宇多田ヒカル「Be My Last」Music Video(4K UPGRADE )
Comment dit-on 'Make A Picture'? Andrew Bird
長澤知之×スキマスイッチ / 誰より愛を込めて (from Augusta Camp 2013)
竹内まりや - スロー・ラヴ (Official Music Video)
Crowded House - Oh Hi ft BBC Concert Orchestra (Radio 2 Piano Room)
THE THE - LOVE IS STRONGER THAN DEATH
こういう「ラブホテル」についての話題は、昔ならサブカルチャーとして語られたはずだ。
サブカルチャーはもともとは教養人のためのハイカルチャーに対してマイノリティーのための文化事象とされる。
だから、かつては趣味的であったり、素人の宴会芸的であったり、淫猥であったりの世俗的なしかし洒落たところのある文化だった。
それがそのいくつかの分野が知識人たちの研究対象となり、いつしかハイカルチャー寄りのものになっていった。
この「ラブホテル」を対象とするものについては、特にサブカルチャーとしてかつてはそういう雑誌に面白おかしく、淫猥で時に常識を逸脱して語られることが多かったし、その性質からとてもハイカルチャーにはなり得なかった。
しかし、ここでの語りはあくまでも常識的で真摯であり、もっと言えば文学的でさえある。
それは書き手である「時田 桜」なる人物が東京大学教養学部卒の大学院生ということと無縁ではない。
つまりハイカルチャー側の人間が「ラブホテル」というサブカルチャーになりがちな舞台の中で、自らの苦悩という命題をもって語っているというところによるからであろう。
ハイカルチャー側と彼女が認識している証拠として次の文章が結びにあった。
「私が東京大学の大学院生という”豊かな観察者”の立場だから、「選択」できる立場にいるから……」
なるほど。
ただ、それはそれとして彼女は映画『perfect days』を観た上でラブホテルで働く人々に対してこのような感想を持っている。
「ラブホテルのバイトに集まるほとんどが、高給と引き換えに高いスキルや能力を求められる仕事を選ぶことすらできない、“いろんな人”たちが多い。平山のようにたくさんの選択肢がある中でわざわざトイレの清掃員を選び取るような人間はとてもレアだ。
けれど、平山ほど高尚な生き方をせずとも、選択肢がそれしかない中で最初からラブホテルでバイトしているいろんな人は、私よりずっと健康そうに見えた。少なくとも、この映画を見て刺さる必要がないほどには健康だろうと」
平山のような人間はとてもレア?
平山ほど高尚な生き方?
果たしてそうなのだろうか。平山のような人間は少ないかもしれないがレアとも言い難いと思う。
「淡々とした同じ毎日を繰り返しているようにみえるが、彼にとって日々は常に新鮮な小さな喜びに満ちている。
昔から聴き続けている音楽と、休日のたびに買う古本の文庫を読むことが楽しみであり、人生は風に揺れる木のようでもあった。そして木が好きな平山は、いつも小さなフィルムカメラを持ち歩き、自身を重ねるかのように木々の写真を撮っていた」
同じ毎日を繰り返しているのは何も平山だけではないし、自分の好きなことに没頭することも高尚でもなんでもない。
逆に平凡でかつ世俗的、大衆的だとさえ思う。
大衆的であることはサブカル的である。平山は恐らくかつてのサブカルが脚光を浴びる前の大衆に根差していた潜在文化の中をただ生きているに過ぎないと思う。
しかし、私ははたと気づいた。前述の「ラブホテルのバイトに集まるほとんどが……この映画を見て刺さる必要がないほどには健康だろうと」までを何度か読み返した。「無為」について考えてみた。
「無為」のことを5⃣で時田 桜はビョンチョル・ハン『疲労社会』やニーチェの言葉をあげている。
能力があるのにーしないことが出来る、人は自信がないと無為を選べない、ともある。
彼女は無為を「能力があるのにーしないことが出来る」としながらも、実は「能力を求められる仕事を選ぶことすらできない、“いろんな人”たち」が初めからそんなことをしようとしなくても出来る人間たちであるとどこかで感じ始めていて、しかも自信なんてものは関係ないとも思っているのではないか。
結局彼女は「私が東京大学の大学院生という”豊かな観察者”の立場だから、「選択」できる立場にいるから」と思っていないのである。
そして「知識人」側にいようと「大衆」側にいようともはやそんなことはどうでも良いし、区別もない。私はただ豊かで健康に暮らしたいからここにいるのだと言いたいのではないか?
ーここまで。サブカルの話からあらぬ方向に行きかけたが何とか結論にまでたどり着けたか……と思うことにして終わりにする。
乱筆(?)乱文ご容赦を。
Comment dit-on 'Make A Picture'? Andrew Bird
長澤知之×スキマスイッチ / 誰より愛を込めて (from Augusta Camp 2013)
竹内まりや - スロー・ラヴ (Official Music Video)
Crowded House - Oh Hi ft BBC Concert Orchestra (Radio 2 Piano Room)
THE THE - LOVE IS STRONGER THAN DEATH
こういう「ラブホテル」についての話題は、昔ならサブカルチャーとして語られたはずだ。
サブカルチャーはもともとは教養人のためのハイカルチャーに対してマイノリティーのための文化事象とされる。
だから、かつては趣味的であったり、素人の宴会芸的であったり、淫猥であったりの世俗的なしかし洒落たところのある文化だった。
それがそのいくつかの分野が知識人たちの研究対象となり、いつしかハイカルチャー寄りのものになっていった。
この「ラブホテル」を対象とするものについては、特にサブカルチャーとしてかつてはそういう雑誌に面白おかしく、淫猥で時に常識を逸脱して語られることが多かったし、その性質からとてもハイカルチャーにはなり得なかった。
しかし、ここでの語りはあくまでも常識的で真摯であり、もっと言えば文学的でさえある。
それは書き手である「時田 桜」なる人物が東京大学教養学部卒の大学院生ということと無縁ではない。
つまりハイカルチャー側の人間が「ラブホテル」というサブカルチャーになりがちな舞台の中で、自らの苦悩という命題をもって語っているというところによるからであろう。
ハイカルチャー側と彼女が認識している証拠として次の文章が結びにあった。
「私が東京大学の大学院生という”豊かな観察者”の立場だから、「選択」できる立場にいるから……」
なるほど。
ただ、それはそれとして彼女は映画『perfect days』を観た上でラブホテルで働く人々に対してこのような感想を持っている。
「ラブホテルのバイトに集まるほとんどが、高給と引き換えに高いスキルや能力を求められる仕事を選ぶことすらできない、“いろんな人”たちが多い。平山のようにたくさんの選択肢がある中でわざわざトイレの清掃員を選び取るような人間はとてもレアだ。
けれど、平山ほど高尚な生き方をせずとも、選択肢がそれしかない中で最初からラブホテルでバイトしているいろんな人は、私よりずっと健康そうに見えた。少なくとも、この映画を見て刺さる必要がないほどには健康だろうと」
平山のような人間はとてもレア?
平山ほど高尚な生き方?
果たしてそうなのだろうか。平山のような人間は少ないかもしれないがレアとも言い難いと思う。
「淡々とした同じ毎日を繰り返しているようにみえるが、彼にとって日々は常に新鮮な小さな喜びに満ちている。
昔から聴き続けている音楽と、休日のたびに買う古本の文庫を読むことが楽しみであり、人生は風に揺れる木のようでもあった。そして木が好きな平山は、いつも小さなフィルムカメラを持ち歩き、自身を重ねるかのように木々の写真を撮っていた」
同じ毎日を繰り返しているのは何も平山だけではないし、自分の好きなことに没頭することも高尚でもなんでもない。
逆に平凡でかつ世俗的、大衆的だとさえ思う。
大衆的であることはサブカル的である。平山は恐らくかつてのサブカルが脚光を浴びる前の大衆に根差していた潜在文化の中をただ生きているに過ぎないと思う。
しかし、私ははたと気づいた。前述の「ラブホテルのバイトに集まるほとんどが……この映画を見て刺さる必要がないほどには健康だろうと」までを何度か読み返した。「無為」について考えてみた。
「無為」のことを5⃣で時田 桜はビョンチョル・ハン『疲労社会』やニーチェの言葉をあげている。
能力があるのにーしないことが出来る、人は自信がないと無為を選べない、ともある。
彼女は無為を「能力があるのにーしないことが出来る」としながらも、実は「能力を求められる仕事を選ぶことすらできない、“いろんな人”たち」が初めからそんなことをしようとしなくても出来る人間たちであるとどこかで感じ始めていて、しかも自信なんてものは関係ないとも思っているのではないか。
結局彼女は「私が東京大学の大学院生という”豊かな観察者”の立場だから、「選択」できる立場にいるから」と思っていないのである。
そして「知識人」側にいようと「大衆」側にいようともはやそんなことはどうでも良いし、区別もない。私はただ豊かで健康に暮らしたいからここにいるのだと言いたいのではないか?
ーここまで。サブカルの話からあらぬ方向に行きかけたが何とか結論にまでたどり着けたか……と思うことにして終わりにする。
乱筆(?)乱文ご容赦を。