雨夏
この夏はどうかしている
黒猫が鼻の湿りと髭の張り具合を確かめる
またひと雨来そうだぜ、おまけに雷も
……わたしもそう思う
髪の長い黒ずくめの少女が呟く
このまま、真っ直ぐ、だ
蝉の声も力ない、桜並木から
雑木林に分け入ると、雨がぱらつき始めた
それにしてもこの夏はどうかしている
仁義ってモノをわきまえていない
黒猫が独り言ち少女を見上げ同意を求める
……仁義?
端正な白い顔が猫を一瞥した
空梅雨でいきなり真夏かよ!と思ったら
梅雨明け本番じゃあ、この女々しさだぜ
仁義欠いてるとしか、思えねえじゃないか
通常は「順番が逆」と言わないか?
にゃ?
黒猫と少女は立ち止まり、見つめ合った
長い前髪に左半分覆われた白い顔は
至って冷静沈着で紅い瞳が鈍く光っている
Gothic Lolitaのドレスが風に揺れた時
黒猫の髭に、突如火花が走り散った
をわっ!?
光と音が、同時だった
湿度の高い大気が震え響鳴して……
どっと大粒の雨が叩きつけてくる
大丈夫、……ではなさそう、だな
少女は硬直した黒猫を小脇に抱え林を歩む
一際太く高い老木の前で猫の硬直が解けた
あ、お嬢、すまねえ、不意打ち喰らって
黒猫が少女の腕から滑り落ちた時
……此処、だ
黒ずくめの少女は大木を見上げた
蝉が一斉に歌い出し大気を揺する
うわっ、こいつはたまらん!
猫が耳を塞いで身震いした、瞬間
それは降ってきた
黒い手袋を外した真白な手が受け止めた
それは、今まさに力尽きようとしている
蝉だった
同類《なかま》たちの合唱に応えるように
蝉は残された力の全てを翅に集中し
少女の掌を、蹴った
浮遊しジグザグに揺れる体躯に向かい
memento mori !
少女の細い声が矢と放たれて
体躯は落下し
仄かに青い光の球が
ゆっくりと螺旋を描いて
空に消えていった
少女は大木の下で静かに十字を切る
今のは……
……蝉、さ
呟いて少女はゆっくり振り返り、叫んだ
出て来い!
おずおずと、四、五歳の童子が歩み出た
お前だけか?
こくりと頷く顔は蒼白で怯えきっている
少女の右頬に笑窪が浮かんだ
童子ががたがたと震えている
少女は髪を掻き上げ
隠していた左半分の顔を晒した
童子が息を呑んだ
わたしの顔を見ろ、目を逸らすな
これは裏切りと信義の証だ
お嬢、と黒猫が割って入ろうとする
そんなガキとマジか?
ああマジだ、見られた以上
契約を交わすか、即座に生命を貰うか、だ
小僧、目を逸らすな
何れにしろ、
お前の生命はわたしの手に在る
わたしに信義を誓え、
わたしに傷した者を呪え!
お嬢、またデカいのが来るぞ!
黒猫が髭をピリピリ逆立てて叫ぶ
ああ、来るね
『契約書に、署名を』
お嬢!
その瞬間
また光と音が同時に輝き響き
……佇む少女の足元に
童子が鼻血を出して倒れている
お嬢、ガキは……
ご覧の通りだ、契約不成立
お嬢……、ガキ、は……
そのうち誰か見つけるだろう
だろう、て、……ちょっと、お嬢
少女は濡れた前髪を手櫛で梳いて
左の顔を覆い直すと林の奥へ
暗がりに向かって踵を返した
……あれから二十五年経った
黒ずくめの少女と雷に撃たれて
死んだはずのこうちゃんは
翌日のお通夜の最中に
息を吹き返してみんなを驚かし
その後は何事もなかったように
すくすく育って大人になり
物心つく前から宣言していた通り
あたしのダンナさんになって三年目だ
かよ、オレがいいっていうまで
ぜったいでてくるなよ、いいな
そう言い残して少女の前に立ったことを
こうちゃんはすっかり忘れていた
髪に隠れた左の顔のことも、全部
あの黒ずくめの少女と喋る黒猫
林の主から落ちてきた蝉は
何だったのだろう?
かつて
桜並木と雑木林のあった場所は
林の主ごと
町唯一のスーパーマーケットに
姿を変えて久しい
かよ、どうした?
ああ、晩ごはんカレーにしようかって
やっりー、久しぶりだあ
二歳の娘を抱え無邪気に笑うこうちゃん
でも、カレーライス好きになったのは
雷に撃たれた後、生き返ってからだ
あの夏とよく似た雨の夏
本当は、こうちゃん
あの子に『信義を誓』ったじゃないの?
あの日、あたしが
こうちゃんに生命をあげるって
泣いて約束したように
答えはなかった
あの夏とよく似た雨の夏
あたしは
今夜のカレーは茄子と鶏肉の
中辛にしようと決めた
written:2017.07.29.〜30.
**
この夏はどうかしている
黒猫が鼻の湿りと髭の張り具合を確かめる
またひと雨来そうだぜ、おまけに雷も
……わたしもそう思う
髪の長い黒ずくめの少女が呟く
このまま、真っ直ぐ、だ
蝉の声も力ない、桜並木から
雑木林に分け入ると、雨がぱらつき始めた
それにしてもこの夏はどうかしている
仁義ってモノをわきまえていない
黒猫が独り言ち少女を見上げ同意を求める
……仁義?
端正な白い顔が猫を一瞥した
空梅雨でいきなり真夏かよ!と思ったら
梅雨明け本番じゃあ、この女々しさだぜ
仁義欠いてるとしか、思えねえじゃないか
通常は「順番が逆」と言わないか?
にゃ?
黒猫と少女は立ち止まり、見つめ合った
長い前髪に左半分覆われた白い顔は
至って冷静沈着で紅い瞳が鈍く光っている
Gothic Lolitaのドレスが風に揺れた時
黒猫の髭に、突如火花が走り散った
をわっ!?
光と音が、同時だった
湿度の高い大気が震え響鳴して……
どっと大粒の雨が叩きつけてくる
大丈夫、……ではなさそう、だな
少女は硬直した黒猫を小脇に抱え林を歩む
一際太く高い老木の前で猫の硬直が解けた
あ、お嬢、すまねえ、不意打ち喰らって
黒猫が少女の腕から滑り落ちた時
……此処、だ
黒ずくめの少女は大木を見上げた
蝉が一斉に歌い出し大気を揺する
うわっ、こいつはたまらん!
猫が耳を塞いで身震いした、瞬間
それは降ってきた
黒い手袋を外した真白な手が受け止めた
それは、今まさに力尽きようとしている
蝉だった
同類《なかま》たちの合唱に応えるように
蝉は残された力の全てを翅に集中し
少女の掌を、蹴った
浮遊しジグザグに揺れる体躯に向かい
memento mori !
少女の細い声が矢と放たれて
体躯は落下し
仄かに青い光の球が
ゆっくりと螺旋を描いて
空に消えていった
少女は大木の下で静かに十字を切る
今のは……
……蝉、さ
呟いて少女はゆっくり振り返り、叫んだ
出て来い!
おずおずと、四、五歳の童子が歩み出た
お前だけか?
こくりと頷く顔は蒼白で怯えきっている
少女の右頬に笑窪が浮かんだ
童子ががたがたと震えている
少女は髪を掻き上げ
隠していた左半分の顔を晒した
童子が息を呑んだ
わたしの顔を見ろ、目を逸らすな
これは裏切りと信義の証だ
お嬢、と黒猫が割って入ろうとする
そんなガキとマジか?
ああマジだ、見られた以上
契約を交わすか、即座に生命を貰うか、だ
小僧、目を逸らすな
何れにしろ、
お前の生命はわたしの手に在る
わたしに信義を誓え、
わたしに傷した者を呪え!
お嬢、またデカいのが来るぞ!
黒猫が髭をピリピリ逆立てて叫ぶ
ああ、来るね
『契約書に、署名を』
お嬢!
その瞬間
また光と音が同時に輝き響き
……佇む少女の足元に
童子が鼻血を出して倒れている
お嬢、ガキは……
ご覧の通りだ、契約不成立
お嬢……、ガキ、は……
そのうち誰か見つけるだろう
だろう、て、……ちょっと、お嬢
少女は濡れた前髪を手櫛で梳いて
左の顔を覆い直すと林の奥へ
暗がりに向かって踵を返した
……あれから二十五年経った
黒ずくめの少女と雷に撃たれて
死んだはずのこうちゃんは
翌日のお通夜の最中に
息を吹き返してみんなを驚かし
その後は何事もなかったように
すくすく育って大人になり
物心つく前から宣言していた通り
あたしのダンナさんになって三年目だ
かよ、オレがいいっていうまで
ぜったいでてくるなよ、いいな
そう言い残して少女の前に立ったことを
こうちゃんはすっかり忘れていた
髪に隠れた左の顔のことも、全部
あの黒ずくめの少女と喋る黒猫
林の主から落ちてきた蝉は
何だったのだろう?
かつて
桜並木と雑木林のあった場所は
林の主ごと
町唯一のスーパーマーケットに
姿を変えて久しい
かよ、どうした?
ああ、晩ごはんカレーにしようかって
やっりー、久しぶりだあ
二歳の娘を抱え無邪気に笑うこうちゃん
でも、カレーライス好きになったのは
雷に撃たれた後、生き返ってからだ
あの夏とよく似た雨の夏
本当は、こうちゃん
あの子に『信義を誓』ったじゃないの?
あの日、あたしが
こうちゃんに生命をあげるって
泣いて約束したように
答えはなかった
あの夏とよく似た雨の夏
あたしは
今夜のカレーは茄子と鶏肉の
中辛にしようと決めた
written:2017.07.29.〜30.
**