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詩と物語を紡ぎます

今朝の月

2017-07-13 18:30:00 | poem



午前四時五十二分の空に浮かぶ月は、月齢十九の痩せた身体で、朝に漂っている。


決心は、ついた。





東には燃え始めの朝が、熱く赤く、灼けていた。


新たな、始まりの日。



written:2017.07.13.


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小暑七夕十三夜

2017-07-13 18:25:00 | uta
       小暑七夕十三夜





     小暑



戦慄の入り乱れたる青と白狂熱の宙《そら》牙剥きし夏


玉の汗浮かびし白き柔肌の夢見る夏の甘き徒花


風に舞い騒ぐ血潮のLibidoは少年少女の『奇妙な果実』




     七夕



夢踊る童子童女の綴りたる短冊抱きて揺るる笹の葉


ただひと日牽牛織女は河を越ゆ白く燃えませアルタイル・ベガ


今日の日をはしゃぎ過ごせし幼子の無垢な寝顔にパパママのKiss



     十三夜



地に沿うて夕べ照らせり十三夜恋に惑いし男女知らねど


本能は斯くあり肉欲性愛の父母結びたる果ての我が身よ


PositiveのNegative見下す愚かしさ支配の甘き蜜に呆けて





天駆ける歌姫我を撃ち給う『舞姫と月』Blackmore's Night




written:2017.07.06.〜07.
rewritten:2017.07.20.


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天の河

2017-07-13 18:20:00 | poem
       天の河



 お孫さんがお生まれとお聞きしました。
     おめでとうございます。

    妻が鼻唄混じりに選んだ、
  ベビー服のセットを差し出す私に、

   二十年近い付き合いの夫妻は、
  示し合わせた様に顔を見合わせて、
     照れた笑みを浮かべ、
       語りだした。



    去年の今頃、今夜のような、
     しとしと雨の夜でした。
     蒸し蒸し閨の寝苦しく、
     ひと時風を通そうと、
    雨戸を開けた隙でしょうか?、
     蚊帳を潜った僅かな隙に、
     忍び入ったのでしょうか。



       何時の間にか、
     螢が二匹、蚊帳の中、
     ほんのり青く明滅し、
     呼び合うように明滅し、



        宵の雨、
       舞いて誘う、
        思い出は、

        今尚新た、
       鮮やかにあり、



待ち伏せの文、約束の、
       夜更け抜け出し、ふたりきり、
火照った柔い、手を引いて、
        引き寄せる手の、優しくて、
何時しか雨の、はらはらと、
        それは見る間に、本降りに、
渡る畦道、くぐる雨、
           雨に隠れた、天の河、
鎮守の杜を、越えた沢、
        呼吸弾ませて、駆け抜けた、



      こんなに濡れて。
     いいの、かまわない。



   (誓う星、雨に隠れし、七夕に)
    (君誓いませ、我が胸に今)



木陰に拭った、濡れた髪、
          肌から剥がす、濡れ衣、



  (この場所に、幼き恋を、誓いたり)
   (此処に捧げん、我が身も心も)



闇に浮かんだ、白い肌、
         もう帰らない、傍に来て、



(燃える想いに、抱き締めた)
        (熱い想いに、しがみつき)

(甘く吸い付き、香る肌)
          (甘く切ない、夢叶い)


(好きだ)           (好きよ)


     ひとつの想い、確かめた。


愛しい君を、離さない、
         慕ってました、離れない。
ふたつ身ひとつ、離さない、
         夜が明けても、離れない。
許されずとも、離さない。
        死んでもいいの、離れない。


(もう絶対に、離さない)
        (何があっても、離れない)



     結ぶ思いを繰り返し、
     誓い唱える肌重ね、
     蕭蕭と降る雨の中、
     沢の辺りに結ばれん。



     思い遂げたる純情の、
    ふたりでひとつ、身と心、
    祈りを込めて、入る沢に、
     夫婦の禊ぎ、清き水。


       その刹那、


螢が二匹、舞い飛んで、
       纏わり付くよう、舞い飛んで、
沢に浸した身を寄せて、
       手を取り合って見惚れました、


      誓いを照らした、


青、だった。         青、でした。


その明滅に誘われて、
         手に手を取って頬寄せた。


すると、幾十、幾百もの、
螢の群れが、一斉に立ち昇り、
私たちを取り囲み、

          思わず身を寄せたまま、
          立ち上がった私たちを、
             祝福するように、

      煌々と青い明滅が、
      ふたりを照らし、
      誘ったのでした。



(ああ、天の河だ)   (そう、天の河ね)
(結ぼう)           (結んで)
(一緒だ)           (一緒よ)

(ずっと君と)     (ずっとあなたと)



その時のことを、      思い出したら、



     と夫妻は席を立ち、
   奥から赤ちゃんを抱いてきた。



            初孫よりも年下の、
            恥かきっ子ですが。

益々長生きしないことには。



   と夫妻は眼と眼で笑い合った。




written:2017.07.04.〜07.


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約束の地

2017-07-13 18:15:00 | poem
       約束の地



     遺跡


 半分、沙に埋もれた、無機質な遺跡は、
 乾ききっており、墓石めいてすらいるのだが、
 むしろ、湿潤な森に喩えるべきなのだろう。

 此処にも時に雨が降り、その時は、
 流石に私にも、濡れる身体があって、
 渇いていたことを、思い知らされた。

 それが、転機だったのだ、認識の。
 飛んで見渡すのと、這って見上げるのとでは、
 見えるものは形を変える、ものだと。

 多少の異論はあろうが、概ねは、
 『Erōs』に彩られた『生』と『死』の痕跡が、
 濃厚であることは、明白と言うべきだろう。

 もう一億年前に隆盛を極めた、あの伝説の、
 Homo sapiensが群れ暮らした、森である、
 かつて『都会』と呼ばれた、此の場所に。

 老教授は、その研究人生の殆どを捧げた、
 遺跡と化石の発掘現場を振り返り、呟いた。
 「我が人生の、Pliocene coast」



     Legion


 イエスが、
 「名は何というか」とお尋ねになると、
 「レギオン」と言った。
 たくさんの悪霊が
 この男に入っていたからである。

                新約聖書
          「ルカによる福音書」
              第八章三十節



 砂。
 辺り一面、砂なのだ。
 砂の大気に、砂の波が打ち寄せる、砂の地だ。

 仄かに顔を覗かせる、墓石めいたモノ、
 蜃気楼に建ち並ぶ、街を行き交う、
 人影もまた砂で、だから感じないに違いない。


 昼は六千度の太陽に灼かれ、
 夜は絶対零度の月に凍てる、
 砂、砂、砂の、世界を。


 俺たちは、
              追い遣られた。


 かつて、
 生あった頃の胸に、
 刺さったままの、
 ナイフの柄から、

 血の成れの果てらしきものが、

 一欠片、
 こぼれ落ちる、夢、


 夢?


 俺は情婦に殺されて、
 名前までをも奪われて、
 二千の欠片に砕かれて

 Legion《悪霊》の烙印を押された。


 ああ、神よ、
 おお、神の子よ、
 俺は、


 千々と砕かれて、名も無き欠片故に、
 寄せ集めに『大勢』なるが故に、

       Legion

 と名乗るより他なかった俺『たち』は、

 真実の語られぬまま、湖の畔を追われ、


 今、
 砂漠《ここ》に、いる。


 欺瞞と嫉妬と悪意と嫌悪が、
 嵐と吹き荒れて、

 隠れた井戸もない、
 これっぽっちも美しくない、


 あなた方の、授け給うた、この、

 約束の地《砂漠》、に!




written:2017.05.31.〜07.04.

 
**

野の小バラ

2017-07-13 18:10:00 | tale
       野の小バラ



 この夏、僕は個人的にも社会的にも、――つまり人生上において、極めて特異で感慨深い体験をした。

 これから記す文章は、その事象・経緯・顛末を、僕の個人的記録として残すものである。だから、一般に向けて発表する予定も意志もない。だが、万一のことを考慮し、地域名、施設名、個人名は伏せた形を採ることとした。また、一部事象において不適切な表現が紡がれることになると思われるが、それは単に筆者、即ち僕の文章力の不足に由ることを明記しておく。

 二〇一六年八月某日
 筆者記す


********************


 ……わたしは、卑劣な人間、なの、です……。

と、病み老いたその人は、苦し気な呼吸の下、突然僕に語り始めた。
 彼は末期癌患者であり、幾つかの臓器に転移もみられ、余命幾許もないと目されていた。事務方に由ると血縁者とは全て死別しており、見舞いに訪れる友人等もいない。そのせいもあるのか、彼はひどく無口で、病棟のスタッフの誰とも親しく語ろうとしなかった。ペインコントロールを受けてはいるものの、苦痛を訴えることさえ拒んでいる節があり、目の離せない患者だった。
 ……この人は、何か苦行でも自らに課しているのではないか、と、僕は彼に感じていた。そんな人が、突然自らの意思で語りはじめたのだ。

 ……私は、欺瞞に、……満ちた、……卑怯、極まり……ない、……人間……、なの、です……。

 窓の外には、入道雲を湛えた青い夏空が広がっていた。それには目を向けず、彼は枕元に置かれた、数少ない持ち物である、古びた文庫本とノートを見つめていた。僕は、彼とコミュニケーションを試みられる、稀な機会かと思い、思いきって彼の名前を呼んでみた。

 ――さん?

 ……私は、あなたに、告げなければ、ならない……。時刻は、来たのです……。


 しかし彼は、僕の呼び掛けなど聞こえていないかのように、目も顔も僕に向けず、……独り言でも呟くように、低く掠れた声で、語り始めた。


 ……六〇年以上、昔の、ことです。
 ……私は、恋を、しました。


********************


 当時、私は文科の大学生で、目当ての相手は、学校のほど近くにあった大衆食堂で働く娘、でした。彼女は、よく客商売が務まるなと思われるほど、愛想はありませんでしたが、痩せた体躯をよく動かして、生真面目に働く、……そう、野に咲く花のような、素朴で清楚な美しさを湛えた娘、でした。私は彼女目当てに、大して旨い訳でもないその店に、毎日のように、飯を喰いに行ったものです……。


 ある日の遅い午後、でした。店の脇の路地で、本を読んでいる彼女を見かけました。休憩時間だったのでしょう。
 私には、千載一遇の機会だと思われました。思いきって、声をかけたのです。彼女は、自分がひどく場違いな場所にいるかのような、狼狽した表情で私を見上げ、汚れたエプロンを叩きながら立ち上がり、おどおどと俯きました。手にした本を見ると、文庫のゲーテ詩集でした。ゲーテが好きなの?と尋ねると、俯いたまま頷きます。ゲーテなら私も読み込んでいましたから、私は、ここぞとばかり、あの有名な詩句を諳じていました。

 わらべは見つけた、小バラの咲くを、
 野に咲く小バラ。

 彼女は、珍しいものを見るかのように、私を見つめていました。しばらくの沈黙の後、彼女の口からか細い声が漏れました。

 若く目ざめる美しさ、
 近く見ようとかけよって、
 心うれしくながめたり。

 そこからは、私も声を合わせました。

 小バラよ、小バラよ、あかい小バラよ、
 野に咲く小バラ。

 ……少しの間、見つめ合いました。彼女の顔はみるみる上気し、熱を帯びていきました。彼女は、慌てふためいたようにお辞儀をして、店の中に駆け込んだのでした。

 これがきっかけで、程なく私は彼女と打ち解け、青い交際をするようになったのです……。


 それから、半年ほど過ぎた夏でした。
 私たちは、映画を見たり、喫茶店で語り合ったり、場末の酒場で呑んだり、といった交際を続けていました。
 彼女は、私のことを知りたがる反面、自分のことは殆ど語りませんでした。戦争孤児で、私より二歳年上、なことの他は、何も知らなかったのです。戦争の爪痕は薄らぎはじめていたとは言え、それでもなお、人々の胸に傷が深く刻まれていた時代です。思い出したくないこと、語りたくないことが、彼女にもあるのだ、と私は察していました。

 私は彼女を愛していました。彼女が欲しいと熱望していました。彼女との生活を夢見ていました。

 しかしそれらは、……手前味噌な、自己欺瞞に過ぎなかった! と言うべきでしょう……。
 その夜、私は初めて自分の下宿に彼女を招きました。酒が入っていたことが、私を大胆にさせていました。彼女は、こちらが拍子抜けするほどあっさりと、誘いを受け入れ付いてきました。汚なく散らかった、男独り住まいの部屋を見ても、あらあらまあ、と笑ったに過ぎませんでした。
 安酒場での話の続きはすぐに尽き、沈黙が続き、私たちはもじもじし続けていました。逡巡を重ね、私は意を決しました。彼女ににじり寄り、抱きすくめたのです。彼女は、何の抵抗もなくすぐに私に身を任せてきました。

 愛してる……!

 私は囁いて、無器用に唇を重ねました。……初めての口付けでした。ぎこちなく唇を啄んでいると、彼女は意外にも馴れた素振りで吸い返し、舌を絡めてきたのです。きつくしがみついてくる彼女の、女性ならではの柔らかな感触に、私はどっと熱いものが全身を巡っていくのを感じていました。

 どちらからともなく、私と彼女は抱き合ったままに畳に横たわりました。吸い付き合う唇が、息継ぎするように離れる瞬間……彼女は譫言のように囁いていました。

 ……電灯を、消して、……消して。

 彼女は懇願していました。しかし、その願いを聴くには、私はあまりにもうぶで、あまりにも興奮しきっていました。 生まれて初めて接する、愛しい彼女の、産まれたままの姿をこの眼に焼き付けたくてたまらなかったのです。
 私は電灯を消すことなく、彼女の身体からワンピースを剥ぎ取り、上半身から下着を引き剥がしかけていました。

 不意に異質で、歪な手触りが掌に走り、私を戸惑わせました。滑らかな感覚の想像に反し、肩から背中へと続く、凹凸の起伏生々しい感触が、抱き締めた掌一杯に広がって消えようとしません。半裸の彼女は、興奮に上気した表情で、何か開き直ったように、私を大胆に見上げていました。抱き留めてはいるけれども、それ以上何も出来ない私は言葉もなく、彼女の上で四肢をジタバタさせていたのです。……うぶなのは、私だけ、でした。

 ……電灯……、消して……って、……言った、のに。

 彼女は身を起こすと、肌に半ば絡み付いていた下着を、痩せた身体をくねらせ脱ぎ捨てました。細身には似合わない丸い乳房がたわわに揺れ、豊かに張った下腹部には繁みが盛り上がり、腿の隙間から神秘的な部分が妖しく見え隠れする、眩しい肢体が迫ってきました。素朴でも清楚でもない、婀娜な女体がそこにありました。
 そして彼女は私の衣服を荒々しく脱がせ、肌を合わせてきたのです。身体の隅々までくすぐられ、撫でられ、啄まれ、舐められる。甘美な感触に圧倒されて、私は彼女に導かれ通し、でした。

 彼女は情熱的に喘ぎながら、私に跨がり受け入れ、激しく悶えながら、私に背中を撫でるようにせがみました。

 愛して!……もっと、もっと、……!

 背中一面の異形な手触りと、脳髄を破壊するような悦楽が、同居して私を混乱させ追い込んでいきました。つがった部分が狂暴な熱を帯びて、膨らみ喰らい付き合って、蕩けていきます。
 唇を塞がれ、私と彼女の唾液が混じり合いながら喉の奥へと滴り落ち続けるのを感じながら、私は彼女と、汗ばみ、唸り善がり、爆発的に絶頂り詰めたのです。

 汗水漬の身体を絡めて甘えてくる彼女を抱き留め、私は気怠く惚けきっていました。男と女の秘め事の、何と深淵で神秘的なことか、神々しく甘露なことか……!
 いつまでも、どこまでも、溺れて、いたい……。

 その一方で、妙に醒めた意識が、彼女の背中の傷痕に触れることを拒んでいました。そのごつごつした感触は、何かこの世のものではない不気味さを孕んでいるように思われてならなかったのです。
 私は、それとなく両手を、彼女の背中から遠ざけていました。

 ……驚いた、よね?

 不意に、彼女が尋ねてきました。すぐに背中のことを言っているのだとわかりました。揺れる瞳が私の眼を覗き込んでいます。見つめ返すのが辛いくらい、清みきった色でした。どう誤魔化そうにも見逃さない聡さが充ちていました。彼女の肌と汗の甘ったるい匂いが濃厚に漂って、覆い被さってきます。深い口付けが、蠢く指先が、甘く激しく、私を煽ります。

 ……火傷、したの、よ……。

 掌に、異様な感覚がすぐに戻りました。不吉な予感が黒く込み上げ、謂うべき言葉を、私は探しだせずにいました。
 無言の私に、彼女は口付けながら、私自身を掌で弄んできます。たちまち私は、激しく兆しました。痛いほど身体が疼き、つい先程の鮮烈な愉悦の味わいが甦ります。
 彼女は緩やかに態勢を変え、下腹部に顔を埋めると、私自身を丁寧に含み、丹念に、舌をそよがせ、吸い、甘噛みして、私を焚き付けました。あああっ、と間の抜けた声が漏れてしまいます。

 蕩けさす行為の、その向こう側に、爛れた景色が拡がっていました。不規則な凹凸に覆われた、濃い色をした、痛々しく不毛な皮膚の、荒涼とした乾いた風景が、彼女の体躯の動きに併せて、捻れ捩れ、引きつった表情を、醜く畝らせていました。あまりの沈痛さに萎みそうになる情欲を、彼女の圧倒的な刺激がふいごのように掻き立てます。相反する感情と感覚がせめぎあい、私を矛盾の坩堝に押しやろうとしていました。

 私は、混乱し、狼狽し、すっかり腰が退けていました。頭の中で蜂が多量に飛ぶ音が反響し、意識が濁っていきました。

 ――――――で!
 ――――――よ!

 何と言ったのか分からない、彼女の声が嫌に遠く離れて、揺らいでいました。
 彼女は再び肌を重ねてきました。顔は笑っていましたが、眼だけが異様に冷えて感情が消えています。私を見下ろし、激しい息遣いで喘ぎながら、躍るように肌を擦り付け、彼女は揺れ続けました。否応なしに極みへと押し上げられかけた時、

 ……どうして、訊かないの?

 と彼女は言いました。彼女の膣内で揉まれ絡みつかれる悦びに翻弄され、私は息を弾ませたまま、答えられずにいました。

 気にならない? 背中のこと。どうして、こんな、火傷、した、のか……。……どうして、訊かないの?

 棒読みするような声で、彼女は私を追い込みます。私の顔に顔を擦り寄せて、何度も何度も繰り返し、口付けて、肌をまさぐり、私自身を弾ける寸前で焦らし続け、同じ言葉を投げつけます。快楽と拷問が同居して、同時に私を責め苛んでいました。私はどうにかしてくれ、と祈りに似た心持ちにすがろうとしていました。

 ……どうして……、

 追い込まれ、掠れて上擦った声で、そう尋ねかけた時、私は放り出されていました。不意に彼女が結合を解いたのです。行き場のない欲情が充満し、停滞して、身を捩るばかりの私に、彼女は感情の欠片もない声で、無表情に言いました。


 ……ピカドン、じゃ。


 ……時刻が、静止りました……。


 ……ピカドンに、焼かれた、んじゃ……!


 二度目の言葉を聞いた次の瞬間、私は、激しく嘔吐しました。急激に胃のなかのものが逆流し、口から吹き上げ、顔を汚し、畳に零れていきました。酸っぱい臭いが鼻の穴にこびりつき、嘔吐き続けました。底冷えするような視線が、降り注いでいました。

 涙で霞んだ眼に、素裸で立ち尽くす彼女の後ろ姿が歪んで映りました。爛れた背中が、私を見下し、蔑んでいました。


 嘘つきおって! 愛してる、じゃと? ……あんたも、同じじゃ。皆と、同じじゃ。そんな、汚ないか。吐くほど、汚ないか! ピカのおなごは……そんなに穢いのか!


 剃刀のような言葉が、私の精神を切り刻み続けました。げえぇっ、と嫌な音を響かせ、私は身悶えし、転げ回って嘔吐し続けました。苦悶している私の顔を、軟らかい裸足が、踏みつけ、蹴りあげました。……何度も、何度も。

 ……嘔吐がようやく収まった頃、夜は白みはじめていました。彼女が何時立ち去ったのかもわかりません。吐瀉物にまみれた裸身のまま、私は顔中を腫らしてぐったり倒れ込んでいました。


 ある情景が朧気に浮かび、次第に鮮明な映像を結んでいきました。それは、ふた月ほど前、安酒場で彼女と逢瀬していた時の記憶でした。
 戦時下の生活を思えば、今は何と幸せか、そんな話を一頻りした後、広島の平和記念像が間もなく完成するらしい、と話し合ったのを機に、広島と長崎、そして原爆の話題に移ったのです。その中で、

 原爆被害者に近寄ると、放射能が感染るっていうよね?

 と不安そうな面持ちで彼女が言いました。

 ……福島の原発事故の後、根も葉もない偏見と中傷に晒された方々がいたことは、記憶に新しいですが、当時もまたそんな偏見を持った人々が、少なからずいたのです。

 私は一笑に付しました。

 馬鹿馬鹿しい。非科学的だし、謂れのない偏見だ。それが本当なら、日本中、放射能まみれだよ。

 その時、酔って気が大きくなっていた私は、確かこう続けたのです。

 人間、人格だよ。傷痕なんて問題じゃない。……僕が嫁を貰うなら、原爆被害者を第一に挙げるね。

 ……と。その時、彼女は笑いながら頭の横に人差し指を立ててみせ、言いました。

 ひどーい。じゃあ、あたしは?

 失敬、失敬。勿論、第一候補は君だ。

 これは失言だった、とヒヤリとしていた私に、彼女は幸せそうな笑みを返してよこしたのでした。


 あの頃の私は、口先ばかり達者なだけの、ひ弱な、……卑怯卑劣な、青二才だったのです。事実、ピカドンという言葉を聞いた途端、真っ先に頭に浮かんだのは、彼女と口付けて唾液を飲み、性交わったことで、放射能が感染る、ことの恐怖心、だったのですから。

 ……今にして思えば、あの時彼女は、幸せなどで笑ったのではなく、私の本心を見抜いていて、嘲笑していたのかもしれません。

 ――目を、反らさないで!
 ――そのままのあたしを、見てよ!

 聞こえなかったのではなく、聞くまいとしていた声が、鮮烈に蘇り、失なったものの大きさに震え、私は哭きました。

 それからしばらく、私は病み付き、入院しました。食事も水も喉を通らず、汚物にまみれて倒れたままの私を、下宿の大家が見つけてくれたのです。何とか回復したのは秋を迎えた頃でした。

 彼女の行方は、わかりませんでした。

 急に来なくなったんだよ。病気でもしたかと、下宿を訪ねてみたら、荷物は殆ど残したまま、本人だけがドロン、だとさ。真面目な娘だったのにさ。いったい、何が合ったんだか。……男に騙されでもしてなきゃいいんだがね。

 食堂の大将は、台詞とは裏腹に、後釜に雇った愛嬌のある娘の尻を、目で追いかけていました。


 ……そして、六〇年以上、経ってしまいました。


 ここまで語って、彼は激しく咳き込んだ。喉に絡んだ痰を吸引する。呼吸が浅く弱く早くなっていた。……これ以上、話させるのは、危険かもしれない。僕は彼の話を打ち切らせようとした。

 ……お疲れでしょう、もう、休まれた方が……

 しかし彼は、僕を震える手で制し、告白を続けた。

 それが何と……、ひょっこり、……逢いに、きたの、です。……昨日か、一昨日か。いや、今朝だったかもしれない。

 あの頃と、何も変わっていませんでした、……ここに、

 と彼は、文庫本とノートが置かれた辺りを示した。

 ……座って、ノートを読んでいました。但し、私には、一瞥だにくれずに……。そして、ゲーテの詩を諳じました、……あの細い声で。

 けれども手折った手荒いわらべ、
 野に咲く小バラ。
 小バラは防ぎ刺したれど、
 泣き声、ため息、かいもなく、
 折られてしまった、是非もなく。
 小バラよ、小バラよ、あかい小バラよ、
 野に咲く小バラ。

 ……一頻り諳じて、ひっそり帰っていきました。……お分かりでしょう? 「手荒いわらべ」、が誰を指すのか、を。


 それにしても、私は、罪深いことをしてしまった、ものです。悔やんで悔やんで、なお、悔やみきれない。

 ……私の、……


 不意に話は途切れ、彼は意識を失っていた。彼の耳元で繰り返し名前を呼んだが、反応はなかった。僕はナースコールを押した。


 翌朝。
 二〇一六年八月六日、午前八時一五分。彼は永眠した。享年八三歳、だった。

 彼が何故、人生最期の時を前に、恐らく誰にも話したくないし話せない、極めて繊細で極めて重い告白を、僕に、――急な担当替えで半年しか付き合い(と呼べるかどうかさえ頼りないのだが)のなかった、この僕に託したのか、最早知る術はない。そして、最後の「……私の、……」の後に続くはずだった言葉も。

 看護師長が、「遠からず自分が身罷ったら、遺品――古びた文庫本とノート――を僕に渡してほしい」、との、彼の簡単な遺言書を見付けた、と伝えてきた時も、僕は首を捻るばかりだった。告白と遺品を託すにあたり、彼の主観的及び客観的基準に偶々僕という人間が適合したのだろう、としか言いようがない。彼が僕に告白したことで、少しでも軽やかに旅立てたのなら、それに勝る喜びはない。

 人間関係の織り成す綾が、六〇年以上もの彼の人生を、とてつもなく重く暗く悲しく辛く縛ってしまった。それがどんなものだったのか、僕には想像を絶するし、況してや彼の人生を総括する権利も術も、僕は持たない。ただ、何故か選ばれ告白を聞いた者として、また遺品をも託された者として、一つ彼に伝えたい想いがある。

 それは、彼の幻想(?)に現れた、彼女が諳じた詩の一節、「手荒いわらべ」の意味するところについてである。彼は、彼女が彼を謗って「手荒いわらべ」に例えた、と解していたと思われる。が、彼女もまた彼にとって「手荒いわらべ」的存在ではなかったか。そして、彼も彼女も等しく、精神的には、「手折られた小バラ」的存在ではなかったか、ということである。僕は、文学的見解には壊滅的に疎いが、そんな見方もあり得るのではないか、あっていいのではないか、と思ってやまない。そんな視点を、彼と彼女への、僕なりの『祈り』として捧げたい。

 遺品として託された、文庫本は新潮文庫の「ゲーテ詩集」初版、ノートは彼女に対する彼の悔恨の情を詩句・断章――凡庸ではあるが、心情の籠った――として綴ったものであった。彼の生きた証として末永く保管したいと思う。

 尚、彼のノートの最後には、明らかに彼のものとは違う筆跡で、絶筆の短歌が記されていた。記した人物は不明である。

 僕はオカルトやスピリチュアルなものの見方、考え方には極めて懐疑的な人間なのだが、絶筆の短歌を読んだ時、彼女が「ひょっこり、……逢いに、きた」という彼の証言が意味するところは、象徴的意味合いや幻想や思い違いとは本質的に違う、『彼の真実であった』、という結論を持たずにはいられなかった。

 その短歌の紹介をもって、この文章を締めくくりたい。



 吾が怨み怒り悲しみ忘れまじ
 一九四五ヒロシマの夏



(了)



【文中、ゲーテの詩「野の小バラ」は、『ゲーテ詩集』高橋健二・訳(新潮文庫)より引用した。】




written:2016.08.05.〜08.
rewritten:2017.07.13.

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