鼻節神社(延喜式神明帳 名神大社)は凄い神社なのだ!
鼻節神社は第六代孝安天皇の御代(前392~前291)に、岐神(ふなどかみ)として猿田彦命を花淵浜兎ヶ崎(うがさき)に勧請して、神社を創建したと伝えられている。
口承伝説 猿田彦命が第六代孝安天皇の命により北東をめざし航海中、月に雲かかり暗闇となる。わずか雲晴れ西に白い光現れる。光に向かって進むと御崎に辿り着く。白い光は月明かりに輝く兎の群れ。この後御崎が兎ヶ崎(うがさき)となる。
貞観の大地震 869(貞観11)年5月26日 陸奥で大地震。流光が昼の如く現れる後、大きく揺れる。多賀城崩壊し圧死者あり。また地面の裂け目に埋没する者もあり。城下に大津波が押し寄せ千余人が死す。 この後、猿田彦命が上陸した御崎は創建された鼻節神社もろとも海中に没する。(海中に没した鼻節神社を現在、大根神社とし祀られている)その後今の鼻節神社が鎮座する場所を吼坊ヶ崎(こうぼうがさき)とよぶようになる。文献により「吼坊ヶ崎(こうぼうがさき)」「ほうが崎」「うが崎」とあるのはこのためであろう。
謎の歴史 塩竈神社の祭神である岐(ふなど)神(かみ)は塩土(しおつち)ノ(の)翁(おきな)とも言われ猿田彦(さるたひこの)命(みこと)とは同神(どうしん)異名(いみょう)である。猿田彦(さるたひこの)命(みこと)が製塩法を教えたと伝えられている。猿田彦(さるたひこの)命(みこと)が最初に上陸したのは花渕浜であり、この地で製塩していたが、のちに、塩釜の地へ移ったと塩釜神社の縁起の一節にある。
この一節から七ヶ浜のどこかに製塩遺跡があるだろうと推定されていた。
昭和47年東宮浜の寺下囲貝塚を発掘調査したところ、関東以北では珍しい弥生期(前期2000年前)の製塩遺構であることが確認された。
現在、塩釜神社で製塩の儀を司って(つかさどって)いるがその際に「花渕沖の海水(うみみつ)」と「花渕のほんだわら(海藻)」を煮詰めて製塩の祭事を催していたが、いつのまにか「松島の海水」に代わっている。
本来、海藻を育んだ海水とともに製塩するのが常套であり、何故わざわざ違う場所から海水を汲むようになったのかは理解し難い。
鹽(しお)竃(がま)神社の不思議 「鹽竃」の名の由来は、境外末社の御竈神社の御神竈。
鹽土老翁神が、当地で塩の作り方を教えたという。
左右宮に祀られる武甕槌命・経津主命は、鹽土老翁神が先導して当地へ迎えたもの。
とすると、主祭神は鹽土老翁神と考えられるわけだが、これらの祭神は、四代藩主伊達綱村公が元禄六年(1633)、家臣の識者に命じて撰述した『鹽竈神社縁起』によるもの。
本来の祭神であるかどうかは、不明ということらしい。
当社の創建は、相当古いようだが、史料にはない。また、延喜式内社でもないのは不思議なところ。延喜式内社とは、『延喜式』の「神名帳」記載の神社であるが、当社は「神名帳」にはなく、同じく『延喜式』の「主税式」や、『延喜式』以前の『弘仁式』の「主税式」にはその名があるが…
鹽竈神社は祭祀料として正税壱万束を受けていた。当時全国で祭祀料を寄せられていたのは、他に伊豆国三島社二千束、出羽国月山大物忌社二千束、淡路国大和大国魂社八百束の三社で共に『式内社』でありますが当社に比べ格段の差があり、国家的に篤い信仰を受けていたにも拘わらず『延喜式』神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていないというこの相反する処遇はどう解すべきなのでしょうか。
いっぽう、鼻節神社は全国の神社を調査せしめた延喜式神明帳には当時陸奥国にある壹百座を大まかに分け大社十五社小社八十五社とし本社は名神大社に列せられている。
後に鎌倉時代陸奥国府(多賀城)の主厨であったといわれる花淵浜の舘主花淵氏累代の崇敬篤く社殿の造営、祭事が相つぎ社敷場や地名に残る祭田、三月田四月田五月田等は神田、社領の遺名でありその盛大さを偲ばせます。
鹽竃神社が延喜式神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていないというのは、初めに製塩の祭事を執り行っていたのは鼻節神社と考えるべきである。
しかしなぜ、その祭事が塩竈神社に移ったのだろうか。
それは、貞観の大地震が大きく影響していたと考える。
この貞観の大地震により鼻節神社は海底に没したと伝えられている。
没した神社の面積は今の七ヶ浜町に匹敵する大きさの大社だったとある。
往時の鼻節神社が霊験あらたかで朝廷の尊信を受け、民間の信仰も厚かったというのは当然のことであり、延喜式神名帳の名神(みょうじん)大社(たいしゃ)に列せられていたのも当然であろう。
しかし、このあまりにも大規模な地震、津波災害により、製塩の神事を守るため鹽竃神社に移したと考えるのがごく自然ではないだろうか。
『延喜式』神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていない鹽竃神社がその後、格段の隆盛を迎え今に至ることから推察すればごく自然な流れと考える。
鼻節神社は第六代孝安天皇の御代(前392~前291)に、岐神(ふなどかみ)として猿田彦命を花淵浜兎ヶ崎(うがさき)に勧請して、神社を創建したと伝えられている。
口承伝説 猿田彦命が第六代孝安天皇の命により北東をめざし航海中、月に雲かかり暗闇となる。わずか雲晴れ西に白い光現れる。光に向かって進むと御崎に辿り着く。白い光は月明かりに輝く兎の群れ。この後御崎が兎ヶ崎(うがさき)となる。
貞観の大地震 869(貞観11)年5月26日 陸奥で大地震。流光が昼の如く現れる後、大きく揺れる。多賀城崩壊し圧死者あり。また地面の裂け目に埋没する者もあり。城下に大津波が押し寄せ千余人が死す。 この後、猿田彦命が上陸した御崎は創建された鼻節神社もろとも海中に没する。(海中に没した鼻節神社を現在、大根神社とし祀られている)その後今の鼻節神社が鎮座する場所を吼坊ヶ崎(こうぼうがさき)とよぶようになる。文献により「吼坊ヶ崎(こうぼうがさき)」「ほうが崎」「うが崎」とあるのはこのためであろう。
謎の歴史 塩竈神社の祭神である岐(ふなど)神(かみ)は塩土(しおつち)ノ(の)翁(おきな)とも言われ猿田彦(さるたひこの)命(みこと)とは同神(どうしん)異名(いみょう)である。猿田彦(さるたひこの)命(みこと)が製塩法を教えたと伝えられている。猿田彦(さるたひこの)命(みこと)が最初に上陸したのは花渕浜であり、この地で製塩していたが、のちに、塩釜の地へ移ったと塩釜神社の縁起の一節にある。
この一節から七ヶ浜のどこかに製塩遺跡があるだろうと推定されていた。
昭和47年東宮浜の寺下囲貝塚を発掘調査したところ、関東以北では珍しい弥生期(前期2000年前)の製塩遺構であることが確認された。
現在、塩釜神社で製塩の儀を司って(つかさどって)いるがその際に「花渕沖の海水(うみみつ)」と「花渕のほんだわら(海藻)」を煮詰めて製塩の祭事を催していたが、いつのまにか「松島の海水」に代わっている。
本来、海藻を育んだ海水とともに製塩するのが常套であり、何故わざわざ違う場所から海水を汲むようになったのかは理解し難い。
鹽(しお)竃(がま)神社の不思議 「鹽竃」の名の由来は、境外末社の御竈神社の御神竈。
鹽土老翁神が、当地で塩の作り方を教えたという。
左右宮に祀られる武甕槌命・経津主命は、鹽土老翁神が先導して当地へ迎えたもの。
とすると、主祭神は鹽土老翁神と考えられるわけだが、これらの祭神は、四代藩主伊達綱村公が元禄六年(1633)、家臣の識者に命じて撰述した『鹽竈神社縁起』によるもの。
本来の祭神であるかどうかは、不明ということらしい。
当社の創建は、相当古いようだが、史料にはない。また、延喜式内社でもないのは不思議なところ。延喜式内社とは、『延喜式』の「神名帳」記載の神社であるが、当社は「神名帳」にはなく、同じく『延喜式』の「主税式」や、『延喜式』以前の『弘仁式』の「主税式」にはその名があるが…
鹽竈神社は祭祀料として正税壱万束を受けていた。当時全国で祭祀料を寄せられていたのは、他に伊豆国三島社二千束、出羽国月山大物忌社二千束、淡路国大和大国魂社八百束の三社で共に『式内社』でありますが当社に比べ格段の差があり、国家的に篤い信仰を受けていたにも拘わらず『延喜式』神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていないというこの相反する処遇はどう解すべきなのでしょうか。
いっぽう、鼻節神社は全国の神社を調査せしめた延喜式神明帳には当時陸奥国にある壹百座を大まかに分け大社十五社小社八十五社とし本社は名神大社に列せられている。
後に鎌倉時代陸奥国府(多賀城)の主厨であったといわれる花淵浜の舘主花淵氏累代の崇敬篤く社殿の造営、祭事が相つぎ社敷場や地名に残る祭田、三月田四月田五月田等は神田、社領の遺名でありその盛大さを偲ばせます。
鹽竃神社が延喜式神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていないというのは、初めに製塩の祭事を執り行っていたのは鼻節神社と考えるべきである。
しかしなぜ、その祭事が塩竈神社に移ったのだろうか。
それは、貞観の大地震が大きく影響していたと考える。
この貞観の大地震により鼻節神社は海底に没したと伝えられている。
没した神社の面積は今の七ヶ浜町に匹敵する大きさの大社だったとある。
往時の鼻節神社が霊験あらたかで朝廷の尊信を受け、民間の信仰も厚かったというのは当然のことであり、延喜式神名帳の名神(みょうじん)大社(たいしゃ)に列せられていたのも当然であろう。
しかし、このあまりにも大規模な地震、津波災害により、製塩の神事を守るため鹽竃神社に移したと考えるのがごく自然ではないだろうか。
『延喜式』神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていない鹽竃神社がその後、格段の隆盛を迎え今に至ることから推察すればごく自然な流れと考える。