Chara 『愛の自爆装置』
愛し君へ / 森山直太朗 (女性が歌う) COVER by Uru
またまたですが、一度載せたものを再度掲載することをご了承いただきたく思います。
愛情物語
からく
暗い女
「ねえ、服、これでいいかしら」
女性の服のことなんてまったく分からない私に向かって、陽子は白いブラウスと言っていいのかわからない服をひらひらさせて私に尋ねた。
「いいんじゃない」
私が興味がないといった風に答えると、陽子は、まったくもう、と言って膨れっ面になった。
「ねえ、なにが気に入らないの?」
「いや、別に・・」
「さっきからしかめっ面してるわよ」
「いや、別に。ただ中学校の同級会に行くのに、そんなに服装に拘るきみの気持ちが分からないだけ」
私がそう答えると陽子はきょとんとした顔を向けた。
そしてしばらく考える風にして、「もしかして私が同級会に行くのが気に入らない?」
いきなり核心を突いてきた。
陽子のその言葉に私は自分の気持ちを言い当てられ、すこし動揺したようだ。
いや、そんなことは・・・、と言い淀み、するとすかさず陽子の食い入るような視線が飛んできた。
「・・・・妬いてる?」
「え?」
「同級会に行けばどうしても、Aくんに会うのよねえ・・・。あなたそれで妬いているんだ。あたしがどうにかなると思って・・・」
いや、その、と言って私は言葉が続かなかった。
Aくんは陽子の初恋の人だ。結婚当初陽子のアルバムを見ながらそのことを聞かされていて彼が同級生だということを知っていた。陽子に中学の同級会の案内が来たときから私はなにかモヤモヤした気持ちがあった。
「ばかねえ、私がそんな軽い女じゃないこと知っているでしょ。・・・ただ、懐かしさはあるかな。でもそれだけよ」
陽子はきっぱりと言った。
私は陽子のその堂々とした態度に安堵し、それから自分の度量の狭さを反省した。
「この歳になっても焼餅妬くなんてなあ、・・・自分でも信じられん」
「あら、それだけあたしが魅力的なんだね」
陽子がおどけてそう言う様子に私は破顔した。そして笑いながら付き合い始めたころの陽子のことを思い出し、強くなったなあ、とつくづく感心した。
「でも、嫉妬してくれてありがとう」
陽子は言い、私は増々思いを強くした。
そんな陽子と初めて出会ったのは”バブル”がはじけた直後だっただろうか。
私は金融機関に勤めていて、その筋の集まりに誘われ参加したのだった。
いわゆる”合コン”といったようなパーティー形式の集まりで、普段はライブハウスになっているフロアに多数の各金融機関の男女が集合し、酒を飲み交わし、会話を楽しんでいた。
その中で、ひとりだけぽつんとしていてつまらなそうにカウンターに座っていたのが陽子だった。
それに気が付き、
「ひとり?」
私が近づくと陽子は少し構えるような仕草を見せた。
「友達と来たんだけど・・・」
陽子の視線を追いかけるとテーブル席の方ではある一組の男女が並んで楽しそうに会話をしていた。
友達に裏切られたわけか、と思い、私がかまわず隣に座ると陽子はビクッと体を引いた。
「ねえ、向うで一緒に話さない?・・・・あ、俺、貝塚っていうの。名前は亮太」
私が言うと陽子は「いいのよ」とか細い声で言葉を返した。
「いいのって、せっかく来たのに楽しまなきゃ、もったいない」
「・・・友達のピンチヒッターで来ただけだから、いいの」
陽子の物言いにあきらかに拒否の意思表示が現れていたけど私は構わず話し続けた。
「ねえ、どこに住んでるの?」
「・・・M町」
「ああ、それなら俺が今いる支店のある町だぁ、奇遇だねぇ」
私がそういうと彼女は少しびっくりした顔を向け、そうなの?と少しだけ態度を軟化してわたしの方を見た。
私はチャンスとばかりにいろんな話を畳みかけた。自分が何処の金融機関に勤めているのか、年齢、音楽が好きであること、秘かな楽しみで小説を書いていること等々、最後には共通の話題になるだろうと思ってM町の噂話を披露するころには、陽子の態度も大分違うものになっていた。
「うちは、タバコ屋なの」
「へえ、どこにあるの?」
「山のほうにあるちっちゃなタバコ屋。田舎過ぎて恥ずかしくなっちゃう・・」
山の方かあ、M山の方かと想像を巡らし、さて次は名前と連絡先を聞き出そうと考え始めたとき彼女が腕時計の時間を気にしているのが見て取れた。
「時間?」
「そうなの、帰りの電車の時間・・。本数が少なくてやんなっちゃう」
「彼女は?どうするの?どうやら隣の男といい感じになっているようだけど」
陽子は友人の方を一瞥すると、「彼女はいいの。先に帰ること前もって言ってあるから」と言って席を立った。
「じゃあ、今日はありがとう」
陽子はうつむき加減に立ち上がり、それからくるりと踵を返して出口に向かって行った。
私はカウンターに座ったまま彼女を見送り、彼女の姿が見えなくなるころを見計らって皆のいるテーブル席へ戻った。
「よう、いいのか。送って行かなくて」
友人のY男が私に話しかけてきたので、名前も聞けずじまいに終わった私はこう言った。
「いいのいいの、なんか暗い女だったし、俺の趣味じゃないし」
私が陽子に最初に抱いた印象は”暗い女”なのであった。
偶然の出会いと
私が、陽子と初めて会った日から2か月が経っていた。
9月に入り、そろそろ秋の気配を感じ始めたころ、私はM町にある文京堂書店という看板を掲げる本屋にいた。
その日私は仕事で小さなミスを起こし、少しばかりむしゃくしゃしていた。
それで、会社帰りにストレスを発散するために本でも物色しようと文京堂書店に寄ったという訳だった。
文教堂書店は田舎にあるにしては店舗内は広く、小奇麗だった。本の種類も多い。各コーナーは整然と並べられていた。
私は店舗に入ると迷わず小説のコーナーに行き、目ぼしい本を物色し始めた。
そのころ私は小説を書くことに生きがいを見出しており、ストーリーに詰まると本を読み、イメージを膨らませていたものだった。
その日も一冊の本が目に止まり、イメージを手に入れるために、パラパラと斜め読みをしていた最中だったと思う。そのとき横から妙な視線を感じたのだ。
何かに驚いたような視線。どう言ったらいいのだろうか、視線の元である人物も明らかに動揺しているようなそんな視線を感じた。
私は慌てず、ゆっくりと視線を感じた方向に顔を向けた。
そこには、ひとりの若い女性が立っていた。
私と女性との間は2、3メーターほど離れていただろうか、彼女は私が振り向くと、俯いてしまった。
あの娘は・・・。
私は彼女があのパーティーで話した女性であることをすぐに思い出した。「ああ、暗い女!」、私は即座にそう呟いた。
「きみは・・・」
私は彼女に近づき名前を呼ぼうとしたが、あの時名前を聞けず仕舞いであったことを思い出し、言葉に詰まった。
「・・・・・ごめん。きみの名前、まだ聞いていなかったね」
私がやっとの思いでそう言葉をつなぐと、彼女は意を決したように顔を上げ、私の方を見た。
「・・・陽子。樋口陽子って言います」
「はは、やっときみの名前が聞けた」
「・・・貝原・・・さん、でしたよね」
「うん、貝原、名前は亮太」
「こんなところで会うなんて思いませんでした」
「うん、でも考えたらここはきみの住んでいる町だろ。・・・会っても不思議じゃない」
「でも、あたしはめったに本屋さんには寄らないから、また会えるなんて思わなかった」
陽子は満面の笑顔を私に向けた。
あのときの彼女は笑いもしなかった。それがこんなに笑うなんて・・・・。
私はあらためて彼女を見、自分の評価が間違いであることに気が付いた。
切れ長の目、くしどおりの良さそうなロングヘアーに、痩身の体躯。並んでみると彼女の背は意外に高い。
「背、高いんだね」
私がそういうと、彼女は恥ずかしそうに「まあね」と呟いた。
そしてそれから、私たちはその場で立ち話をした。
恐らく10分程度だっただろうか、私が立ち話もなんだからと食事に誘いかけたとき、またも陽子は時計を見、急にそわそわしだした。
「時間?」
「ええ」
「忙しいんだね」
「・・・・母がね、具合悪いものだから」
陽子はそういうと、両手を合わせごめんというポーズをして、またいつかと名残惜しそうにその場を立ち去りかけた。
「ちょっとまって」
私は急いで胸ポケットから名刺を出し、裏返すとそこに自分の家の電話番号を記入した。
「忘れ物だよ」
私は陽子にその名刺を差し出した。
我ながら気障なことをすると思ったが、そのときそうでもしないと彼女とはもう出会うことはないだろうと思っていた。
陽子はその名刺を受け取ると、最初は驚いたようであったがすぐに笑顔を返し、こう言った。
「後悔するわよ。毎日電話かけてやるから」
「望むところだ」
私達の物語はこうして始まったのであった。
秋風の頃
9月が終わって10月になった。
一か月を過ぎても陽子から電話がかかってくることはなかった。
あのとき、陽子は毎日電話をして私を後悔させてやると言っていた。
だが、毎日どころか一度もそんな電話なんてかかってきやしない。
俺は振られたのか?俺のどこが悪かったのか?軽い奴と思われたのか・・・。
自問自答する日々が続いていた。
俺はもともと女なんてそんなに信じてやしない。あのときは期待を持ったが、冷静に考えてみると、俺の勇み足だったような気がしないでもない。
コンパで会って、本屋でたった10分立ち話をしただけの女じゃないか。それは事実だし、それ以上でもそれ以下でもない。
それなのに何故こんなに彼女から電話がこないことにこだわるのか?
おかげで仕事にも身がはいりゃしない。
ちくしょう。
私がそう思いながらデスクワークをしていると、同僚のY男が声をかけてきた。
「なあ、亮太、今あいてるか?」
「ああ、俺もちょっと裏でタバコを吸おうかと思っていたんだ」
「ならちょっと」
私はY男に誘われるがままに、席を立ち、Ý男とともに狭い通路を抜けて支店の裏口の方向へと足を運んだ。
裏口のドアを開けると、外はもう暗くなっていて薄暗いライトが辺りを照らしている。
秋の夜はなんだか寂しげだった。
私たちは外に出るとドア脇に置かれている円筒形の背の高い灰皿の周りに集まり、タバコに火をつけた。
ふぅ。
タバコの煙を吐き出すと、早速Y男は話を切り出して来た。
「・・・なあ、7月のコンパのこと憶えているよなあ」
「ああ、勿論」
「あのとき、お前が声をかけた娘だけど、もしかして最近会った?」
突然、そんなことをY男に尋ねられ私は慌てた。
「な、なんでそんなこと俺に聞く訳?」
「うーん、電話がかかってきた訳よ。おまえのことを教えてくれってさ」
「誰が?」
「コンパに来ていた女。・・・あのとき男といちゃいちゃしてた女」
そう言われてあのときの光景が浮かんできた。男に媚びを売るような笑顔を見せていた女。確か彼女は陽子の友人だった。
「友達が交際を求められている。ついてはその男のことが知りたい、だってよ。まったくお嬢さまの結婚調査かよって思った」
「で?」
「うん、どうしたもんかと思ったがな。ちょっと考えたが悪いことではあるまいと素直に教えてやった」
「お前・・・・」
「まあ、安心しろよ。変なことは言ってないからさ。例えば、ソープにはまっていて毎日通い詰めているなんてさ」
「いつ俺がソープにはまった?それはお前だろ」
「ははは、悪い悪い。・・・まあ、それはともかくとしてお前のことは友人思いのいい奴だと言っておいたぞ」
「・・・・そうか」
私はY男の話を聞いて、陽子がなぜ電話をかけてこないのか分かった気がした。陽子は迷っていたのだ。私が自分と付き合うのに相応しい男かどうか。だからこそ友人に相談して、それならとその友人がY男に探りを入れてきた。そういうことなのだろう。
私が考え込んでいると、Y男は歯をむき出しにして笑顔を見せた。
「なんだよ」
「いやあ、お前も見かけはちゃらいくせして、真面目な奴だと思ってさ。・・・・気に入らないんだろう?こうやって周りから固められるのがさ」
「いや、そんなことはない」
「まあ、いいんじゃない?彼女は純真なお嬢様らしい。お前にはぴったりだ」
「・・・・・・・」
「お嬢様の連絡先だ。あとはよろしくやってくれ」
Y男はそう言い、手帳の切れ端を私に握らせるとタバコの先を灰皿で揉みつぶし、そそくさと店内へと戻って行った。
私は彼のミミズが這ったような文字を見て、微かに口が綻んだ。
さて、どうする。
さわさわと秋の夜風が私の頬を撫でつけ、私の心を僅かにざわつかせた。
文教堂書店再び
会社の帰りに文教堂書店に寄った。
もしかしたら陽子に会えるかもしれないとの期待があったからだった。
家に帰ってから陽子の自宅に連絡し、あらためて日時と場所を指定すれば陽子と会うことは可能なことに思えたけれど、なんだかそうすることは逆に陽子の気持ちに反することではないかと思われた。
陽子の友人と称する女性からの電話は、陽子の意図するものではないのではないか、陽子が友人に相談したのは事実だとしても、そのあとの私についての”身辺調査”はその友人が勝手に行った行為ではないかと、冷静になって考えれば考えるほどそう思えて仕方がなかった。
だとすれば、私が手に入れた彼女の連絡先も彼女が承知した上で伝えられたものではないだろう。
だとすれば・・・・・。
友人の勝手な行動を知った陽子はきっと今日のうちにこの書店に現れるはずだ、自らの潔白を晴らすために、と私は考えた。
もっとも、その考えは陽子が私に対して少しでも好意をもっていてくれているのが前提で、陽子が来ないことも考えられたが、電話をかけることに躊躇していた私に残された陽子と会う唯一の方法は文教堂書店にくることでしかありえなかった。
私は文教堂書店に寄った。そして自動ドアを潜るようにして通過すると、真っ直ぐに奥の小説のコーナーへと向かった。
小説コーナーには2・3人いるだけで、そこに陽子の姿はない。
私は時間を見、前回出会った時間よりも小一時間ほど早いことに気付くと、「今からだな」とその場所で陽子を待つことにした
待ちながら私は自分が陽子に会ってなにをしようとしているのか分からなくなっていた。
陽子に会って何を話せばいい?なぜ電話をくれなかったのか、なぜ友人が“身辺調査”をすることになったのか詰問する?
私は迷いに迷っていた。俺はどうすべきなのだろう。
そんなことを思いながらおよそ一時間は待っただろうか、私は本を物色し時には読むふりをしながら近づく人影に注意をはらっていたのだけれど、陽子が現れることはなかった。その間に小説コーナーに来たのは40代の主婦らしい女性と、学生くらいのものだった。
そして陽子がようやく現れたのは本屋が閉まる30分前のことだった。
もう少し待とうかどうしようかと時間を見、迷っていたまさにそのとき待ち人は現れた。
自動ドアが開く音がした。それからこちらの方へ駆けてくるヒールの音。
陽子は私から数メートル離れた位置までくると立ち止まり、そして真っ直ぐ私を見た。
泣きそうな顔を浮かべながら、それでも必死にそれをこらえ、微かな笑みを浮かべていた。
私からは最初にかける言葉はなかった。言葉を出すと陽子を非難してしまいそうだった。
私が無言でいると、陽子は私を直視しながら口を開いた。
「・・・ごめんなさい。待った?」
陽子は自らを弁護することなくそう言ったのだった。
私は拍子抜けし、そしてここまでいろいろ考えていた自分が馬鹿らしく思えてきた。
陽子の言葉はきっと自分の意地と葛藤と、相手の気持ち、そういったものを熟慮しての結果何だろうと思った。
陽子を見ると泣きたいのを無理して笑っているように見えた。
俺は何を考えていたんだろうな。
私は思い、それからそのとき多分こう返したのだと思う。
「どういたしまして」
海へ
「あ、海」
海岸線を車で走らせていると、陽子はシート横の並んでいるボタンを押して窓ガラスを開けた。
すると心地よい風とともにほのかな潮の香りが鼻をくすぐった。
「いい匂い・・・」
陽子は窓側に身体を預けて、真っ青な海を眺めた。
私はそんな陽子の様子を見て、海に連れてきて良かったとつくづく感じたのだった。
陽子と3度目の再会を果たしてから私たちは急速に親しくなった。
私たちは毎晩のように電話でやりとりをして、日曜日には決まってデートをした。
デートと言っても待ち合わせ場所を文教堂書店裏の駐車場に決めて、朝10時に落ちあうと近くの小高い山の上にある芝生が敷き詰められた比較的大きな公園に行き、レジャーシートを広げて並んで座り一日を過ごしていただけだった。
公園では大抵近くの子供たちがサッカーをしていて私たちはそれをただ、眺めていたものだった。
電話で話す時と違って、会話はそれほど盛り上がらない、思いついたときにどちらかが言葉をかける程度。
昼になると陽子お手製のおにぎりやら唐揚げやらの弁当を広げ、口を大きく開けてほう張り、陽子に対して美味い美味いを繰り返し、笑い、食事が終わると今度はバドミントンをして遊んでいる別の子供たちを眺める。
そんな一日を過ごし日曜日が終わってしまうのだった。
毎週そうであったので、あるとき私は陽子にどこか遠出をしてみようかと提案したことがあった。
すると陽子は困った顔をして、「母さんの具合が良くないので、あまり遠出はしたくないの」というのである。
私は、母さんのことを出されても困るな、と思ったがそのときは黙って引き下がった。
そして私が再度その話を持ち掛けたのはそれから二週間ほど経ったころであろうか。
文教堂書店の駐車場で待ち合わせ、彼女が私の車に乗り込んだ瞬間に私は言った。
「海を見に行こう」
「海?」
「海ならここからなら二時間くらいで行けるよ」
「でも・・・」
「大丈夫、大丈夫。ここには夕方には戻ってこられるから」
「夕方には?」
「うん、間違いなく」
半ば強制的に陽子を誘い、車のエンジンをかけた。
車中、陽子はずっと黙ったままで私は少し気まずい思いをしたが、県境を超え、海岸線を走るころになると陽子の表情も明るくなった。
「潮風って本当に感じるのねえ」
「海、来たことないの?」
「うん、ない」
陽子は自信を持って言った。
「もしかして、遠出ってしたことないの?」
「遠くっていえば、小学生のころ東京、鎌倉。・・あとは中高と京都に行ったくらいかしら」
私は呆れた。陽子は29歳である。その年齢なら普通は仲間とスキーに行ったり、旅行に行ったりしてすでにその道のベテランと言ってもいいのではないか?“お嬢”といわれる由縁はそこにあるのかと思った。
「うちは母さんが病気がちでそんな余裕なかったから・・・」
私が呆気に取られていることに気付いたのか陽子はそう弁解した。
それからしばらくして街中に入り、左手にある海が見えなくなると途中で私は左折し、目的の地へ向かった。
もうすぐ、浜辺だ。私は陽子の喜ぶ顔を目に浮かべ、嬉しくなった。
「わあ、波が押し寄せるぅ」
波のリズムに合わせて陽子は行きつ戻りつしていた。
彼女は裸足だ。
砂浜に足を踏み入れた途端に彼女は靴を脱ぎすて、ジーンズの裾をまくりあげ、一直線に波打ち際まで走って行った。
途中砂に足を取られそうになったけれども、なんとか辿り着き、寄せる波には体を引き、ひく波を追いかけていた。
丁度昼食時だったので、私が適当なところにレジャーシートを敷きながら「メシ、食おう」といったが「あともうちょっと!」と彼女はやめようとはしなかった。
辺りは誰もいない。もう11月も半ばに入っているのだから、当然だった。
私は腰を落ち着け、ひとり波と戯れる陽子を見ていた。
子供のようにはしゃぐ陽子。
付き合い始めてそんな陽子を見るのははじめてだった。
ふと、自分は陽子のなにを知っているのだろうかと思った。
毎日のように電話をし、他愛無い話を交わす中で陽子のことを知った気になっていたけれど、いざ直接会ってみるとそれほどの会話がない。
住所、氏名、年齢、好きなもの、嫌いなもの、そんなことを知ったところで陽子の心に踏み込んで行っている訳ではなかった。
例えば母親のこと。病気がちなのは分かるが、一体はどういった病気なのか、重病なのか、そこまでではないのか。自分を頼ってくれてもいいのではないかと思ったりもしていた。
付き合って一か月半、そろそろ本気の“樋口陽子”を見せてくれてもいいじゃないか。
私はそう考えていた。
メシにしよう。メシに・・・。
波打ち際から引き揚げてきた陽子がおどけた風にそう言ってきたので、私は「言葉遣いが悪いなあ」と顔をしかめた。
「言葉遣いが悪い?あたしは、いつもはそうよ」
陽子は膝をつき、作って来た弁当を広げながら私を見上げた。
「いつもはって・・・、俺と会っているとき、今まではそうじゃなかった」
「ああ、そうかしら。あたしAB型だから二面性があるのかもね」
陽子は笑っていた。それは屈託のない笑顔で嘘とも本当ともつかなかった。
海に連れてきたことで、陽子の心に変化が現れたのだろうか?
私はある意味期待をもって陽子に思っていることを素直に打ち明けようと思った。
「俺さ、本当のことを言って君のことが未だ分からないことだらけなんだ」
「分からない?」
「そう、君が俺のことを本当はどう思っているのか、どうして付き合っているのか・・・」
「・・・・・」
「・・・・・会ってもあまり話もしない・・・」
陽子は私を凝視した。それは私を見ているというよりは私を通り越して、後ろの影をみているようだった。
「・・・馬鹿よね・・」
陽子はそう一言呟くと、さあさ、食べましょうと微かな笑顔で私をせかした。
・・・馬鹿よね?私はせかされ、陽子の握ったお結びを頬張りながら考えていた。それは私に向けられた言葉なのか?それとも陽子自身が自分のことをそう思って言った言葉なのか?
陽子に尋ねようにも陽子はもう殻に閉じこもったように、いつもの無口な彼女に戻っていた。
私たちは昼食を終えると、どちらともなく帰ろうかということになり、帰途に就いた。
帰りの車中、陽子は景色を見るばかりでひとこともしゃべろうとはしなかった。
地元に戻り、別れ際、陽子はまたね、と言った。
またね、か・・・・。私はその言葉が虚しい響きに聞こえた。
後悔の一文字が頭にこびりついて離れなかった。
馬鹿だなと思った。
あの時私は未熟者だった。
未熟者故に陽子に向けるべき言葉の選択を誤った。
そしてこれは後で気づいたことなのだけれど、あのとき持って回った言い方をせずただひとこと言えばすむことだったのだ。
君が好きです・・・・、と。
決心
「きっと、陽子さんは待っているよ。考えるより行動なさい」
姉は力強く、そしてはっきりとそう言った。
私は姉のその言葉に背中を押され、行動か・・・、と呟き、それがいかに難しいかを考えた。
あのころはまだバブルの名残りが残っていて男女の付き合いは煌びやかで明るいものであった。
男と女がいればいかにして相手を落とすかを考え、お洒落なレストランに連れていったり、夜景がきれいな場所に連れて行き、そこで“告白シーン”を演出したり、ともかく安易なテレビドラマのように豪華なシュチエーションを常に考えていた。
それは、いってみればただの“恋愛ゲーム”であったけれど、恋愛の過程を楽しむという点においては確かに必要なことではあったのだろう。
私と陽子の場合はどうだったのか?
私たちの間ではそんな“お祭りごと”は他人さまのやることであり特に陽子はそれを極力避けていたふしがあった。
12月に入っても私たちは相も変わらず週に一度日曜日に会うだけで特別なイベントはなかった。
私は“海での一件”以来、陽子との距離が縮まらないことに鬱鬱としており、彼女と会うたびにどうしたものかと悩んでいた。
それであるとき思い切って姉の部屋に行き、相談したのだった。
「ほら、また考えてる!」
「でも、何をやったらいいか分からないんだ」
「お洒落なレストランでも連れてってあげたら?」
「それは、彼女が気が進まないみたいだし」
「そんなことはないわ。気が進まないなんてそれは口だけ。いざ連れて行ってみれば彼女もきっと満足するわ」
経験上、と姉は付け加えた。
姉は大きな目をくりくりさせながら私の話を聞いてくれた。
目鼻立ちがはっきりしていてまるで洋画の映画スターのように彫りの深い顔をした姉は、こと男女の付き合いに関してはベテランである。
小さなころは蝶よ花よと育てられ、思春期になると絶えず周りの男どもの視線を浴びていた。
彼らはこぞって彼女を自分の隣に据えることを熱望し、彼女もその中から自分に釣り合うだけの男を選んだ。
大抵は姉の気まぐれにより、一年かそこらで破綻してしまうのであるが、どこ吹く風、彼女の男関係は途切れることはなかった。
つい最近も男と別れたばかりのはずだ。
私がそう思っていると、彼女はこう言ったのだった。
「恋はね、ゲームなの。好きになるまでの過程が楽しいのよ。どうやったらこの人に思いが伝わるのか、どうされたら好きになれるのか。そこが大切なのよ」
「陽子もそうなんだろうか?」
「さあね、ただ好きになるまでの過程が大切なのは本当よ。まあ、そのあとが続かないから私も未だに独身なんだけれどね」
姉の言葉には、正直説得力はなかった。
ただなんにせよ過程が大切なのはよく分かった。
それがなければ、その次に行けない。私と陽子の関係はそれさえもなかったのだ。
それを作り出すには俺が行動におこすしかない。私は決心し、今しかないよなと思った。
「ありがと、ねえちゃん」
私は行動に移すべく姉の部屋を出て、自分の部屋に戻った。
ベッドに腰掛けると、脇に自分専用の電話があった。
ええい、ままよ。
私は思い切って受話器を取ると陽子の家の電話番号をプッシュした。
ルルル・・・。
待受音が鳴る。自分の鼓動が早くなる。できるなら出ないでいてくれ・・・
・・・・はい、樋口です。
陽子の声だ。
・・・・貝塚です。陽子さん?
私はそう挨拶するとともかく気合だと自分に喝を入れ、こう切り出したのだった。
クリスマスイブ、きみと過ごしたい。予定はいかがですか?
ホワイトクリスマス
1992年12月24日のクリスマスイヴのことを私は決して忘れない。
それは私が人生最大の“イベント”を手掛けた日であり、恐らく陽子の脳裏にも深く刻まれた一日になったのだろうと思う。
私が仕掛けたそれは、今にして思うと顔から火が出るほど恥ずかしいことで、考えようによっては非常に陳腐なことなのだけれど、その当時の私にとって、彼女に本当の思いを伝えるにはそういった思い切った行動に出るしかなかったように思う。
今、こうして私の隣に陽子が存在することを考えればあながちそれは、間違いではなかったと思う。いや、それによって私たちが思い出を共有できたことは非常に喜ばしいことであったのだったのだ。
私は過去の自分に感謝しよう。
そしてもう一度目を閉じ思い出すのだ。
過去へ、過去へ・・・・・・。
そう、過去へ戻って。
その日私は”お街“の駅にいた。
陽子とは19時に駅で待ち合わせをしていて、30分前には駅に着いていた。
私は改札口横の待合室の椅子に腰かけながら、駅の構内を行き交う人々を何とはなしに眺め、サラリーマン風の男たちがケーキの入った四角い箱を手にしているのを見て心が温かくなった。
そしてところどころに飾られた金銀のイルミネーションを見るにつけ、あらためて今日はクリスマスイヴなんだなと実感していた。
ふと隣をみると、小さな女の子が私を見上げて笑いかけてきた。
きっと、彼女も今日は楽しい気分なのだろう。
私はそれに応えるべく最高の笑顔を作って応えたけれども、気に入らなかったらしく不満顔になり、彼女はぷいっと顔を隣の母親の方に向け、母親の方へ身体を寄せてしまった。
やっちまったかな?
何事かとこちらを睨む母親の視線をいそいで避け、私はスーツのポケットから或る鍵を取り出し手のひらに乗せた。
“鍵”はその日の主役だった。
私は手にした鍵をしばらく眺めていた。
陽子からイブに会う約束を取り付けてから、私はその日を心待ちにしていた。
カレンダーの一日一日に×印を付け、あと何日と数えながら過ごしていた。
そして日が近づいてきたある日、ふと姉の「恋愛はゲームよ」という言葉が頭に浮かび、ただ会ってお洒落なレストランに行くだけでは何かが足りないと思い直した。
これでは足りない。何かをしなければ。
私は考えた。そして考えに考え抜いた末にたどり着いた結果が、その鍵に秘められていた。
言わばその鍵が私の秘密兵器なのであった。
私は眺めるのに飽きると、ポケットに再び鍵を忍ばせ、待合室の時計を見た。
そろそろだな。
私は陽子を迎えるために、ゆっくりと立ち上がり、待合室を出た。
臨戦態勢OK。
私はそう独りごち、改札口の前でネクタイの紐を固く締め直したのだった。
「わぁ、すごい」
目の前で大きなステーキ肉を焼いているのを見て、陽子は小さな歓声をあげた。
肉の色がみるみるうちに茶褐色に変わってゆく。
ふたりともシェフに「焼き方は?」と尋ねられたとき揃って「ウェルダン!」と答えた。
そのとき、お互い顔を見合わせ、思わず笑いがこぼれた。
私が陽子を連れて行ったステーキ店は、上質な赤みの肉を扱うことで知られていて、そういった店では“レア”か“ミディアムレア”で頼むのが一般的だと何かの本で学んだ。
小さいころから“生ものは火をよく通して”という教育を受けた私は、生が苦手で、それで“ウェルダン”と答えた訳なのだが、まさか陽子も同じ焼き方を選ぶとは思わなかった。
肉を焼いている間、私たちは先に赤ワインを頼み、飲んでいた。
周りを見ると私たちの他に客はまばらだった。
恐らく最近近くに出来たフレンチレストランの影響だろう。
私がそう思っていると、陽子は顔を近づけてきて私に小声で尋ねてきた。
「ねえ、大丈夫?ここ高いんでしょう?」
「大丈夫。軍資金はいっぱいあるから」
「別にファミレスでも良かったのに」
陽子は済まなそうな顔をした。
私は当初、もっと洒落たフレンチやイタリアンの店に行こうと思っていた。
姉のいうとおり、そういった店に連れて行けば陽子が喜ぶと思ったからだが、彼女は逆にそういった店は肩が凝るからいやだと拒否した。
どうやら姉の言うお洒落な店に行きたいという欲求は陽子にはまったく存在しないようだった。
私は半ば残念に思ったが、後の半分は安堵した。
陽子が流行に流される女ではないことが分かって嬉しかったし、もともとは私自身もそれほど、雰囲気に拘る方ではなかったからだった。
「ねえ、見て。すごい、すごい」
職人の手さばきにいちいち感動している陽子はこどものようだった。
私は陽子の意外な一面を発見し、つくづく陽子は楽しませてくれる娘だなあ、と思った。
ありがとうございました。
店員の威勢のいい声が店内に響き渡った。
会計を済ませ、外に出ると陽子が空を見上げていた。
私が何だい?と尋ねると、彼女は、雪、と答えた。
私も陽子につられて上空をみると白く細かい雪が舞ってきた。
「ホワイトクリスマスだ」
私がそう言うと「そうね」と彼女は呟いた。
私が陽子の方を見やると彼女はまだ上空を睨んでいる。
彼女の息は白く、息を吐くたびにそれは空を上り、やがて夜の闇に消えて行った。
私は彼女に問いかけた。
「これからどうする?」
「帰る。山は雪が積もるの早いから」
「そうか、残念!」
私がいかにも残念そうに言ったことで彼女は気の毒におもったのだろうか、陽子は見上げるのをやめ、「でも・・・」と言葉を続けた。
「でも?」
「あなたが誘うなら・・・」
「え?」
「あなたが誘ってくれるなら、どこにでもついていくわよ」
陽子は白コートのポケットに両手を差し込み横顔だけを私に見せて嬉しそうにそう言い、それからこう続けたのだった。
「少しでもあなたと一緒にいたい」
それから先、駅に着くまでのことはよく憶えていない。
気が付いたら私は陽子の手を引き、駅の階段を駆け上がっていた。
どうやら私は彼女の「一緒にいたい」という言葉に触発されたようだ。
私は改札前まで陽子を連れて行き、そこで手を離した。
「ねえ、どういうことなの?ここは駅よ」
陽子はなにをするのとばかりに攻撃的になっていた。
「ここが目的の場所。これから先は君だけに行ってもらう」
私はポケットから鍵を出し、陽子の手に握らせた。
「コインロッカーの鍵。そこにある荷物を出してきて欲しい」
「なんで?私が?」
「いいから。早く。向かいの角を曲がった奥にあるから」
私がせかすと陽子は不満げな顔をしてしぶしぶと角を曲がり、奥へと消えて行った。
彼女が戻ってくるまでは5分とかからないだろう。
私は、時計を見、彼女が戻ってくるまで待った。
5分、10分、15分・・・・。
15分を経過しても一向に彼女が戻ってくる気配はなかった。
私は心配になり、コインロッカーがある方向へと歩いていった。
角を曲がり、奥に行けば彼女はいるはずだ。
私は角を曲がると、奥の方を覗き込むようにして前を見た。
すると、コインロッカーの一番奥、行き止まりになっているところに陽子は体育座りをして俯いていた。
ロッカーは開いたままになっている。
陽子の手には私が書いたメッセージカードが握られていた。そして赤く見事に咲き誇った冬薔薇の花束を抱きしめていた。
なんだ、いるじゃないかと彼女に近づき、肩に手を掛けようとした瞬間、私は彼女の肩が微かに震えているのに気が付いた。
「泣いてるのか?」
私がそう聞くと、陽子は俯いたまま大きくかぶりを振った。
そしておもむろに立ち上がり、顔を上げ、濡れた髪を片手でかき上げ、泣き笑いの顔を私に向けた。
その何とも言えない表情と薔薇の花を抱いた陽子はまるで絵画のモデルのようだった。
目の下を見ると、涙のあとがくっきりと出ていた。
うれし涙なのか?
私の目的はともかく彼女を泣かせるのではなく、喜ばせることだったので、これではいかんと矢継ぎ早に言葉を投げかけた。
「ちょっとしたドッキリのつもりだったけど、びっくりした?」
「・・・うん」
「俺、軽い男かな・・」
「・・・うん」
「ガキみたいなことして、呆れてるだろ」
「・・・うん」
私はなにか気の利いた言葉を陽子に投げかけようとしたが、どうもうまくいかなかった。
考えれば考えるほど、私が本当に伝えたいことが口からでてこない。
どうしたらいい?
私は考えるのをやめた。
ただ一言でいい。ただ一言彼女に伝われば良いのだ。
私は背筋を正して覚悟を決めた。
そして深呼吸をひとつすると、陽子に向かってゆっくり慌てずに、はっきりと言ったのだった。
アイシテイマス。
「まあまあ、濡れて・・・」
母は私たちの様子を一目見るなり奥からバスタオルを持って戻って来た。
「ありがとうございます」
陽子が赤いバラの束を手にしながらお礼をいうと、さあさ、上がって、と彼女を家の中に上げることを許可した。
外は雪だった。最初は小粒だった雪も大きな塊になって絶え間なく降り続いていた。
コインロッカーの出来事のあと、私たちはお互い別々の列車に乗って帰途に就く予定だった。
それが陽子の乗る路線だけが、不通になってしまった。駅員に聞くとM町の方は雪がかなりひどいらしく、途中の駅までは行くけれど、そこで折り返し運転になるとのことだった。
陽子はタクシーで帰るからいいと言ったが、山までタクシーでって、どこまで行けるかわかりゃしない。
私は半ば強引に自分の家に来るように勧め、陽子を連れてきたのだった。
「初めまして、私は・・・」
陽子が挨拶をしようとすると、母は「陽子さんね。分かっているわよ。それよりその薔薇、私が預かっておくから」と言って陽子から薔薇をゆっくと受け取り、また奥にもどっていった。
陽子を連れてきたのは突然の出来事だ。私は何故母が陽子の名前を知っていたのか不思議だったけれど、姉の顔が浮かび、なるほどと納得すると上にあがるように陽子を誘導し、二階の自分の部屋に連れて行った。
八畳の部屋は閑散としていた。
南側に机と西側の壁側にベッドが備え付けられている他は中央に電気ごたつが敷かれているだけで特に何もない部屋だった。
私はこたつの電源を入れ、陽子に座るよう促した。
私たちはお互い向かい合うようにして座り、背を丸めるようにして手をこたつの中に入れ、顔を上げふと目が合うと、ほぼ同時に目を伏せた。
「落ち着いた?」
「うん」
「コインロッカーの前で泣かれたときにはどうしようかと思ったよ」
「泣いてはいません!!」
「そうなの?」
「うん。ただ、感動はしたわ」
「感動?」
「そう。感動。・・・・あたし男の人にあんなことされたの初めてだったから」
「気障だったかな?」
「ううん、嬉しかった」
陽子はふと自分がコートを着たままなのに気づくと、ごめんなさいと言い、コートを脱ぎ、丁寧に重ね折をして脇に置いた。そして、両手をこたつ板の上に重ねて置き、その上にあごを乗せた。
「ねえ・・」
「何?」
「なんて言ったの?・・・あのとき」
陽子は覗き込むようにして私を見た。その様子はなにかを欲している猫のようだ。
私は、えっ、と陽子の顔を見、ああ、あのときの言葉かと気づくとなんだか顔が熱くなった。
「聞いてなかったの?」
「あのとき頭が真っ白になっていたから・・・」
陽子は笑っていた。真っ白になったと言いながら、本当は違うといっている顔だ。
「あれは、一生に一度だけの魔法の言葉。二度目はないよ」
「でも、聞きたい」
「駄目!」
「ケチッ」
「ケチで結構。一生心に秘めておくよ」
私が言うと陽子は、残念無念と呟きながら背伸びをした。
それから陽子はおもむろに立ち上がり、私の部屋の周りをぐるりとひと回りした。
机の上に置いてある漫画本を見つけると、ふーん、こういうの読むんだといい、またもとの場所に戻った。
きょろきょろと辺りを見回すと、「広い部屋ねえ」
私の顔をじーっと見てたかと思うと、コアラに似てるねえと笑った。
そうして、右手を口元にやり、大きな欠伸をし、ごめん、さっきからあたし限界なの、寝るわ、ゴロンと横になるとこたつに潜ってしまった。
私は突然のことに驚き、「おい、風邪ひくからベッドに寝ろよ」と言ったが、彼女はどこ吹く風、「大丈夫、大丈夫。あたしどこでも寝られるから」と言って数秒後には寝息をたててしまった。
初めて来た男の部屋で寝てしまうとは・・・・。
私は毛布をかけながら、陽子の寝顔を見た。
安心しきった顔だった。
まったく臆病なのか大胆なのか。幼稚なのか、大人なのか・・・・。
私は苦笑し、起ちあがるとサッシを開けベランダに出た。
外の雪は激しさを増していた。
風に舞って降っていた。
道路に降り積もる雪にはわだちさえもなかった。
私は冷気を感じながら、一日のことを振り返り、そしてこう呟いたのだった。
明日になれば彼女はきっと・・・・。
いざ、陽子の家へ
「あら、ネクタイが曲がっている」
車に乗り込もうとしたとき、母がちょっとこっちに来なさいと言って私を呼び止めた。
私が母のところまで戻り、前に立つと彼女は、まったくもう、と文句を言いながらネクタイのラインを整えた。
「挨拶に行くんだからしゃんとしなきゃ」
母は頼りない息子である私を心配そうに見上げた。
「大丈夫、大丈夫。そんな心配することはないさ」
「大丈夫じゃないから言ってるの!!」
心配性の母は必要以上におろおろし、落ち着きがなかった。
「じゃあね。行ってくるよ」
私がそう言って離れかけると、待って、とまたもや声を掛けてきた。
「ねえ、やっぱり相手の方に何か持って行った方がいいんじゃないの?」
「いや、陽子がその必要がないって。却ってそんなことすると親父さんの機嫌をそこねかねないらしい」
私がそう説明しても納得のいかない顔だ。
私は逃げるようにして車のところまで戻り、乗り込むとエンジンをかけた。
目的の地まで小一時間、私はゆっくりとアクセルを踏み、心配する母を尻目に車を発車させたのだった。
あのクリスマスイヴの出来事から8か月が過ぎようとしていた。
その間に私たちはお互いの愛を確認し、ゆっくりと育んでいた。
それはいわば、暗闇の中、手探りでお互いの温もりを確かめ合うといった作業に似ていたが、目がなれ、お互いの顔がよく見えるようになると、私たちは次の段階へと進まねばならないことに気が付いた。
つまりそれは現実的に結婚を意識することに他ならないことであり、私は7月の或る夜、車中で陽子にプロポーズをした。
結婚しようよ。
それは嘘も偽りもなく飾りのない私の本心で、指輪もなにも用意してなかったけれど、陽子自身もそれを待っていたようで、私の目を見つめると無言で首を縦に振ってくれた。
私は喜んだ。天にも昇る様な気持ちになったけれども陽子の次の一言で目が覚めた。
「お互いの両親に報告しなきゃ、ね」
親、か・・・・。
私の両親は問題がなかった。そのころにはもう何度も陽子を私の自宅に招待し、父にも母にも紹介済みだった。
だが、陽子の両親にとって私はまだどこの馬の骨とも分からない存在だった。
何度か陽子を家の前まで送っていったことはあったが、私は彼女の両親に会ったことはなかった。電話で陽子の母親と話したことがある程度だった。
もしかしたら強硬に反対されるかもしれない。
私のそんな不安が顔に出ていたのだろう、そのとき陽子は「大丈夫よ。段取りは私に任せて」と笑った。
自分が動かないことに私は少しだけ罪悪感を感じたが、仕方がない、陽子の家のことだしと割り切り、ともかく私は陽子の報告を待つことにした。
陽子から「成功!」との連絡を受けたのはそれから一週間後のことである。
陽子の段取りが功を奏したのか父親は娘の報告に反対しなかったらしい。母親の方は大賛成だ。
不安が晴れた私はさっそく陽子を介して挨拶に行きたいという旨を陽子の父親に伝えた。
返事が返って来るまでまた一週間ほど時間を要したが、「お盆が過ぎたころだったら」という相手方の意向を聞き、日程を調整した。
いろいろ考えたが、結局私が夏休み中の8月22日に会うことになった。
私と陽子はひとまず日程が決まったということで、安堵した。
さあ、あとは頑張ってよ、と陽子は私の尻をたたいた。
私は陽子に尻を叩かれながら、もうやるっきゃないなと覚悟を決めたのだった。
陽子の実家まではそれほどの時間を要さなかった。
道路が空いていたせいもあるのだろうか、国道から山に入る時間を加えても40分位しかかからなかった。
車を降り、辺りを見回すと山、山、山の景色。
ミンミンゼミがうるさいくらいに鳴いていた。
私はかなり緊張していて目前にある彼女の実家を凝視し、深呼吸をした。
陽子の実家はよくある田舎のタバコ屋で、正面が店の入口になっている。
空を見上げた。
青い空にひとつだけす白い雲がぽっかりと浮かんでいた。
さあ、いくぞ。
緩やかな夏の風が微かに私の頬を撫で、逃げるようにして通過し、山の木々を揺らしていた。
そして、誕生日
押し入れを片付けしていたら、大量のポケットアルバムが頭の上に雪崩れ込んできた。
いてっ!
私の頭を直撃したアルバム群は床に落ち、アルバムに挟んだだけの写真が見事に散らばった。
あ~あ
私は片付けをいったん止め、床に落ちた写真とアルバムを拾い集めた。
頭をかきかき床に落ちた写真を拾っていたら、一枚の写真に目が留まった。
スーツを着た私と義父と義母の三人が笑って写っている写真だ。
一体いつ撮った写真なんだろう?
私には憶えのない写真だった。
私が記憶を思い起こそうとしばらくその写真を眺めて座り込んでいると、同級会から帰って来たばかりの陽子が”まあ、なんてことを”というような顔をしてやってきた。
「なに散らかしているのよ!」
「いや、押し入れを片付けていたんだ」
「片付けがなんでこうなるのよ」
「いや、ちょっと手をかけたらこうなっちまった」
「ばかねえ」
私が間抜けた顔で、説明すると陽子は仕方がないといった風に散らかった写真を片付け始めた。
「ねえ」
「何?」
「この写真・・・」
私が手にした写真を差し出すと陽子は、ニヤリとして「ああ、あの時の写真ね」と手に取った。
「あの時って?」
「憶えてないの?」
「うん、憶えてない!」
私が自信を持って言うと陽子は少し驚いたような顔を私に向け、それから少し残念そうに呟いた。
「・・・・あなたが挨拶に来た日」
「えっ?」
「だからぁ、あなたが私の両親に私をもらいに来た日よ」
そう言われて、記憶が一気に蘇ってきた。
そうだ。あの日、あの時俺は陽子の実家に挨拶に行って、帰りがけに記念写真を撮ったのだった。
そんな私の様子を見ていて彼女は、まったくもう、と口を尖らせた。
私が陽子の実家に挨拶に行ったのは1993年の夏だった。
ミンミンゼミがうるさいくらい鳴いていた時期だったから間違いない。
午前中、街から山の麓にある彼女の実家まで車で40分はかかっただろうか。
車を降り、辺りを見回すと山、山、山の景色。
私はかなり緊張していて目前にある彼女の実家を凝視し、深呼吸をしたのだった。
陽子の実家はよくある田舎のタバコ屋で、正面が店になっている。
さて、どこから入ったものかと考えていると、裏手から彼女が出てきて、遅かったじゃないと言いながら手招きをした。
「10分前だぞ」
私がいうと彼女は「うちの父親はせっかちなのよ。早めに来てって言っておいたでしょ」と言い、先頭にたって私を入口に導いた。
樋口という表札が掲げられた玄関入口に立った私は緊張を解き放つ意味も込め、思い切って「こんにちは」と大声を出した。隣にいた陽子は、バカ!何を大声出しているのよ、と小声で窘めた。
「まあまあ、よくいらしたねえ。こんな田舎まで大変だったでしょう」
彼女の母親が出てきた。
「いえいえ、車だとすぐなので」
「ほー、立派な方だこと、陽子にはもったいない」
「母さん、そんなことより父さんのところへ連れてくよ。こんな挨拶さっさと終わらせたいから」
陽子がそういうと母親は、まったくもう、この娘は、といいながら私をどうぞどうぞと家に上がらせて奥の座敷まで私を連れて行ってくれた。
座敷まで行くと、陽子の父親の顔が見えた。厳格そうな父親だ。私の緊張は一気に最高潮に達した。
「初めまして、貝原亮太と申します。本日はご挨拶にお伺いしました」
テーブルをはさんで向う側に、父親。私は立ったまま慇懃に挨拶をした。
すると、厳格そうな父親はすかさず相好を崩し、「まあ、まあ、そんな気張らずに。まずは座って座って」と言った。
私は父親のあまりの変わりように拍子抜けし、少しよろけながら座布団の上に正座した。
隣に陽子も座り、さあ、さっさと済ましてよという陽子の視線を感じたので、私が話の口火を切ろうと前のめりになった瞬間、
「・・こういうときはなにからしゃべったらいいんだろう・・」
父親は誰ともなしに呟いた。
「えっ?」
「いやね、こういうの苦手だからさ。話の糸口が掴めないんだ」
「・・・・・」
「う~ん、そうだな。じゃあ、まず職業から聞いちゃおう。・・どこにお勤めかな」
「〇〇信用金庫です」
「ほぉー、大したところにお勤めなんだねえ」
「いえ、銀行さんに比べれば大したことありません」
「いやいや、大したもんだ。で、信用金庫ではなにやってるの?」
「営業です」
「営業さんかぁ・・・。あれだろ、預金集めたりするんだろう?」
「ええ、まあ」
「年齢は?」
「32です」
私がとりあえず受け答えをしていると、短気な陽子は耐えきれなくなったのか、「ねえ、父さん、そんなの私が前もって話しておいたでしょ。今日はもっと別な話があるんだから・・・」と口をはさんできた。
私は陽子の言うことも、もっともだと思い、再び姿勢を正し「・・・本日お伺いしたのは」と父親の目を見た。
「・・・・私と陽子さんも付き合って一年、そろそろだと思っているのです」
「そろそろ?」
「そうです。それで今日はお父さんにお願いにあがりました」
そこまで言葉を続けたとき、陽子の父親は右手の手のひらを私の前に向けて、ストップをかけた。
「・・・・そこから先はいいよ。言うな」
「で、でも」
私が戸惑っていると、彼はもとの厳格な顔に戻った。
「・・・恐らく君はまるでドラマのごとく、あの言葉を言いたいんだろうと思う。でも、私はそれを言われたらきっと”NO”と言ってしまう。理性では分かっているんだ。理性では”YES”といっている。けれど感情では”NO”なのだ。後生だ。言わないでいてくれないか・・・。そのかわり君たちが結婚しようとなにしようと自由だ。もし君が言ってしまえば、結婚さえも危うくなる。私はそれさえも許さなくなるだろう。だから言わないでいてくれないか・・・」
彼の顔を見た。それは父親の顔だった。大事に大事に育てた自分の娘を、意地でもどこの馬の骨とも分からない奴にくれてやるもんかという親父の顔だった。
私はそれを見て、なにも言えなくなった。勇気もなくなった。
そして、深い敗北感を感じた。
隣にいた陽子をみると彼女は茫然としている。きっと父親の突然の告白が信じられないのだろう。
失礼いたします。
私は立ち上がり、早々に退散することに決めた。
「ちょっと待って」
車に乗り込む寸前に陽子の母親が私を呼び止めた。
「ねえ、お父さんと私と写真を撮りませんか?」
こんなときになにを言うのだと思ったが、記念にと言われ、承知した。
陽子の母親は渋る夫を外に連れ出し、私たちは三人並び陽子が撮影者になった。
さあ、笑って笑って。
カシャッ
シャッター音がむなしく感じた。
「あれから、まだ君のお父さんに君をもらうことを許してもらってない」
私がいうと、陽子は尖らせた口を両端に広げてフンと笑った。
「なにが可笑しい?」
「だって、もらいようがないでしょ。父は3年前に亡くなったのだから・・」
「・・そうだったな。もう永久に許してはもらえないんだな」
「だから、私は永久に樋口家の娘」
「そりゃないぜ」
私が困惑した表情を見せると、彼女は続けてクスリと笑った。
「お父さんは俺のことをきっと嫌な奴だと思っていたんだろうな。・・どこの馬の骨ともわからない・・・」
私がそう当時を振り返りながら言うと、陽子は急に大きな声を上げて笑い出した。
「な、なに笑ってんだよ。俺はなあ、真剣にだな、お父さんから許しを得たかったんだ!」
「だって、だって、可笑しかったんだもの。あなた、写真の裏側見なかったでしょう?」
そう言って彼女は写真の裏側を私に向けた。
「どう?父の字よ」
写真の裏側、右下隅に実直な文字が小さく並んでいた。
我が息子、亮太。1993年8月22日誕生。
親のこころ、子知らず。だね。
陽子は泣きながらいつまでも笑っていた。
了