
こういったマスコミに騒がれる事件では
上からの命令で謝罪する教師や教育委員会の人たちが、
防衛本能などから消えていった多くの生徒の「沈黙」に触れることはない。
学校の部活動は、
多くの沈黙するその他大勢で構成され
多くの「犠牲の上」に
多くの「我慢の上」に成り立っているはずなのに・・・。
支えられているはずなのに・・・。
振り返ると
事実、
桜ノ宮高校では自殺者が出た。
江戸時代ならば、
主君に対し「諌めるという抗議行動」
“切腹”に出たのかもしれない。
誰もが考えねばならない大きな問題の契機になった。
これまで通り
勝負事の麻薬作用のある“勝つ”ことを至上にうたうのか
当面は反省色を表面に出し
今までのやり方で指導を踏襲するのか
世間が忘れるのを待つのか
いずれにせよ全員でみなの問題として
当事者とし考えることをしなければ
お年寄りのエライさんは保身が優先され
今までと何も変わらないでしょう。
親もしかりです。
そうすれば
いずれまた同じ問題に直面するでしょう。
この問題が起こったことは
学校全体の責任ととらえなければいけない。
今回のことは
一部の生徒の
衝動的飲酒運転や泥棒とは違う。
今、そこにある生身の生徒が指導されている教育の現場
学校という現場全体に占める“教育と指導”が
下から諌める“諫言”という形で噴出したからです。
バレー部やバスケ部だけでなく
他の部にもそういったことはあったはずです。
叩かれて
たまたま
打ち所が良くて死ななかっただけではないでしょうか。
自分がその立場になって
指導者から叩かれて
顔がはれて
それでもクラブが好きだから続けて
また叩かれて・・・
自分がそうなってたかもしれないわけで・・・。
そうなったとき
どうして誰も助けてくれないのだろうと真剣に考える・・・。
それでいいのでしょうか。
被害者になった時だけ考えるだけでいいのでしょうか。
本題に戻ると・・・、
今回のことで
橋下市長が主張することが間違いで
親や弁護士の言うことが正しいとは
どうしても思えない。
「新入生の受け入れに影響が出ることは避けなければならない」
「指導者を一掃しなければ予算執行をさせないなど
市長の横暴に過ぎない違法行為だ」
本当にそうか?
ここで完全に改革しないと永久に改革はない。
桜ノ宮高校は新生されるべきだと思います。
既存の生徒も責任を感じ
当事者として
真摯にこの問題を受け入れるべきです。
考えるべきです。
同じ高校の生徒だったんだから・・・。
よく言われる問題
「既存の生徒の進路はどうなるのか」
彼らには何の責任もないと。
彼らの進路に悪影響が出ると・・・。
果たして本当にそうか?
もっともらしい言い逃れを正当化して
考えることから逃げさしていいのか。
すべての生徒が当事者になっていたかもしれない
大問題だぞ・・・。
ここで
既存の生徒の立場とか
今後の進路とかを取り上げる大人は
本当に既得権益しか見えない
浅はかな間抜けとしか言いようがない。
こういった輩が大人になるから
今の社会があるのではないか。
日本人に生まれたのに
その生まれに誇りを持たない人が多く存在したり
同じ国民なのに
口先だけの絆をうたい放射能の名のもと
被災者を差別したり
一部だけの県民が
戦後の日本の復興の犠牲になっているのに
辺境地だからか
誰も深い関心を抱かなかったり
人間として
社会を形成する人間として
現代の高度文明に生きる人間として
国や社会といった組織のいち構成員としての
義務であったり常識であったり
そういった部分を育む機会を
潰して行っていることに
なぜ気が付かないのだろうか。
新入生の進路など今からでも変更できる
いくらでも選択肢がある。
考えることが面倒なだけだろ。
ゆとり世代の教育方針を
日本国民として
受け入れなければならなかった世代のことを考えれば
選択肢がある分天国だろう。
考えない方法を身に着けさせ
どうして是とされる。
国民として
全体の問題として
とらえることのできる習慣を身に着けさせることも
大きな教育ではないでしょうか。
日本の
国としての問題としてとらえることができる能力が
習慣として備わっていれば
もう少し違った形の社会になっていたのかもしれません。
“私ひとりが何をしても社会は変わらない”
という言葉・・・
社会全体を支配する無力感の根底に流れていることば
日本独特のもの・・・。
自分を社会の構成員の一人と認識し
諸問題を真摯に考える能力が習慣で備わっていれば
そんな流れはなかったのかもしれません。
橋下氏のきつい発言は
こういった風潮を変えようとしてのものではないでしょうか。
だから頑張ってほしいのです。
。。。。
事件発覚後から
大阪の体罰自殺問題が
大きく取り上げられています。
最近では
大阪市長が
「教育の現場の職員入れ替え」や
「新入生の受け入れを中止する」など
変革がなされないなら
議決後の予算を含めて
今後
予算執行できないようにするとまで
発言する事態になっています。
このことを受け
ネットニュースでは結構な否定的見解が多く
在校生の保護者や弁護士など
市長発言は行き過ぎと
独善的で横暴だとしています。
私は
あくまで個人的見解ですが・・・
市長の発言は正しいと思います。
あくまで
雑誌などの記事を総合して
私なりの解釈に基づいて判断していることです。
ところで、
私がその判断を下す前に
ある一つのことを
考慮したことを記しておきます。
それは、
桜ノ宮の高校に限らず
ここで問題の契機になっている“体罰”は
どこにでも存在するということです。
指導の名のもとどこにでも存在する。
で
以前から体罰は行われ常態化している。
常態化しいているがゆえに
他の生徒は、
それを見ても“指導”と認識する。
心の奥底では
どこかおかしいと思う心が存在するのに
それを考えることは
「周りの人と違う意見だからやめておこう」
と認識してしまってその感情を抑え込もうとする。
勝敗優先の強い体育会系なら
尚更です。
勝つことで
体罰は体罰でなくなり
一部の生徒にとっては
“理不尽な痛み”が
“勝つための厳しさ”
に記憶がすり替えられるから。
勝利を得た生徒は、
過去を振り返るとき・・・
「あの指導のおかげで勝てた」と美化され
体罰ではなく“愛の鞭”であり
厳しい指導だったという風になる。
はたしてそれが賢明な考え方なのだろうか。
生徒には
多くの沈黙した“その他大勢”が存在するはずです。
生徒は
一部の勝利を得た生徒だけではない。
スポーツ学校の部活は
レギュラーより控えの方が圧倒的に多い。
生徒の中には
体罰を直接受けるだけでなく
間接的に受ける場合もあっただろうし、
視覚から受ける場合もあっただろう。
それに耐えられず
自己防衛本能から
退避行動に出てしまった人も多くいたであろう。
数はわかりません。
それらの生徒の特徴は、みな沈黙することだ。
第三者的立場の人はこれを「意見なし」とみなす。
だからといって
「沈黙=意見がない」
と決めつけるのは、
これがすべての生徒の見解とすることに対し
少々私見との相違があります。
ここで
日本の社会風習の事を考えてみると
日本の一般的な風潮は
目上の人に刃向うことはご法度とされています。
指導者と生徒という関係なら尚更です。
体罰を見兼ねて
実力を発揮できないまま
消えていった生徒・・・
沈黙したまま去って行った・・・
多く存在することでしょう。
大リーグの鈴木イチロー選手のように
誰もが
逆境に負けず能力を発揮できるわけではないのです。
新人時代、
土井監督に
振り子打法をやめないなら一軍では使わんと言われ
彼には合わない指導を強要されても
彼は不遇を受けたものの意志を貫き通した。
やがて
実力を認めてくれる仰木監督時代まで
二軍で耐えた。
でもこのことは例外中の例外で
普通は指導者に従ってしまう。
“長いものに巻かれてしまう”
それが普通だと思う。
ここから
桜ノ宮の高校に話を持って行く・・・。
この高校では
自殺者が出るくらいだから
すさんだ学校の雰囲気があったと
私は思います。
なぜなら
体罰が日常茶飯事で起こっているクラブなら
罵声が日々響き渡っていることは想像に難くない。
自分自身の経験上
こういう指導者の罵声は
人格否定発言なども常態化しているだろうし
雰囲気は最悪だったと思う。
それでも
なお
部活として成り立っていたのは、
勝負事には
「勝つためには断固とした厳しさが必要」
という至上命題が存在し
それが麻薬のごとく関わる人全員に浸透し
人間的な感覚をマヒさせる部分があったから。
このことを改善するには
以前のような指導者では
絶対に不可能です。
人間は、
自分の価値観と信念に基づき行動していた場合、
それが勝負の世界になると
勝つことで“自分の正しさ”が証明された・・・
そう思う傾向にある・・・。
そして
その積み重ねが続くと
「証明された正しい自分自身」を
否定することも
顧みることも無くなってしまう。
こうなってしまった人間が
いくら意識改革するだの、
反省しているなど
表面上発言したとしても
根本は絶対変わらない。
例えば
受刑者が刑を終えて出てきた場合を考えてください。
表面上
多くの人たちは、
「刑が終われば償いが終わり普通の人間に戻る」
と言いますが、
前科者のレッテルを張り
どこか犯罪者扱いする気持ちは変わらないのでは・・・?
刑を終えた人が
刑務所でまじめに服役し刑を終えて出てきても、
アンラッキーで捕まり服役し
出所したらまたやろうと考えている人殺しを趣味にしている凶悪犯も、
正当防衛が行き過ぎ過剰防衛になってしまった人も、
多くの人たちは、
「前科者」と一区切りにして認識し
その人がなぜ「その罪」を犯してしまったのか
「その罪」のことを考えることはない。
多くの人たちは
「普通の人とは違う」
それで思考が止まってしまう・・・。
指導者にもいろんな人がいるでしょうが
自分の証明された正当性を
根本から見直す人はいない。
上記のように
多くの人たちは
前科者のその罪を顧みないのと同様に、
多くの指導者は、
その証明された正当性を
顧みることはない。
また、指導者には他のタイプもあって
「熱心過ぎてこうなってしまった」
「飴と鞭が指導の基本」
と考える人もいる。
この手は
厳しく管理し統制することが
指導と考える人たちです。
しかし、
厳しく統制することは
実は
指導者の指導力のなさを
武力の恐怖で服従させ管理することで
補っているだけ
単に「自己の無能」を隠しているに過ぎない。
私はそう思う。
話が尽きないので
沈黙の話の戻すと・・・。
こういったマスコミに騒がれる事件では
上からの命令で謝罪する教師や教育委員会の人たちが、
防衛本能などから消えていった多くの生徒の「沈黙」に触れることはない。
学校の部活動は、
多くの沈黙するその他大勢で構成され
多くの「犠牲の上」に
多くの「我慢の上」に成り立っているはずなのに・・・。
支えられているはずなのに・・・。
振り返ると
事実、
桜ノ宮高校では自殺者が出た。
江戸時代ならば、
主君に対し「諌めるという抗議行動」
“切腹”に出たのかもしれない。
誰もが考えねばならない大きな問題の契機になった。
これまで通り
勝負事の麻薬作用のある“勝つ”ことを至上にうたうのか
当面は反省色を表面に出し
今までのやり方で指導を踏襲するのか
世間が忘れるのを待つのか
いずれにせよ全員でみなの問題として
当事者とし考えることをしなければ
お年寄りのエライさんは保身が優先され
今までと何も変わらないでしょう。
親もしかりです。
そうすれば
いずれまた同じ問題に直面するでしょう。
この問題が起こったことは
学校全体の責任ととらえなければいけない。
今回のことは
一部の生徒の
衝動的飲酒運転や泥棒とは違う。
今、そこにある生身の生徒が指導されている教育の現場
学校という現場全体に占める“教育と指導”が
下から諌める“諫言”という形で噴出したからです。
バレー部やバスケ部だけでなく
他の部にもそういったことはあったはずです。
叩かれて
たまたま
打ち所が良くて死ななかっただけではないでしょうか。
自分がその立場になって
指導者から叩かれて
顔がはれて
それでもクラブが好きだから続けて
また叩かれて・・・
自分がそうなってたかもしれないわけで・・・。
そうなったとき
どうして誰も助けてくれないのだろうと真剣に考える・・・。
それでいいのでしょうか。
被害者になった時だけ考えるだけでいいのでしょうか。
本題に戻ると・・・、
今回のことで
橋下市長が主張することが間違いで
親や弁護士の言うことが正しいとは
どうしても思えない。
「新入生の受け入れに影響が出ることは避けなければならない」
「指導者を一掃しなければ予算執行をさせないなど
市長の横暴に過ぎない違法行為だ」
本当にそうか?
ここで完全に改革しないと永久に改革はない。
桜ノ宮高校は新生されるべきだと思います。
既存の生徒も責任を感じ
当事者として
真摯にこの問題を受け入れるべきです。
考えるべきです。
同じ高校の生徒だったんだから・・・。
よく言われる問題
「既存の生徒の進路はどうなるのか」
彼らには何の責任もないと。
彼らの進路に悪影響が出ると・・・。
果たして本当にそうか?
もっともらしい言い逃れを正当化して
考えることから逃げさしていいのか。
すべての生徒が当事者になっていたかもしれない
大問題だぞ・・・。
ここで
既存の生徒の立場とか
今後の進路とかを取り上げる大人は
本当に既得権益しか見えない
浅はかな間抜けとしか言いようがない。
こういった輩が大人になるから
今の社会があるのではないか。
日本人に生まれたのに
その生まれに誇りを持たない人が多く存在したり
同じ国民なのに
口先だけの絆をうたい放射能の名のもと
被災者を差別したり
一部だけの県民が
戦後の日本の復興の犠牲になっているのに
辺境地だからか
誰も深い関心を抱かなかったり
人間として
社会を形成する人間として
現代の高度文明に生きる人間として
国や社会といった組織のいち構成員としての
義務であったり常識であったり
そういった部分を育む機会を
潰して行っていることに
なぜ気が付かないのだろうか。
新入生の進路など今からでも変更できる
いくらでも選択肢がある。
考えることが面倒なだけだろ。
ゆとり世代の教育方針を
日本国民として
受け入れなければならなかった世代のことを考えれば
選択肢がある分天国だろう。
考えない方法を身に着けさせ
どうして是とされる。
国民として
全体の問題として
とらえることのできる習慣を身に着けさせることも
大きな教育ではないでしょうか。
日本の
国としての問題としてとらえることができる能力が
習慣として備わっていれば
もう少し違った形の社会になっていたのかもしれません。
“私ひとりが何をしても社会は変わらない”
という言葉・・・
社会全体を支配する無力感の根底に流れていることば
日本独特のもの・・・。
自分を社会の構成員の一人と認識し
諸問題を真摯に考える能力が習慣で備わっていれば
そんな流れはなかったのかもしれません。
橋下氏のきつい発言は
こういった風潮を変えようとしてのものではないでしょうか。
だから頑張ってほしいのです。
。。。。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます