からくの一人遊び

音楽、小説、映画、何でも紹介、あと雑文です。

SPECTRUM / In The Space(Super Remix)

2025-02-06 | 小説
SPECTRUM / In The Space(Super Remix)



London Grammar - America (Live)



Saho Terao – Glory Hallelujah (Official Audio)



Rufus Wainwright - Across The Universe (Official Music Video)



恋人ーUA



Vella - I'm Still Standing (Elton John Cover)





ちょいと本を読んだ感想を。

拙い文章だなあと思いながらも、性懲りもなくここに書いてみました。


小説三億円事件

佐野洋(さの・よう):1928-2013 推理作家。昭和3年5月22日生まれ。昭和28年読売新聞社入社。33年「銅婚式」が「週刊朝日」と「宝石」共催の懸賞小説に入選。翌年「一本の鉛」を発表し,作家専業となる。40年「華麗なる醜聞」で日本推理作家協会賞。48年-54年日本推理作家協会理事長。「透明受胎」「轢(ひ)き逃げ」など,斬新な着想による本格推理に定評があり,平成10年第1回日本ミステリー文学大賞。21年菊池寛賞。著作はほかに「葬送曲」「推理日記」シリーズなど。平成25年4月27日死去。84歳。東京出身。東大卒。本名は丸山一郎。

 
〇あらすじ
事実は小説よりも奇なり? 小説は現実よりも面白いか? 1968年に発生して日本中の話題をさらい、今なお未解決の、かの「三億円事件」をヒント・素材にして、推理作家がさまざまの視点からリアリティーのある五つの「小説・物語」として構成した、異色かつ出色の連作ミステリー集。


〇レビュー
 「三億円事件」とは1968年12月10日に起きた盗難事件である。恐らく50代以上であれば、殆どの人は知っているとは思うが、以下の年代であっても折あるごとにテレビなどで特集を組んだりしていたので、かなりの人が事件名くらい一度は耳にしたと思う。
 この 「三億円事件」、東芝府中のボーナスの現金を運んでいた輸送車が、偽の白バイ隊員に府中刑務所前にて停止させられ、車に爆発物が仕掛けられているので避難してくださいと言われ、全員が車から降りて遠ざけられた隙にそのまま現金を載せた車ごと、乗りこみ運転した偽の白バイ隊員によって盗まれてしまった世紀の大事件である。その後いくつかの犯人説がでたものの、刑事でも民事上でも時効となり、犯人は捕まらず迷宮入りになってしまった。
 この小説はそういった「三億円事件」を背景にした、推理作家である佐野洋が創作した五編の短編小説群である。まず順を追って説明してみよう。
1. 系図・三億円事件
「三億円事件」発生から一か月が経過した頃、或る新聞社に一つの情報が寄せられた。
戦時中、昭和19年6月にほぼ同じ手口で2,400,000円もの金が奪われた。事件の発生地は愛知県、海軍工場前。奪われたのはその工場の従業員の給料。犯人はサイドカーに乗った憲兵のなりをした二人組。といった違いはあるが、その手口については同じものであった。
 調べるうちに、その事件の関係者の一人と思しき美容外科医が浮かび上がるが……。
 出だしから犯人の特定に至るまでの話が展開されるが、そこまで核心に迫るのはこの短編とあと一編だけである。そのせいか所々犯人もこうしたのではないかと現実の事件とリンクするようなエピソードがある。それにしても戦中の海軍工場の事件、本当にあったのだろうかと思わせる。さすが、推理作家・佐野洋である。

2. 三億円犯人会見記
 N新報サブキャップの田川が春日康子というシングルマザーと出会ったのはひょんなことだった。それを契機にちょっとした関わりを持った田川は三億円事件の犯人に繋がるかもしれない情報を得た。康子を通じて犯人への接触を試みた田川はついに犯人との単独会見に成功したが、それはその後の思わぬトラブルへと繋がる罠だったー。
 これもよく練られた推理物だなと思った。現実にありそう。作者は「三億円事件」は誰もが知っている世紀の大事件だけに、事件の説明がいらない、だから推理作家にとってはどうとでも書けるし、とても扱いしやすいと言っていたが、なるほどこういう風に扱う手があったのか、と気づかされた。
3. 三億円犯人の情婦
 T省の役人である春日井。彼はT省の同期の役人の中でも評判になるほどの美人な妻を娶ったが、実はそこには愛があったわけではない。ただ誇りたい、己の自尊心を満足させるために「彼女を所有した」という感じなのである。ある日妻の奇妙な行動により「男」がいると感づいた彼は、友人経由で探偵に調査を依頼したが、その後に判明する事実の数々は衝撃的といっていいものだった。
 結末は大体予想どおりだったが、男の立場から言わせてもらうと、こんな春日井のような人間でも同情してしまうような仕打ち。
4. 三億円犯人の挑戦
 これは私にはちょっと分かりかねる短編だった。パトロンが情婦と密通している雑誌の編集長を陥れる話であるが、その中で「暗号文」の解読という作業が待っている。しかも競馬繋がりの暗号なので、その辺に無知な私にとってはかなりの難問だった。そこがある意味メインと言える小説なので、理解できない私は斜め読みをして済ませてしまった。なので、この短編については詳細な感想は述べられない。
5. 三億人犯人の秘密
 フリーのルポライター津岡は、ある出版社で「三億円事件」についての座談会にて速記記者の小出品子と出会う。後日再度品子に出会った津岡は、「自分が三億円犯人だ」と称する誇大妄想狂の男がいることを品子に告げられる。それに興味を持った津岡はその彼が入院している精神病院での面会を試みるのだが……。
 これは勿論三億円犯人に行き着く話ではあるが、それよりも三億円がどこにあるのかに焦点を当てたところが、非常に面白い。結末に意外性あり。時代が1970年前後なので今ではそんなことは出来ないが、成程なあと思った。さすがだなと思う。

 さて、これらの短編を読んで意外なことに新鮮な驚きがあった。この事件はもう50年以上前の古いといっていい事件であるし、1970年代でも度々小説になったり、漫画にもなったり、テレビでドキュメンタリーみたいなものも放送されていた私自身もよく知っている事件である。また今回の小説も1970年代に書かれたものである。つまり、事件自体は衝撃的であってよく憶えているのだけれど、50年ともなれば、さすがにそれに関しての推理小説などはその時代の社会状況にしろ、事件の解明方法・背景などは「古い」と感じるものだろう。しかしこの小説たちはそれがなく逆に新鮮に感じたのだ。これはどうしたことだろう。
 思うに例として違うところはあるにしても、令和を生きる若者が昭和の歌を聴いて古いものだと分かっていても、なお新鮮に感じるというその感覚に似ているのかもしれない。何となくではあるが……。
 今回久しぶりの推理物の小説だったが、非常に面白く読めた。特に1と5については、具体的に犯人は誰なのか、奪った3億円はどういう理由で何処にあるのかまで突っ込んでおりその推理は意外性に富んでいた。ただ4だけは私の好みの問題で、完全には読み切れなかったが、それでもこの佐野洋という推理作家の作品は読む価値があるなと思う。興味が湧いたら一度手に取ってみればいいと思う。なお「小説三億円事件」と同じタイトルの小説がある。著者は推理小説界の大御所だった松本清張である。ことらも一度読んでみたいと思う。
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AURORA - Your Blood

2023-12-03 | 小説
AURORA - Your Blood



Casablanca "Reborn (at midnight)"



Lola Young - Annabel's House



戦争は知らない    カルメンマキ



Sayonara Bokuno Tomodachi       森田童子



Mitski live met 'Bug Like An Angel' | 3FM Live Box | NPO 3FM


かなり久しぶりに本の紹介です。



むかしのはなし


著者 三浦しをん

1976年、東京生まれ。2000年、『格闘する者に○』でデビュー。以後、『月魚』『秘密の花園』『私が語りはじめた彼は』『むかしのはなし』など、小 説を次々に発表。2006年、『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞受賞。他に、小説に『風が強く吹いている』『仏果を得ず』『光』『神去なあなあ日常』な ど、エッセイに『あやつられ文楽鑑賞』『悶絶スパイラル』『ビロウな話で恐縮です日記』などがある。(「BOOK著者紹介情報」)より


〇あらすじ

 三カ月後に隕石がぶつかって地球が滅亡し、抽選で選ばれた人だけが脱出ロケットに乗れると決まったとき、人はヤケになって暴行や殺人に走るだろうか。
 それともまるで当事者ではないように諦観できるだろうか。今「昔話」が生まれるとしたら、をテーマに直木賞作家が描く七作からなる衝撃の本格小説集。

〇レビュー

 まず、この小説集は 七作品からなっている。あらすじにあるように隕石によって地球が滅亡する三か月前の出来事を七つ、それぞれ主人公や他のキャラクターを入れ替えて話を作っている。それゆえそれぞれの登場人物の行動や心理はさまざまで、読者にとっては肯定できるところがあったり、否定したり、それもまたさまざまであると思う。
 ただ、そういったさまざまな七つの作品であっても、その根底に流れるものは一つなのだと感じる。それは「人間の本性」なのではないだろうか。作者は「人間の本性」を私たちに突きつけることで、「さあ、それであなたはどうですか?」と私たちに問いかけ、返事を待っている、そんな感じがしてならない。
 さて、前置きはここまでにして、それでは七作品それぞれについて私の感想めいたものを書いていこうと思う。なにぶん私は評論家ではないので多々不明瞭な部分があるかもしれない。その辺りはご愛嬌として受け取っていただけたら幸いである。

1.ラブレス

 二十七歳で男は死ぬという家系に生まれたホストの男の物語。運命のいたずらか、二十七歳の男はやくざに追い詰められ、倉庫の隅に隠れている。死が確実に迫って来ているなかで、男は過去を振り返りそれを携帯のメールに書き留め、ある女に送信しようとしているのであった。
 ざっとした粗筋だが、まあそういう物語である。一種のサスペンス仕立てで刑事ドラマなんかでよくあるシーンではあるが、やくざに追い詰められるに至った経緯が面白い。人生、本当にちょっとしたことで命を落とすことになるということと運命には逆らえないということをきっと作者は描きたかったのではないかと思う。物語に入る前に「かぐや姫」の話の粗筋が載っているのであるが、多分これをモチーフにしてるのではないかと推測するが、正直に言って物語とどういう共通点があるのかは私には分からない。

2.ロケットの思い出

 プロの空き巣が(恐らく)刑事に自分の過去と捕まるまでの経緯についてを明かすお話。そう簡単に言ってしまうと身も蓋もないが、読んでみるとやはりこれも「運命」というものを感じてしまう。それでも軽妙な語り口で語られるので余り重くは感じない。ロケットというのは空き巣が昔飼っていた犬の名前で、その頃の事を語った場面には一種の郷愁を感じる。考えてみれば「あるようでない」、「ないようである」、のどちらともつかない話であるが、その点がたんたんと流れる時と独特の空間を作り出しているように思う。
 これもまた初っ端に「花咲爺」の話が載っている。

3.ディスタンス

 実の叔父と姪との許されぬ恋の話。ただし、叔父の方はある性癖が関係しており、年月が経つにしたがって姪に対する興味を失ってゆく。それを信じられずに精神的に深い沼にはまってゆく姪。
 三浦しをんとしては珍しくどろっとした話。彼女は文体からしても割とカラッとした文章を書き、結末もそうした傾向にあるが、ここでは読んでみて余り後味が良いとは言えない。最初に「天女の羽衣」の話が載っている。これはタイトルの「ディスタンス」という意味を考えると合点がいく。「ディスタンス」には隔てる、距離があるというような意味があり、要するに「天女の羽衣」は彦星と織姫の前段の話であり、そういう意味で三浦しをんは「二人を隔てるものは何か」ということを書きたかったのだということに思い至った。

4.入江は緑

 眼前に海、後方に山に囲まれた漁村に住んでいる「ぼく」は家業である舟屋を営んでいる。美しい故郷、そんな風光明媚な土地から離れたことのない「ぼく」は穏やかな日々を送っていたが、ある日5年前に土地を出て行った兄のように慕っていた修ちゃんが謎の美女を伴って帰郷して来て…。
 ここでやっと一冊に纏められた今回の連作の核心ともいうべき事実が判明する。これによって話の数々がそれが起こる前後の地球に住む人々の葛藤、覚悟、生き方を著していることに気づく。私は最初に「人間の本性」と書いたが、もう一つ、大事な要素として「運命」がある。つまり、必ず訪れる「運命」に対して「人間の本性」はどのようにして抗うのか、あるいは諦めるのか、とそういうことなのである。
 最初に紹介されるのは「浦島太郎」の話。ああ、成程ね、と思った。

5.たどりつくまで

 隕石が地球に衝突する前のお話。
 地球脱出のロケット搭乗者が抽選で選ばれている中、搭乗を諦めて日々をタクシー運転手として働いている私はある夜、とても奇妙な女性客を乗せて……。
 不思議な話である。少しサスペンス風味があって、なのに結末がみえない。謎ばかりが残る物語。最後にタクシー運転手の「正体?」が明かされるが、微妙に差別の問題が絡んでいるのかなと感じる。ここでは「鉢かづき」という物語がとりあげられている。正直、私はこの話を全く知らなかったのだが、何故この話なのかということは次の「花」という短編を読んで、説明出来ないまどろっこさはあるが感覚的には分かったような気がする。

6.花

 前作でタクシーに乗った女性客が、猿と蔑めていた男と結婚し、地球脱出のロケットに搭乗する。現在は火星?に造られた半径5㎞のドームに住み暮らし、ストレスがあるとその猿が用意した「カウンセリングロボット直通回路」に悩みを打ち明けている。その悩みの中で過去を振り返り、最後には猿への気持ちが変わっていたことに気づくお話。
 読んでいて空っぽで嫌な女と思ったけれど、最後に残ったのが「愛情」だという終わり方だったので救われた気分になった。
 これは「猿婿入り」という昔ばなしを未来に置き換えた話。ちょっと結末の意味が異なっているように感じるが、「献身性」というところでは「猿婿入り」を取り入れた理由が分かるような気がする。

7.懐かしき川べりの町の物語せよ

 モモちゃんはヤクザの息子だ。彼には不安や恐怖という概念がなく、熱することも冷え込むこともない分残忍な心を持ち合わせている。本能のおもむくままに暴力を振るうと相手が瀕死な状態になるまで止まらない。そんなモモちゃんと「ぼく」が仲間になるきっかけが出来てー。
 これも隕石が衝突する何か月か前の話だ。これは恐らく1.のホストの男の話と繋がっている。この話が「現在」の話とすれば、1.のホストの男の話は「過去」の話ということになる。面白いのは7.の話で終わりということではなく、また1.に戻ってゆくといういうなれば一種のループ小説になっているところだ。しかもただ繰り返すだけではなく、一旦6.の花で舞台は未来に飛び、過去について語るという手法を使っている。ここで物語の時間軸は実は物語に於いてそれほど重要なことではなく、むしろこの小説を読んでいる私たちの「今」の時間の方が大事であることに気づく。私たちは物語を通じて過去にも未来にも行ける。だけども現実の私たちはどうあがいてもどちらにも行くことができないのだ。それだけ不安な心に苛まれることになるであろう。ではどうしたらいいのか。それは「今」、この瞬間を精一杯生きればいいのではないかと思う。そうやって、一歩ずつ未来に向けて進んでいけばいい。その先に何があるのかは分からない。でもきっと絶えず過去のことを後悔したりする日々や、先のことが何もかも分かってしまうような一生よりも、遥かにましな人生を送れるのではないかと思う。この物語で取り上げたのは「桃太郎」。何だかその理由が分かったような気がした。


 以上七編の物語についてまとめてみたが、全体的に感じるのはどこか冷めたような空気感が物語を支配しているようだということだ。どの物語も。それは読んでいる私たちによるものではなく、私たちと同じ空間で、見えない例えば巨大な目玉のようなものが、静かにずっと物語の出演者たちを観察しているような。……巨大な目玉、いや、それはもしかしたらこれらの物語を書いた作者から分離した冷徹な魂の目なのかもしれないが。



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Paul Simon and Art Garfunkel - "Bridge Over Troubled Water" (6/6) HD

2023-11-09 | 小説
Paul Simon and Art Garfunkel - "Bridge Over Troubled Water" (6/6) HD



ははの気まぐれ 「ぱらそるさして」(梅田HARDRAIN 2003.11.14)



Billy Joel - The Downeaster 'Alexa' (Live at the Los Angeles Sports Arena, April 1990)



藤原さくら - daybreak (Lyric Video)



流星のサドル      槇原敬之



Molly Tuttle "White Rabbit" Portsmouth, NH 5/25/23



そーたパパが会社員だった頃

そーたの名前は正式には颯大と書いて《そうた》と読む。苗字も入れれば神代颯大である。だからどうだっていう訳ではないが、皆がそう呼ぶのが彼にとってはちょっとだけ気に障るときがある。特に今年十五になる娘の茜音がそーたのことを《そーたパパ》と呼ぶのは勘弁してくれ、と彼は思うのだ。
 そーたは県内に三店舗ある書店を経営している。不況のおり、経営は大変だが奇跡的に何とかやっていられる。
 彼は、元々は勤め人だったが、茜音が生まれる半年ほど前に祖父が古くから営んでいた小さな町の本屋を閉めると言い出したので、勤めていた会社をすっぱりと辞めその本屋を継いだのだった。
 最初、祖父は無理するなと言ってくれた。が、会社員でいることにあまり意味を感じられなくなっていたし、丁度その頃妻の真莉愛のお腹の中に小さな命が宿ったことが判明したこともあって、どうせなら何もかも変えてしまおうと思ったのだ。彼は自分が本屋を継ぐのだと決心し、当時住んでいた家も引っ越して今のこの土地へやってきたのだった。
 店を継いでから十五年余り、たった一軒の小さな町の本屋だったのが、県内三地域に店舗があるそれなりの中小書籍小売企業にまでなった。地方の本屋が次々と消えていく中で、それは信じられないことだった。その間、茜音は活発でやや口が過ぎるところはあるが、親想いの優しい子に育ってくれた。真莉愛も茜音が自分から手が離れる頃に、会社の経営に参加してくれるようになった。幸せだなとそーたは思う。
ただ、そのようなことを思い浮かべるとき、どうしてもあの頃のあの少女との出会いを彼は思い出す。
 ―潮音ちゃん、君は今も元気でやっているのだろうか。


 当時そーたが会社員としてぺーぺーだった頃、駅で二人の母子をしばしば見たことがあった。季節は冬になっていたと思う。
彼は服装を憶えていなかったが、お母さんと思われる方はまんまる顔の大きな目、子供の方はぺこちゃん風のお茶目そうな女の子、という感じだった。お母さんの歳は想像がつかなかったが、女の子は小学生になったばかりだったろうか。
ふたりはいつもそーたが下車する駅の改札を抜けて、すぐの階段を下りた先に立っていた。見るからに誰かを待っている風だった。
そーたは大抵十九時五十六分に駅に着く電車に乗って帰って来ていたので、彼女たちが当然その時間に帰ってくるお父さんあたりを待っていることは想像出来たが、それにしてもふたりの行動は妙だと思っていた。
彼はともかく後ろに人が付いてきて急がされるのが嫌で、いつも階段を下りる人の列の最後尾にいることを常としていたが、何気なく見ていると、ふたりの母子は先頭から最後尾の彼までの顔を確認しているようで、それが終わるとお母さんがやや腰を落とし気味にして、何やら女の子の小さな耳に囁いていた。すると明らかに女の子は残念そうな仕草をしたのだった。
待ち人来たらず、か?
どこか不思議に思いながらも気になったのは最初の頃だけで、いつしかその時間にふたりをみることは、風景のひとつのようになり気にならなくなっていった。

彼は恐らく春を過ぎたあたりでふたりの姿が見えなくなったことに気付いたが、普通に少しだけ残念に思い、普通に忘れていったのだった。

ふたりのうち女の子の方に再度出会ったのはそれから三年くらい経ってからだった。
その日そーたは最悪な気分だった。
当時彼はある会社の営業担当で日中外まわりをしていたのだが、最後の訪問先のある商店で入口に入る際、シャッターが少し下がっているのに気づきながらも頭を下げるタイミングを間違え、しかも急いでいたこともあり大きな音とともに額をシャッターに打ち付け、なんと流血してしまったのだ。ありえないこともあるものだ、と今にしてそーたは思う。
大きな音に驚き、その顔を見た商店主は一瞬口を半開きにして、その後あきらかに笑いを隠しながら奥の部屋から救急箱を下げてきて、そこから手早く脱脂綿に消毒液を含ませ近くの椅子に座れとそーたにいいつつ、彼の鼻脇から額までこれでもかというくらいに押し付け拭い、最後に流血場所である眉間のやや上に超特大のカットバンをパンと貼ってくれた。
「悪いがこんなドジな奴とは、ちょっとなあ、危なくて契約できないやな」と商店主はまだまだ抑えきれないといった風に口に手を遣り、目は明らかに笑いを含んでいた。そーたは商店主が彼の不幸をこれ幸いと契約を断る口実にしたことは分かっていたが、信用を失ったという点は確かなので、怪我の手当てをしてくれたことに感謝の言葉を述べつつ、その場はすごすごと引き下がるしかなかった。
会社に帰ってから事の経緯を上司に報告すると「バカ」と怒鳴られ、十違うそーたが秘かに社内一可愛いと思っていた新人女子社員には軽蔑の目を向けられるという散々な日であった。
そんなこんなで悲惨な一日の仕事を終え帰路に就き、列車に乗ってルーティーンどおり十九時五十六分に地元の駅のホームにそーたは降り立った。改札を通って人の列の最後尾で顔を伏せながらゆっくりとその日一日の悪夢を振り返り、「バカだなぁ」と独り言ち階段を下り切ったときだった。
足を大地につけ一旦伸びをして、駅から十五分くらいかかる我が家へと向かおうとしたところ、なにやら刺すような痒いような視線を感じたのだ。
ん、レーザービームか?
ゆっくり視線の先を手繰ると、少し離れたところに女の子が立っていることに気が付いた。
どのくらいの歳なのか、まだ思春期に入る前なのかな、とそーたは思った。
彼女は彼と目が合うと、にこっと笑った。……お茶目そうだ、と彼はその笑い顔に好感を持った。
女の子に笑いかけられるのは結構いい気分になるものだ、とも思ったが、なんだか面倒に巻き込まれそうな予感がしたので無視を決め込み、そーたは再び前を向いて歩き出した。しかし百メートルほど歩いて軽い下り坂にさしかかると、女の子のことがどうにも気になりだして仕方がなくなった。いつになく大きなカーブを描く駅前道路を走る車の風切り音が背中に感じられた。
そーたの記憶の底に住む形のない何物かが「思い出しなさい」と囁いていた。
俄かに立ち止まり考えてみた。
お茶目そうな女の子だ。何故こんな時間に駅のあんな場所に……誰かを待っているのか。
キーワードを繋ぎ合わせてみた。
ふと「もしかして」と思い至り、そうなると答え合わせをしたくなって居ても立ってもいられなくなる癖のあるそーたは、早速走るように歩幅を広げ駅へ舞い戻った。
彼女と目を合わせてから十分もないと思われたが、もといた場所には誰もいなかった。そーたは焦ったが、幸運なことに女の子はすぐに見つかった。駅前広場の少し離れたところにベンチがあり、そこに座っていた彼女が吃驚した顔でこちらを見ていた。
そーたはゆっくりと女の子のもとへ歩み寄った。すると彼女もベンチから腰を上げ、なんと今にも泣きそうな表情をしてそーたのもとに駆け寄って来たではないか。そーたと女の子との間の距離がそーたの歩幅くらいになったとき、女の子は立ち止まり、ハアハアさせながら彼を少し見上げながらこう言った。
「やっぱり潮音のパパ?パパだよね」

女の子の名前は遠藤潮音。
小学校四年生だといった。
三年前の母子の子はやはり潮音ちゃんで、母はママで「会ったことのないパパ」に潮音ちゃんが会いたくてママと二人で駅の階段下で待っていたのだということだった。
「で、結局会えなかったわけだ」
「うん」
ふたりはベンチに並んで座り、事の経緯をそーたはできるだけ優しく潮音ちゃんから聞き出そうとしていた。
夜だったが駅前の広場には街灯が何本かたっていて、それほどの暗さは感じなかった。
「潮音ね、なんとなくわかっていたんだ。……パパがはじめからいないこと」
「だから諦めたんだね」
「うん」
どうやら三年前の潮音ちゃんは自分だけなぜ父親がいないのか母親に迫ったようだ。彼女の話は今ひとつ判然としないところがあったが、推測するに父親は潮音ちゃんが生まれる前に亡くなったのだろう。もしかしたら事情があって、籍を入れる前だったかもしれない。それで仕方なく、母親は「遠くに行ってるのよ。列車に乗っていつか帰ってくるよ」と……。十九時五十六分に駅に着く列車に乗って。そーたは考えを巡らせたがそこでひとつ疑問が沸いた。
「じゃあ、なんでまた今日、駅で待っていたの。お母さんは一緒じゃないの?」
「夢を見たの」
「夢?」
「うん、ママがでてきたの……、パパらしい人も一緒に」
そーたは潮音ちゃんの顔を見ながら少しおかしいぞ、と思った。父親はともかく母親までも一緒に夢に出てくるって、そのシチュエーションは……。
すると潮音ちゃんはそーたの様子を見て気づいたのだろう、軽く笑顔をみせながら「ママは今お墓のなかだよ」と言った。
そーたは少なからず心が揺れた。
亡くなった母親が夢に出てきた。しかも父親らしい人と。だからもしかしてと、またここへきたのか。それも根拠はない。それだけ母親、いや、だけじゃない……ふたりに会いたかったのだ。列車に乗って帰って来たふたりが、手をつないで駅の階段を下りてくる姿を想像し、それを期待しながら。
そーたはしばらくの間沈黙した。潮音ちゃんにどのように言葉をかければ良いのかわからなくなった。父親も母親もいない潮音ちゃん。今日初めて会話を交わした彼女に同情するのは卑怯だと思いながらも突然悲しくなった。
「……泣いてるの」
「いや違うよ」
「でも泣いてるよ」
「違う違う」
「六月二十二日ね」
「うん」
「ママのね、誕生日なの」
「もうすぐじゃないか」
「うん。だからね、それまではここにくるんだ」
それはいけない、小学四年生の女の子が夜出歩くのは危険だぞとそーたは言おうとした。が、この子はきっとそれでも来るだろうなと変に言うのを躊躇っていたら、潮音ちゃんはすっくと立ちあがり、「そろそろおばあちゃんが起きてくるんだ。帰らなきゃ。おばあちゃん、晩御飯のあと必ず横になるんだよ」とそーたを見下ろしくるりと帰ろうとした。それを「最後に―」と呼び止め、再びこちらを見た潮音ちゃんに向けたのは、先ほどまで躊躇っていた言葉ではなかった。
「なぜ俺をパパと思ったの?」
「決まってるじゃん。超大きなカットバン!夢のパパもそこに貼ってたんだよね」
そう言い残すと彼女は一目散に駆けだしやがて闇に消えた。
しばらくの間それを見ていたそーたは、額のカットバンに指で触れながら、こう呟いたのだった。
―あんまりな理由だぜ。


平屋の一戸建ての賃貸住宅のドアを「ただいま」と開いて入ると、奥から真莉愛の「おかえり」という覇気のない声が小さく返ってきた。
夕べのことが未だ尾を引いているのか…。
そーたは困ったな、と思いながらも靴を揃えて上がり、短い廊下の右奥にあるキッチン&リビングを覗いた。
背中を見せている真莉愛は遅い夕飯の支度をしていた。
もう一度、「ただいま」と声をかけたが、彼女は振り向かず事務的に「お風呂沸いてるから」と返した。
そこにいても仕方がないので、そーたはその隣のクローゼットがある寝室に入り、素早くスーツを脱ぎハンガーに皺にならないように掛けて、下着を用意しそそくさと風呂に向かった。
風呂は熱かった。
軽く湯を浴び、左足から湯船に入った。ジン、として少し足を戻しそうになったが、我慢し勢いで右足、そして体全体をザブッと湯船に沈めた。
五分くらい経つと体も熱さになれ、額のカットバンのことが気になり、「ああ今日は頭を洗おうかどうしようか」などと思う余裕もできた。
それにしても……。
あの子はまた来ると言った。
いくらしっかりとしているとはいえ小学校四年生の女の子が夜の八時にあそこにいるのはやはり危険だ。駅前には高校生らしい不良が集まってくることもある。不審な男が声をかけてくるとも限らない。心配だ。
普通に考えれば警察に事情を話して保護してもらえばいいだけの話だが、そーたは、そうはしたくなかった。自分勝手だが、そーたが関わりそーたが心配し、心配ないように確認したいからだった。
六月二十二日まであと五日か。
今日が十七日の月曜日で明日の火曜日も大丈夫だ。土曜は休日出勤だが調整はつく。ただ、水曜日から金曜日までは確実に残業になる。恐らくルーティーン通りに帰ってくることは不可能だろう。誰かその三日だけでも。最も信頼出来る誰か……。
そーたは湯船により深く、顎まで沈めながら「そうするしかないのか」と短い溜息をついた。

風呂からあがり、スウェットに着替え、キッチンのテーブルに着くと向かいに座っていた真莉愛がそーたを見て急に大声で笑いだした。溜まっていたものを吐き出すような笑い方である。
「なあに、それ」
そーたの額の大きなカットバンを指差して、今度はケタケタケタに変わった。
「名誉の負傷だ!」
「名誉の負傷?どこにぶつけたの?」
「なぜ、暴漢に襲われたのとか言えない。…大丈夫なの、とかもさ」
「だってそーたドジだもの。それを考えたらねぇ」
くくく、とまだ笑うのをやめない真莉愛。でも、怒る気にはなれなかった。それどころか良かったと思った。前日言い争いをしていたからだった。
真莉愛とそーたとはそのとき出会って二年が経っていた。同じ業界の別会社で、彼女は受付嬢(勿論仕事はそれだけじゃないが)、そーたは営業で忙しい毎日を送っていたものだった。
そんなとき、詳しくは言わないが、会うべくして会った。そして、付き合うようになって何か月かで、いつのまにか彼女はそーたの家の同居人となり、次の年の十二月に「そろそろ花嫁修業しなくちゃ」とそれなりに勤めた会社を彼女はあっさりと辞めてしまったのだった。それからそーたはずっといつ彼女と籍を入れようかと深く悩み続け、恐らく真莉愛の方は日が経つにつれ、会社を無暗に辞めてしまったことを後悔するようになったのだった。それなりでもやりがいのある仕事だったことに気が付いたのだろうとそーたは考えた。
今思うと馬鹿らしいが、「前日の言い争い」は子供が出来たらどう自分たちを呼ばせるかの意見の相違による争いだった。つまり、子供が出来る前から、そーたは「お父さん・お母さん」、真莉愛は「パパ・ママ」と呼ばせるということで一歩も譲らず、その末に喧嘩になったということである。でも、これも心の裏ではそーたの「悩み」と彼女の「後悔」が微妙に絡まって火花が散った結果と言えなくもなかった。
ようやく笑いがおさまった真莉愛は、「ごめん、ごめん」と言いながら立ち上がり、食卓にごはんを並べ始めた。そして、並び終えた彼女が席に着いて「いただきます」を言う前、一瞬の間を狙ってそーたは「話したいことがあるんだけど」と話をもちかけた。
「なに?」
「明後日から三日間、水曜日から金曜日まである女の子を見守って欲しいんだ」
「女の子?」
「うん、小学四年生の女の子。夜の七時五十六分着の列車を待ってるから、駅の階段の下にいるから、君についていて欲しいんだ。出来たら彼女が家に帰るまで何もないことを確認してもらえたら嬉しいんだけど」
真莉愛はそーたを見た。ロングの艶のある髪、程よい大きさの顔、大きく瞳に輝きを持った彼女に見つめられ、そーたは少し心臓の鼓動が高鳴った気がした。
一分くらい彼女はそーたを見つめていただろうか。
真莉愛は、はあ、と笑みを見せ、軽く頷きながら「いいわよ」と言った。
いただきますを言って箸を持つ彼女に「なにも聞かないの?」と不思議に思って訊ねると、「だってそーたって不器用なんだもん、嘘もいえないし、悪いことも出来ないし、だから信用してるのよ。まあ大好きだし」と頬を赤らめた。
そんな真莉愛にそーたは大いに感謝し、同時に信用しているという彼女の有難い言葉に助けられた思いもあって、今日の営業での失敗もこれで帳消しだねと大きく手をあわせて彼も「いただきます」を言った。
「あっ、でもその子の名前は教えて」
「潮音ちゃんっていうんだ」
そーたは熱い味噌汁に口を付け、あちちっ、と片方の目尻に微かな汗を出した。


 翌日の帰宅途中、そーたは駅の階段下に佇んでいた潮音ちゃんに声をかけ、昨日真莉愛と相談したことを潮音ちゃんに伝えた。
「いいの、ホントに」
「ああ、君が夜ここにいるのは心配だからね」
「そーたさんのお嫁さん迷惑じゃない?」
 そーたのお嫁さんと言われて、何だか気恥ずかしいような気がしたが、そーたは優しい笑い顔をつくって「本人も乗り気だから大丈夫だよ」と答えた。
 それから潮音ちゃんを家の前まで送り届けたが、その家は、築四十年は経っていそうな古い平屋の一戸建てだった。そーたは自分が幼少期に住んでいたアパートに似ているなあと眺めながら、潮音ちゃんを送って来たひとつの理由を忘れてはいけないと思いそれから腰を落として潮音ちゃんに「おばあちゃんは?」と訊ねた。
「まだ眠ってると思うよ。何?」
「今回のことをおばあちゃんにことわっておかなきゃね」
「それはダメ」
「でも心配させちゃかわいそうでしょ」
「いつも眠っているから大丈夫だよ。それに潮音がやっていることおばあちゃんが知ったら、そっちの方がかわいそう」
「そっちのほうが……かわいそう」
 ちょっと考えてから「そうだろうな」と思った。孫が亡くなった父母に会いたいあまりに夜な夜な駅に向かう。そんなことを聞かされたら、しかも潮音ちゃんの母親はおばあちゃんの娘でもあるのだから、きっとおばあちゃんは悲しむことになるだろう。それでも知らせずにいて、もし途中でわかってしまったとしたら、潮音ちゃんが隠し事をしていた、そのことの方が残酷ではないか。そーたは迷ったが、潮音ちゃんに「できるだけ大丈夫なように説明するから」と約束して彼女を促し玄関のドアに手を遣った。

水曜日からのそーたはやはり多忙だった。
潮音ちゃんのおばあちゃんは、そーたが説明し終えると信じられない程あっさりと「お願いいたします」と頭を下げた。予想外の事だったので、そーたが慌てて「何故‥…」と問いかけると彼女はそーたの目の前に手をかざし、彼を制した。まるで「全部分かっている」という風に。そーたはその圧力に負けて、結局それ以降はただ一言「お預かりします」と言って帰ったのだった。
当初の計画では真莉愛にただ一緒に付いていてもらうだけのつもりだったが、おばあちゃんとの話の中で、そーたは勝手に「学校の帰りにうちに寄ってもらって、時間になったら駅に行き、終わったらお宅に送り届けます」という風に変更してしまった。真莉愛に怒られると思って恐る恐る話したら、こちらもあっさりと「その方がいい。当たり前でしょ」とそーたは言われてしまった。
 そーたはどうしてこんなことに頭を突っ込んでしまったのだろうと考えた。あの時、ただの不良少女だと割り切り、そのまま家に帰ってしまえばいいものを。でも見過ごせなかった。人が好いといえばそうだが、それだけじゃない。それはきっとそーたが真莉愛にいつまで経っても籍を入れようと言えない理由と、どこかで繋がっているような気がしてしかたがなかった。
 そーたの母もシングルマザーだった。とても厳しい人だった。もとはとても優しい人であったのが、小学校に上がった頃から急変した。最初は出来ないことがあるときつく怒られた。それがいつしか理由もなくそーたの人格まで否定するようにたびたびそーたを罵倒するようになり、後には暴力まで振るうようになった。多分そーたが小学校に入学する直前に離婚して家を出て行った父親の所在について、そーたがしつこく母に迫ったのがきっかけだったのだろうと彼は回想する。彼は罵倒され、殴られ続けながらも必死でこれは夢なんだと思い続けた。これが虐待だと気づいたのはずいぶん後になってからだった。
 転機になったのは中学二年生の時だ。
母が死んだ。心筋梗塞だった。ひとりになった。そこでそーたは父親の両親、つまり実の祖父母に引き取られることになり、以後彼らには衣食住の保障をしてもらうだけではなく、大学にまで行かせてもらえるという幸運な日々を送らせてもらったのである。そのおかげなのか実母から受けた虐待の記憶は次第に消えていったように思われたのだが、それはある時期から再び蒸し返すようにそーたの前に表出した。
真莉愛と出会って同居し、そろそろ籍を入れなければとなった頃だった。何故か突然異常なくらいその消えたはずの記憶を意識するようになり、そのためか過度に考えすぎ、自分も母のようになるのではないかと恐れるようになった。いつか子供が出来たなら自分も子供を虐待するのではないか、それだけではなく真莉愛をまでも残酷なまでに傷つけるようになるのではないかと恐れた。だから、なかなか籍を入れられなかった。
 もし他人にそのことが潮音ちゃんのこれまでの経緯と繋がっているとは到底思えないと否定されてしまえば、そーたもそう思い直すことだろう。でも彼女とかかわることで、何かが見えてくるようなそんな確信が彼にはあった。もしかしたら彼女はそーたの天使になるのかもしれないと、まるで夢見がちな少女のようなことを彼は思ったのだった。

夜十時過ぎに会社から帰ってきて、真莉愛に「どうだった?」と聞くと一言、「心配しないで」と答えるだけだった。夕飯はちゃんと食べていってくれたようなので良かった。

木曜日になると「あの子可愛いわね」とか「うちの子にしちゃいたい」とか「思い切っていろいろと話しかけたら、嬉しそうに話しはじめてね、あの子の家まで話しながらついて行って、うちに帰ってくるのがとても寂しかった」とか楽しそうな真莉愛の顔が見られるようになった。

そして二十一日の金曜日、真莉愛は悲しそうに「もうあの子には会えないのよねぇ」と残念がり、この世の終わりのような顔をしていた。「あの子、多分うっかりだと思うけど、言ったのよ。私をママって。なんだか嬉しい」とも。

六月二十二日の土曜日の朝は晴れ渡り、普段は憂鬱な土曜出勤なのだが、爽快な気分で出かけることができ仕事も普段でもないようなスピードで仕上げることが出来た。
あまりに早く帰れることになったものだから、田舎の都会を何気なく歩き回って時間を潰しながら、ふとそうだよと気が付いて駅ビル内のケーキ屋で苺ショートケーキを買い、時間通り帰りの、というより潮音ちゃんが待っていてくれる駅へ向かう列車に乗った。
列車の中超大きなカットバンはもう必要なかったが、やはりこれがなくてはと、もう一度眉間のやや上辺りに貼った。
たった一駅なのに時間が経つのが限りなく遅く感じた。土曜日なので乗客もそれほどではなかった。はやく、はやく、潮音ちゃんの悔いのない笑顔がみたい。
十九時五十六分。
そーたはホームに降り立ち足早に改札を通り過ぎ、通路を急ぎ誰よりも先に下りの階段を駆け下りて、半分まで行ったところで止まった。
潮音ちゃんだ、隣には真莉愛。
真莉愛は潮音ちゃんの肩に手を乗せ、少し屈みながら潮音ちゃんの耳に向かって何か囁いていた。
そーたが、また下りて行き、あと一段となったとき、潮音ちゃんは彼のもとに駆け寄って来て強い力で抱きついてきた。
「おかえり、パパ。ママもそこにいるよ」
「ただいま、潮音ちゃん」
潮音ちゃんを「そーたパパ」の方に送りだしてくれた「真莉愛ママ」はとても幸せそうな笑顔をしていた。
後から来た帰宅者どもがあからさまに迷惑そうにして通り過ぎていったが、そーたは壊さないでくれと心中で繰り返した。
……壊さないでくれ。本当に短い、ともするとすれ違うだけの関係だ。
でもどうか今だけはお願いです。壊さないでください。
そーたは願った。

少しだけベンチで話して、真莉愛とそーたは潮音ちゃんを家へ送って行った。
彼女の家の前で別れるときに、そーたは持っていた白く小さな箱を渡した。
「ママの誕生日。潮音ちゃんとおばあちゃんと、勿論本物のママとパパにもね」
潮音ちゃんは、それをありがとうと嬉しそうに受け取り、少し恥ずかしそうに顔をあげた。
「ねえ、真莉愛ちゃんとそーたさん、これからもママとパパって呼んでいい?」
「それは出来ないな。君とは離れちゃったけど本当のパパとママはいるんだよ。だからそう呼ぶのは駄目。それでも呼んでくれるなら、そうだね、お父さんとお母さんとでも呼んでもらえないかな」
真莉愛が「そうしてあげて」とお願いすると、潮音ちゃんは「うん」と笑顔で答えてくれた。

潮音ちゃんと別れてふたりは帰途についた。周りに何もないところで吹いた夜風が意外に冷たいのに驚いた。
「もうあと何日かで七月になるというのにね」
「そうね」
「あーあ。子供はやっぱり女の子だな」
「大丈夫よきっと。きっとそうなる。でも寒い時期だな、いや春か」
「春って、なにそれ」
「医者行った。できたんだろうねぇ、きっと」
さらりと真莉愛は言ってのけた。
そーたは慌てふためき、なにを言っていいのか分からなかった。
「うんうん、そうだね、そうだよね、そうに違いない」
そーたのまったく意味のわからない言葉に、
「まどろっこしいなあ、何を言いたいのよ」
真莉愛がキッとそーたを睨んだ。
困ったそーたは最低でも言わなきゃならない言葉を思い出し、
「ありがとう」と言った。
「そうだね、それでいいのよ」
真莉愛は夜空を見上げて、歌でもうたいたい気分、こういうときは何の歌だろうと呟いた。
そしてあたかも、あっと急に思い出したように空をみあげたまま、こう言った。
「いい日に籍を入れようね、子供のほうが先になっちゃったけどさ」
それはそーたのほうが先に言わなければならない言葉だった。彼がずっと言えないことに悩んでいた言葉だったが、逆に真莉愛に言われてしまったら、別にどうということもないことに気付いた。男としては失格なのかもしれないが、どちらがそれを言おうと未来は勝手にやってくるし、その未来はどうなるのかは誰にも予想出来ないのだ。いきなり文無しになって住む場所にも困るようになるかもしれないし、大金持ちになるかもしれない。要はそれを一旦は受け止めて、それから嵐が過ぎるまで耐え忍ぶのか、突き進むのか、どちらも出来ないのであれば逃げてもいいとさえ思う。そーたは一気に心が晴れたような想いに包まれた
「ねえ」
「何」
「この子潮音ちゃんみたいな子になる気がする」
「そうだね。俺もそう思うよ」
結婚すれば、そーたは真莉愛に頭があがらなくなり、きっと生まれてくる子供はパパ、ママとそうふたりを呼ぶことになるのだろう。
ガタン、ゴトンと夜風に流されて、列車が近くの線路を通過する、どこか懐かしさを感じさせる音がそーたの耳に届いた。
そーたの問題、真莉愛の問題はまだまったく解決はされていない。でもそーたは何かが変わったと思った。肯定感でいっぱいになった自分がいる。ともかくこれからの自分たちの人生を迎え入れればいいのだ。悩むのはそのあとだ。
暫く聞こえていた列車の通過音は次第に遠ざかって行き、やがて消えた。

そーたは次の年に生まれてくる我が子に想いを馳せながら、潮音ちゃんとは、きっともう、会うことはないだろうなと思った。




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記憶は夕陽色

2023-03-21 | 小説
前の続きー。

   弐  夕陽、その光

 夢の中で、あいつが笑った。四00CCのバイクに乗って、こちらを振り返った。亮介は叫んだ。ばかやろう。
 そこで目が覚めた。頭、いや、ここは、…首が痛い。
 辺りを見回すと白灰色のコンクリート床が大きく広がっていた。その先の周囲は金網に囲まれている。天上は青い空。亮介は立ちあがる。学生服を脱ぎ、両手で掲げて服の背部分を見ると、薄く白墨のような砂に汚されているのに気づいた。それを叩き、ついでに尻も叩いてから再度学生服を着て腰を落とし、コンクリート床の上に胡坐をかいた。ここは?と思いしばし考えてみたら、学校の屋上であることを思い出した。俺はいつのまにか眠ってしまっていたのか、このコンクリートが広がるど真ん中に。こんなところでよく眠れたものだと思いながら、「あいつ」の夢を見てしまったことに胸が絞られるような思いがした。あれからもう十か月にもなるのか。
 今はもう、四時限目の授業のはずだ。今日こそは真面目に授業に出ようと思っていた。が、それは果たせず、亮介が起床したのは朝の十時半で、一生懸命無駄な作業を省略し、自転車で三十分駆けて来て甲斐西高等学校の正門を通過したのは、十一時十五分頃だった。駐輪場に自転車を置いて、ゆっくり歩いても四時限目からではあるが、取りあえず授業に間に合ったはずだった。が、亮介は急にやる気が失せ、そのまま三階建ての校舎の屋上にまで来てしまったのだった。その後、いつのまにかこんな所で眠りこけた。傍らの黒い合成革鞄を凝視して、これを枕代わりにしてだよな、と思うとより首の重い痛みが酷くなったような気がして憂鬱感が満載になる。どこまでも青い空、柔らかな太陽の光が降り注ぐ十月なのに。
 
親友の文則との付き合いが縁遠くなってきたのは、高校に入ってからだった。亮介はこの進学高校に、文則は私立の大学付属高校へと昨年の四月にそれぞれ別れた。本当は同じ高校に通いたかった。そのために中三の初めから一緒に受験勉強を始めた。教師は文則にお前には無理だと言っていたという。でも、教師が断言するほど、文則の学力は悪いものではなかった。むしろ努力を続ければ、必ずや県内の進学校に合格するレベルにまで至ると亮介は確信していた。本人も亮介と同じ高校に通いたい気持ちから、いっちょやったるか、と気合を入れていた。それなのに生来の飽き性も手伝ってか、三か月も経つと気力もなくなり、やがて二人の共通の勉強場所である街の図書館に、文則はまったく来なくなった。亮介は何度か文則を説得しようと試みたが、彼はまったくその気はなくなったと応ずることはなかった。亮介は落胆したが、それで二人の仲がどうかなる、ということはなかった。学校ではいつもと変わりがなかったし、相変わらず休みの日には互いの家を行き来していたし、何よりも亮介らは高校が別々になっても親友であり続けることに決して疑いはしなかった。ただ、後々思い返してみて、もしかしたら文則はこのときの亮介に対して、複雑な思いがあったのかもしれないと考えるようになった。一緒に受験勉強をやろうと最初に持ち掛けたのは亮介だし、それについて主導権を握っていたのは亮介の方だったから。
 中学二年生になった頃から亮介の身長は急激に伸び出し、三学期が終わる頃には学年一の身長を誇る文則とほぼ変わらない高さになった。それとともに筋肉も発達してゆき、男の身体を形作ったことによって、大きな自信が芽生え、文則が付いていなくても、あの横山達に対しての怯えも全くといっていいほどなくなり、逆に彼らの方が亮介を避けるようになった。だから亮介の中での文則は、もう盾になってもらう存在ではなく、互いに肩を並べる真の盟友のような関係になっていた。それは文則にとっても喜ばしいことであったに違いないが、一方でもう亮介に頼られなくなったことに、自分の存在への疑問と一抹の寂しさを感じていたのかもしれない。その後、二人の関係性の変化があったことで、例え文則が不得手な事柄で仕方がないことだとしても、どうしても「文則が亮介に頼る」というそれまでとは逆の構図が出来上がってしまう場合が多々あった。プライドの高い文則が複雑な感情を持ってしまうのは当然のことなのだと思う。
 文則との関係で特にぎこちなさを感じ始めたのは、彼の両親の離婚が成立した後からだった。中学校の卒業式の後、文則は校門の前で左の口端を上げながら、亮介に向かって告げた。「俺は母親に付いていくことに決めたよ。N市に引っ越す」。猫のミーコはどうするんだ、と頭に浮かんだが、それについて文則は「猫たちは近所で飼いたい家があったんで、頼んだよ。ばあさんが一人で住んでいる家で、ミーコもその他の猫も纏めて面倒見てくれるってさ」と寂しげに語った。
 それから亮介らは別々の高校へ進学していったが、それでも亮介は諦めず、最初のうちは休みの度に会うようにしていた。それが徐々に変わっていったのは亮介が彼のあの行動を許せなかったからだった。

 四時限目の授業の終わりを告げるチャイム音が響いた。ここからは昼飯の時間だ。どうする?素知らぬ顔で教室にでも入っていくか。そう思ってみても亮介は動く気がしなかった。鞄を引き寄せ、中から弁当箱を出した。古新聞に包まれたそいつを、鞄を下敷きにして目前に置いた。あまり食う気がしない。
「亮介」
 声がしたので後ろを振り返ると屋上への出入り口から、光がやってきた。左の腕に座布団を挟み、手にはピンクで可愛らしいランチボックスってやつを持ちながら。
「何故ここにいると分かった」
「だって亮介言ってたじゃん。俺がいないときには屋上にいるって」
「そんなこと言ったか」
「言った、絶対言った」
 口を尖らせながら光は持っていた座布団を敷いて、亮介の前に膝を立てて体育座りをした。
 バカ、パンツが見えるじゃねえかと思ったが、光の穿いているスカートは地面に触れそうなほど長かった。膝を立てても踝が露になる程度だ。さっそくランチボックスの蓋を開けようとしている光を見ながら、亮介は深い溜息を吐いた。彼女の髪の毛は黄色い、それに癖毛だ。大きな二重で瞳の色は普通の日本人よりずっと薄い。「限りなく透明に近いブラウンだ」と普段亮介は彼女をからかっていた。彼女の祖父がロシア人だということを何かの折に聞いた。
「昨日、一昨日と来ないもんだから熱出して寝てるって二宮に言っておいたよ」
「ああ、それで家にも連絡がなかったのか」
「感謝してよ。あたしは一週間前からどうもあんたの様子がおかしいと思ってたんだ。目が血走っていたしな」
「持つべきものは不良の友人、ってことか。サンキュウな」
「シバくぞ」
 二宮は進学校には珍しく生徒の目線に立ってくれる女教師だ。〝眠れない〟、亮介は九月初めの面談で二宮に相談した。文則のことも、教師になりたいと考えていることも。恐らく彼女には何もかもお見通しなのだと思う。だから、光の嘘に気づいていても、敢えて無断欠席の亮介を見逃してくれた。大いに悩め。今はそれが一番いい解決策だと。
「食べないの?」
 光は不思議そうに亮介の顔色を窺った。「食う食う」と頷き、亮介は掛けられているゴムを外して新聞紙を開いた。
 光との出会いは、まるで少女漫画のようなシチュエーションだった。高校初めての授業が終了したあと、帰宅しようと向かった校舎裏の駐輪場で彼女は三人の男子生徒たちに絡まれていた。亮介は、面倒はごめんだなと思ったが、生憎彼らは亮介の自転車を引き出すのに必要な空間を占領していた。光は迫られ追い詰められたのか、その自転車の後ろ、金属で形作られた荷台に尻が触れていた。仕方がないので亮介は歩を進め、彼らの間に割って入るようにして男たちに顔を向け、なるべく自分の感情を読み取られないようにして彼らを睨んだ。
「自転車が出られない」
 たったそれだけのことだったのだが、彼らより十センチは高い亮介に見下ろされて驚愕したのか、彼らは一瞬のうちに揃って逃げ出してしまった。それから後に残った光が亮介の前に来て頭を垂れようとしたので、そういうのに慣れていない亮介は、自転車も出さずにまるで逃げるように、その場をあとにしてしまったのだった。
そのときから、亮介、亮介と彼女はことあるごとに亮介に話しかけ、デートしない?と亮介を街中に誘うようになった。そんな光の馴れ馴れしさに亮介はどぎまぎし、不良少女のように派手な様相から、最初の内は無視を決め込んでいたのだが、真っ直ぐ亮介を見つめる光の積極さに、いつしか巻き込まれていき、やがて亮介は流れのままに彼女と付き合うようになった。付き合うといっても亮介のその想いは、恋ではなく親愛の情といったものだった。彼女の中性的な性格は、亮介には親しみを感じさせたが、恋になるにはもう一つ何かが必要だった。多分、光もそれを感じているはずで、一年以上、亮介らは恋だとか愛だとかは一切語らず、まるで男同士の友情のような絆で結ばれていた。
「午後からは授業に出るのか?」
 太陽のひかりに晒されて、光の微妙に輝く瞳に見つめられて、亮介は心の中を見透かされるような気がした。
「出ないことにした」
「ここまで来ているのに?何するんだい」
「考えて考え抜く」
「変な奴」
 光はそう笑い、また座布団を腕に挟み、空になったランチボックスを手に持って、屋上の場を去って行った。屋上はなにもないし、普通の生徒にはまずここへの用というものもない。つまり、もうここには誰も来ない。あとに残ったのは、近くの国道を走る車のエンジン音と、何気に聴こえる教室の騒めきだけだった。
 文則―。
 彼は優しい奴だった。優しいが故に、進んだ高校でも一緒になった横山なんかに引きずられた。
 四月生まれだった文則は早速普通二輪の免許を取った。その内すぐにⅭB四00というバイクを乗り回すようになった文則を見るたびに、亮介はいいようのない胸騒ぎを覚えた。お前、まさか…、と尋ねると横山と一緒にレーシングチームに加入したと文則は俯いた。レーシングチームなんて嘘っぱちだ、暴走族だろうと亮介が迫ると彼は開き直って、ああそうだ、何が悪い、と亮介を睨んだ。たまたま、文則の家の近所だったという光を紹介しようと、彼女を連れだって行った土曜の夕方だったのだが、亮介は憤慨し、それからは段々と足が遠のいていった。
 あれは昨年の十二月九日の夕方だったか。ジョン・レノンが殺害されたニュースが駆け巡っていた。前日、亮介は文則が所属しているというチームの所業が余りにも酷いとの噂を聞きつけて、居ても経ってもいられず文則の家に行った。亮介の文則への警告もこれが最後だと思ってのことだ。しかし、やはり頑固な彼は亮介の話も聞かず、その夜バイクに乗って出て行ってしまった。一瞬こちらを振り返り、亮介に向けて邪心のない笑顔を見せて。
 光からの電話があって、亮介はきっとジョン・レノンのことだと思った。光はジョン・レノンのファンだったから。しかし、違った。受話器を通して聴こえた光の声は、近所の人から聞いたと前置きをしてから、亮介にとっては体を引きちぎられる様な悲しい事実を伝えたのだった。
 悔やんでも悔やみきれない。十か月経った今はさすがに落ち着いたが、それでもまだその影響は時として表面化する。
 
 カラス?
 いつの間にか陽が傾き、一日の最終ラウンドを迎えつつあることに亮介は気が付いた。革鞄を手に立ち上がって、落下防止のための金網に向かい、片手を置いて地上の様子を眺めた。弱小野球部が練習をしている。ピッチャーが投げる。バッターは大きく空振り。外野は何を考えているのかグラウンドに胡坐をかいている。声もない。だから駄目なんだと思っていたら、轟音が響き、一台のバイクが入ってきたのが見えた。一旦、急ブレーキをかけて止まったと思ったら、エンジンを何度も噴かし、また動き出す。大きく旋回する。八の字を描く。息継ぐまもなくバリ音を轟かしていた。野球部が活動している場所からは離れているものの、その轟音と荒々しい運転に野球部の連中は慌てふためき、練習を中止して皆レフト側のベンチに引き上げてしまった。それに気をよくしたのかバイクはよりグラウンドを広く使い、なおも荒っぽい運転を続けた。亮介はバイクの車体に注視した。マフラーは曲線を描くような特別仕様。座席をタンクよりも沈むように設計されたあれは、如何にも暴走族を思わせた。馬鹿もんがと、怒りが沸々と湧き上がって来るのを感じながら、亮介はふとあのバイクに見覚えがあることに気が付いた。確か、文則の家の前で、だ。
あれは…横山なのか。
 しばらくして、バイクが停止した。ノーヘルの頭がこちらを見上げるように傾いたときに亮介は確信した。紛れもなく横山。遠目でも分かった。
 ふっと、また記憶が蘇った。
 横山はあの時、文則を残して真っ先に逃げ出したと聞いた。卑怯者。
 ああ、卑怯者、卑怯者、卑怯者、卑怯者、ひ・きょう・も・の。
 亮介の怒りが熱く鉄を溶かすような激しいものに変わったとき、無性に体が震えた。抑えきれない。でも駄目だ、行っては。亮介の中の理性が必死に訴えかけている。しかし亮介は結局我慢が出来なかった。屋上から出、階段を駆け巡り、怒りそのままにグラウンドにまで駆けていってしまった。
 よこやま―。
 亮介の声が響き、バイクに乗りながらこちらを向いた横山は、そのまま急停車した。「ああ、亮介じゃねえか。久しぶりだねえ。丁度いい、待ってろ」
 そう笑った横山はニ、三度エンジンを噴かし、今度は亮介に向かって一直線にバイクを走らせてきた。轟音が近づく。亮介はぎりぎりまで耐えてタイヤが触れる寸前で横に飛んだ。転がり制服が砂だらけになるなと思った。それからすぐに立ち上がり、奴はどうしたと確認した。バイクは離れたところに派手に倒れ、まるで何かに引きずられたように車体が白く砂まみれになっていた。前輪には亮介の黒い合成革鞄が見事に嵌り、スポークがぐにゃりと妙な形に変わっていた。後輪は未だ少し惰性で回っている。その近くで、跳ね上げられ落下した横山は、腰を打って起き上がれないようで、その部分を押さえ丸くなっていた。
 それでも亮介の怒りは収まらなかった。亮介は今まさに横山に向かって突進せんと構えた。するとそのほんの一瞬のうちに、するりとか細い両の腕が、背中から亮介の腰に巻きつき、制服を強く掴んで亮介を抑えたのだ。誰だ。亮介は怒りの表情そのままで振り返った。果たして、亮介の目には薄いブラウンの目をした、不良娘の悲しそうな顔の表情が映った。…光……。光は必死に亮介に話しかけた。「駄目だよ。あたしが居たからよかったものの。あんた将来何になりたいんだい。思い出せよ。これ以上やったら多分あんた駄目になっちゃう。それでもやるっていうならあんたはどうしょうもないバカだ」
 しかし、と思って亮介はまた前を向いた。光は亮介の脇の隙間から制服を掴んでいた右手を離し、前に出して、西方の一方向を指さした。
「見なよ。綺麗な夕焼けだ。こんな夕焼けを見てもまだ敵討ちをしたいのかい」
 遠くに見える山々が薄い赤黄色に染まっている。太陽は今まさに奥の山に隠れる寸前だ。西の空には夕焼け。いつか見た夕焼け…。絵画のようなその風景を亮介は何処かで見たことがあった。あれはいつのことだっけ。
 
騒ぎを聞きつけ、二宮を始め何人かの教員が校舎から出て来た。
 
ああ、思い出した。いつも学校への行き帰りに歩いていた、あの土手。その道から見えるあの風景。思い出したよ。

それから亮介は光の腕を外し、教師たちが来る短い時間(とき)の中で、その美しい風景に魅入っていたのだった。 



   参  夕陽と彼と響子ちゃんと

 駅前も変わったな。
 亮介は、K町駅前に立ち、辺りを見回しながら、昔を懐かしんでいた。
あれから二十年が経ち、時代は昭和から平成へと移っていた。
 亮介と文則は中学時代の横山との一件から、よりいっそう親交を深めていった。二人は傍から見ても、鬱陶しいほどいつも一緒に行動し、互いに信頼するまでになったのである。
それが変化したのは中学を卒業してからだった。亮介の両親が正式に離婚し、亮介は母方に引き取られ、K町から比較的近いN市に引っ越していった。彼らは、別々の高校に進み、最初の内はそれなりに行き来をしていたものの、徐々に縁遠くなっていった。
親友と思っていた文則と何故、離れていったのかは、文則の置かれた環境が変わったこともあるが、本当のところはもう一つの理由があったのだった。それは今にして思うと、「後悔」という二文字がついてくるのだが、あの時の亮介にはどうすることもできなかった。ただ、いえることは、彼らは別れるべくして別れ、亮介は文則とその後永遠に会えなくなったということだけだ。
 高校を卒業して、彼は県外の大学の教育学部に進学した。四年間勉学とバイトに励み、教職の免許を取った。教師になることに両親は反対したが、亮介の姉だけは、あんたの経験したことが何処かで生きるに違いないと賛成してくれた。彼は地元の教員採用試験を受験し、晴れて念願の中学校の教師になることが出来た。
教師になってからは、無我夢中だった。登校拒否や虐め、家庭内暴力と様々な問題に直面し、その都度最良の選択を迫られ、なんとか解決らしき方向へと導き、それでも、これで良かったのか?と苦悩し続けた。教師になって十年というもの、亮介は常に神経をすり減らし、こんなはずではなかったと、精神が悲鳴を上げない日はなかった。
そんな時に、偶然中学生の時、団地から引っ越していった響子ちゃんに出会った。
響子ちゃんは教科書販売の会社に勤めていて、たまたま彼が勤めている中学校を営業で訪れていたところだった。
「…亮介くん?」
 そう職員室で声を掛けられた時、亮介は一瞬誰なのだろうと疑った。だがすぐに変わらない清廉さに昔の面影を見、懐かしさで一杯になった。
「響子ちゃん?」
「うん、久しぶりだね」
「久しぶりなんてもんじゃない、二十年ぶりなのかな」
「引越しの時からだから、…そうね、もうその位になるのかもね」
 響子ちゃんは、相変わらず優しさが香るような空気を纏っていた。目尻に笑い皴が目立つことと髪をショートにしていることを除けば、他はあの頃と変わりがない。彼が話を続けようとすると、ごめんなさい、今日商談があるの、と急いで自宅の電話番号を書き記したメモを亮介に渡し、電話頂戴ね、とその場から奥にある校長室へと消えていった。
 それから数日の間、忙しさにかまけて、メモの存在を忘れていた彼は、たまたま寄ったコンビニでの支払いで財布を出した時、財布のカード入れの間にあるメモを見つけた。
あの時のメモか、と思い至りどうしょうか逡巡したが、明日が日曜日だということに気づき、ともかく電話を架けてみることにした。家の電話の受話器を取り、ナンバーをプッシュすると、数秒の呼出音の後響子ちゃんが直接出た。響子ちゃんは、待っていたのよと言い、明日K町駅前の喫茶店で会って話をしましょうと言った。午前中は用があるからというので、亮介は、それじゃあ、午後三時にと約束を交わし電話を切った。彼は、これはデートになるのだろうかと考えたが、すぐに彼女はもう人妻なんだろうなと思い直し、自分の考えの浅はかさを反省した。

次の日の日曜日、彼はK町駅前の喫茶店に向かった。
途中、一旦止まって時計を見た。午後三時にはなっていなかったが、多分響子ちゃんはもう待っているだろうなと思い、その先の道路を挟んで向かいにある喫茶店を目指した。
 ドアを開けると日曜日だというのに、喫茶店の中は閑散としていた。隅に座っていた彼女は、彼をすばやく見つけると、ここよ、ここと大きく手を振った。
 亮介が響子ちゃんの前に座ると、ウェイトレスが、注文を受けに来たので、響子ちゃんの前に飲みかけのアイスコーヒーが置いてあるのを見て、同じものを注文した。
「…ほんとに二十年ぶりね」
 響子ちゃんは懐かしそうに彼の顔を眺めた。
「君は二十年経っても変わらない」
「すぐには分からなかった癖に」
「いきなりだったからね」
「ほんと、偶然。まさか亮介君が学校の先生になっていたなんてね」
「似合わない?」
「いいえ、ただ、私の中の亮介君は、大人しくてほんとに優しい男の子だったから。まさか人前に立つ職業に就くなんて思いもしなかったの」
「二十年経てば、人は変わるんだよ」
「そうね。年月は人を変えるものなのよね。…私だって色々あったもの」
 彼女は遠い目をしていた。彼はそんな彼女を見て、以前こんなシチュエーションに出くわしたことがあるような気がしていた。それは何時のことだったのだろう。彼はしばし考えたが皆目検討がつかなかった。
「今何処に住んでるの」
 彼女がそう訊いてきたので、彼は、A市だよ、あれから丁度俺が県外の大学に入学した年に引っ越したんだと答えた。彼女はそれを聞くと、私は一度県外に住んでいたのだけれど、またY市に戻ってきたのと話しながら、アイスコーヒーのグラスを手に取って、ストローで溶けかけた中の大きな氷を軽く突いた。Y市、ということを聞いて彼は自分が一番気になっていることを訊いてみようと思った。
「…・結婚は?」
「一度ね、結婚したわ。二十五の時…。それも三年で破局したけどね」
「それは、悪いことを聞いちゃったかな」
「いいえ、そんなことはないわ。私の中ではもうすでに終わったことなんだもの」
「強いんだな」
「そうよ、私は昔から、気の強いお転婆な女の子なのよ」
 お転婆な女の子、と彼女が言ったところで、彼は思わず噴出してしまった。余りにもイメージとかけ離れているし、こんなに大きな女の子がいるわけがない。彼女は怒った風にして、そうよ、そうよね、私はもうおばさんよね、と口を尖らせた。
「ごめん、笑ったりして」
「いいのよ、もう私も三十四になるんだもの」
「さっきも言ったけど、君は変わらないよ。年齢よりも、ずっと若くみえる」
「そういってもらえると、少しは救われるかな」
 それから彼女は、少しの間、沈黙した。ウェイトレスが亮介のアイスコーヒーを持って来たので、彼はストローを使わず、一口、口をつけた。窓から外を眺めると、駅から降りてきたらしい母親とまだ小さな男の子が一緒に歩いていた。男の子は何かを強請っているのか、母親のスカートの端を掴み、必死に訴えていた。響子ちゃんもそれを眺めていて、顔を向き合わせると、微かに笑った。
「彼は元気なのかしら?」
 響子ちゃんは突然思い出したとでもいうように、話の方向を変えてきた。
「彼?」
「ミーコを貰ってくれた、亮介。…確か文則君っていったかしら」
 彼は当然出るであろうその話題にまったく無防備であったことに気が付いた。知らないとでも言っておくかと思ったが、一寸考え、本当のことを言うことに決めた。
「文則は死んだんだ」
「えっ」
「文則は亡くなったんだ、高一の冬に…」
「そんな」
 響子ちゃんは絶句した。

 高校に入って、亮介と文則は段々と、付き合いをやめるようになっていった。いろいろとあったが、最大の理由は文則が一緒の学校になった横山と付き合い始め、暴走族のメンバーの一員になったからだった。文則は土曜日の夜になるたびに、召集をかけられ、暴走を繰り返した。両親の離婚が文則の不良化の根源にあったのかもしれない。それともすでに文則を同格に思っていた彼の存在に文則のプライドが許さなかったのかもしれない。亮介はそんな文則を見かねて、何度もメンバーから抜けることを進言したが、文則は何処吹く風で、彼のいうことを決して聞こうとしなかった。亮介は、自分の言うことに耳を貸さない文則の態度に腹が立ち、やがて二人は決裂し、彼は文則と二度と会うもんか、と思った。
文則が亡くなったのは、ジョン・レノンが亡くなったまさにその日だった。前日の夜半、抗争相手と派手な喧嘩を繰り広げ、旗持ちだった文則は、何人もの人間に、ターゲットにされ、鉄パイプで何度も殴りつけられたらしい。夜中の午前三時ごろに病院に運び込まれたときには、もう意識がなかった。文則は生命の糸が今にも途切れそうな中で、意識もない癖に何度も死にたくないと繰り返し、最後には静かな、本当に安らかな死を迎えたのだった。
亮介は高校の同級生、光から、文則がどのようにして亡くなったのかを知ったが、葬式に行くことも、線香をあげにいくこともしなかった。ただ、ひたすら悲しく、文則のいなくなった現実を呪った。実は最後だと思い、文則が抗争に向かうまさにその直前に、彼は文則に会った。しかし、文則は亮介の最後の忠告も聞かず、バイクを走らせ行ってしまった。そのとき一瞬振り向き、彼に対して向けた笑顔。それを思い浮かべると、俺に出来ることはなかったのだろうか?と何度も繰り返し、後悔した。文則を見捨てるべきではなかった。
それから、亮介は教師になることに決めた。教師になって、彼のような境遇の人間を一人でも無くしたい、そう思った。今、考えるとそれはまったく的外れなことなのだと思うのだが、そのときの亮介は真剣にそう思っていたのだ。
「いなくなっちゃったんだ、文則君…」
 響子ちゃんは顔を伏せた。
「うん、いなくなっちゃったんだ」
「悲しいね」
「悲しいことだけど…もう、昔のことだよ」
「文則君がミーコを抱き上げたとき、ああ、この人優しい人なんだなって思ったわ」
「奴は、心優しい猫好きの寂しがりやだったな」
 彼も響子ちゃんもしばらくの間、しんみりと文則のことを思った。あんまり、しんみりとしてしまったので、亮介はわざと話題をかえ、当たり障りのないことをこれでもかという位に彼女に披露した。亮介が教師になった頃のこと、今の生徒や親がいかに扱いづらいかとか、教師同士の軋轢だとか、終いには聞かれてもいないのに、自分が独身で、そろそろ結婚を考えなきゃなとか、ともかく思いつくこと全てを喋り続けた。
やがて、話題も尽き、それじゃ帰ろうかと腰を浮かせかけた時、彼女は、ねえ、あの場所行ってみない?と顔を上げた。
「あの場所って」
「亮介君と二人でよく歩いた場所」
「それって…土手の道」
「そう、久しぶりに歩いてみたいな、亮介君と」
 二人は喫茶店を出て、土手のある方向へ歩いて行った。近隣の町にいながら、この十年間というもの、一度も土手の道を訪れることがなかった。土手の道はきっと様変わりしているだろうなと思った。
 二人は、駅前から人通りの少ない道に外れ、昔の記憶を辿りながら、土手へと向う。途中、昔ミーコのいた空き地は何処だったかなと寄り道してみたが、家が立ち並び、それが何処だったのか分からなくなっていた。
 そこから、また五分ほど歩いて、二人は土手の入り口に辿りついた。
 土手の道はそれが当然だという風に、昔とそれ程変わりなく存在した。変わったことといったら、道が土ではなく、舗装されていたことくらいだ。
「舗装されたんだ」
 響子ちゃんは少し驚いた風にして歩き始めた。
「中学までは毎日この道を歩いたもんだな」亮介も並んで歩く。
「うん、小学校の時は、登校班で、毎日亮介君と歩いたわ」
「テレビの話題ばかりだったな、俺達」
「あの頃はそれが楽しかったのよ」
「そうかな」
「そうよ」
「ねえ」
「何」
「この川ってこんなだったかな」
 二人は、土手の階段を降りて、川原から川の流れを観察した。川の水量は昔より、かなり少なく感じ、このままでは干上がってしまうのではないかと思われた。それに空き缶やら、萎んだビニール袋やらごみがちらほら浮いている。
「これじゃ、困ったことになるね」
 響子ちゃんは川を見て心配し、二人は、また土手の上に戻り、道を歩き始めた。
「昔は川も、もっときれいだったな」
「そうね」
「俺、川で泳いだ憶えがあるよ」
「そうなの?それは初耳」
「それ位きれいで豊富な水だったんだ。この川は…」
 彼は川の流れを眺めながら歩き、あの頃のことを思い出していた。横山達がいて、文則もいて、俺たちは皆十三歳だったんだ。いろいろな個性を持つ彼らとの出来事が走馬灯のように彼の頭の中を巡った。高校時代の文則の死もあり、今は何処にいるのか、光という頼もしい女性徒の親友もいた。彼らとのことは、今では、懐かしい出来事として過去の産物となりつつある。しかし、それでも、あの頃の彼にとって、それらのこと一つ一つが大変なことで、悩み、苦しみ、日々をもがいて生きていたのだ。三十三歳になった亮介は様々な試練に揉まれ、経験していくうちに昔の辛い出来事を「懐かしい」といえるまでになった。それは彼が大人になったということなのだろうか。
歩き続け、ふと前の方に目を向けると橋が見えた。橋は相変わらず忙しそうに車が行き交っていた。陽は山に傾き、二人の影を大きく引き伸ばしていた。もう陽が沈む時間か、二人は歩みを止め、その方向を見た。  
「…綺麗」
 橋の向こうには南アルプスの山々が聳え立ち、夕陽が、茜色に照らし、その山の木々を一本一本までくっきりと浮かび上がらせていた。
「まるで、一枚の絵画のようだ」
 亮介は思わず口に出し、響子ちゃんも、そうね、と賛同してくれた。
 夕陽は沈みつつあり、残った光は夕焼け空をつくった。
「明日は晴れかな」
 彼の問いに、
「きっと、晴れるわよ」
 響子ちゃんはそう答えた。
亮介が響子ちゃんの方を見て、一瞬目が合うと、響子ちゃんはいたずら小僧のような目をして、私達恋人同士にみえるかしら、と、笑った。
彼は響子ちゃんのその問いには答えず、本当にそうなれるように、また前を向いて生きて行きたい、と心の中で呟いた。
それからまた夕焼け空と、山の向こうに隠れそうな夕陽を眺めている内に、記憶は夕陽色に染まっていくのだなと、思った。
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Jo Boxers - Just Got Lucky (Official Video)

2023-03-21 | 小説
Jo Boxers - Just Got Lucky (Official Video)



HAKU / Every breath you take cover



The Moody Blues - "Tuesday Afternoon" (Official Video)



佐藤千亜妃 - タイムマシーン(Music Video)



踊ろうマチルダ - 化け物が行く @ THE CAMP BOOK



佐藤千亜妃 - タイムマシーン。分かっている人もあろうけど、これは宇多田かおるさんへのリスペクトを込めて作られた曲です。

メロディやアレンジや歌詞などいたるところに宇多田ひかるがちりばめられています。


以下は以前書いたやつですが、題名を変えて加筆修正しました。よかったら読んでください。なお、コピペしたものなので段落とか一マスあけるとかおかしくなっていますが、ご容赦を。

 記憶は夕陽色


 響子ちゃんは亮介の隣で夕陽を眺めている。恋人同士に見えるかしら、という言葉を投げかけられたが、それに対して亮介は何も答えようとしなかった。ただ、心の中ではある誓いをたてた。―青の炎のような静かな情熱をもって。
亮介はこうやって夕陽を眺めていると、過去の事柄を懐かしむだけではなく、この夕陽は未来に向かって連続しているのではないかと想像する。時間がもしも円の軌跡を描くものであるとしたら、未来は即ち、過去にまた向かっていることになる。夕陽がその軌跡をなぞっているものだとしたら?
 また、宇宙には様々な世界があって、同一の次元を持つパラレルワールドがあるという。それらが少しずつ互いに「時間のずれ」を生じさせながら、実はどこかで重なり合っている部分があるとしたら?
 亮介は未来に、過去に、また別の世界でこの夕陽を眺めることになるのだろうか。




壱  夕陽の時代

もうこれが最後だと思っていた。しかし、文則はそれまで集金した金の流れを記録したB6サイズのノートを眺めながら、未だだと否定した。亮介がそんなはずはない、三千円にはなるはずだと反論すると、うるせえ未だと言ったら未だなんだよと、文則は語気を荒げて亮介を睨んだ。
「もう、十回以上はお前に渡したはずだ」
「いいや、九回だ。それに三千円には程遠いぜ。今回のやつと合わせて千八百円だ」
 文則の言い分は嘘だと分かっていた。彼の言葉を信じれば、亮介は二百円ずつ九回しか払ってないことになる。でも亮介の記憶では一回の殆どが三百円で、もう十数回も彼に渡している。まさか千八百円ぽっちだなんて、そのようなことがあるはずがなかった。
「もう、限界だ。親にばれる」
 亮介がそう訴えると文則は暴力的な目を向け、俺に逆らうのかというがごとく、ノートを乱暴に閉じた。
 二人は文則の自宅の裏庭に居た。裏庭は雑草が鬱蒼と生い茂っていて、亮介の太腿に掻痒感が走る位無節操に天に向かって伸びていた。亮介が背中を預けている家の壁には窓が二つある。恐らく風呂と便所の窓である。どちらも人の気配がしない。誰か来てくれと、神仏に懇願している自分を想像してみても、誰も来る気配はしなかった。文則は一人っ子であり、両親は共働きで帰ってくるのが遅いといつか嘆いていた。誰もいないのかと亮介は諦めた。
「それなら、後三回だ」
 文則は、渋っている亮介に対して業を煮やし、懐柔策に出た。
「百円ずつでいいぜ、あと三回で許してやる」
「本当に?」
「ああ、本当だ。百円ずつなら分らねえだろ。百円位なら、お前のお袋も何かに遣ったんだろう位にしか思わねえだろうからさ、お前も助かるってもんだ」
 何がお前も助かるだと言い返したかったが、なにしろ身長百八十は裕にある巨体だ。逆らって勝てる相手ではなかった。
「本当だね。じゃあ、後三百円だ。でも約束は果たしてよ」
「ああ分かったよ、俺は言った事は守る主義だ、安心してくれ」
 文則はそう胸を張ると、さっさとその場所から離れ、お前も早く帰れよ、クラスの連中に会うとまたやっかいだぜと言い残して家に入っていった。
 帰り道、亮介は走って帰った。文則が言ったようにクラスの連中に遭遇してはいけない。
取り分けあのグループには。
 
 亮介が酷い虐めを受けるようになったのは、小学校の高学年になってからだった。きっかけは「風呂」だ。
当時、昭和四十年代後半、亮介は町の西端に並ぶ公営団地に住んでいた。家族は両親に祖父、姉がいて、亮介を加えての五人家族だった。団地の部屋は六畳二間に四畳半と台所と、それなりの間取りではあったが、如何せん風呂がなく、亮介たち家族は週三、四回近くの銭湯に通っていた。
ある日、友人の一人が風呂に毎日入っていると聞いて驚いた。風呂というものは、そんなに入るものとは思っていなかったからである。えっ、と目を見開きながら、俺の家は一日置きだよ、思わず口にするとそこに居た級友達は皆声を揃えて、汚ね―、と声を揃えて囃し立てた。 
当時の田舎はまだまだ農家が多く、しかもそれなりの資産をもっていたので、皆古かろうが継ぎ接ぎだらけであろうが、自分の家を持っていた。それに再開発が進み、新興住宅が建てられ始めていた時期で、そういった家には当然内風呂が存在し、住人は毎日風呂に入れる恩恵に与っていたのだ。
そのような環境の中、「週三」の亮介は疎外されない訳がなかった。
級友達の虐めは辛辣であった。亮介の机やノート等に落書きをするのは当り前で、集団で便所の個室に亮介を閉じ込め、頭上から水を浴びせ掛けたり、衆人の前で亮介のズボンをパンツごと引き摺り下ろしたり、終いには亮介を無視し出し、たまに話しかけてきても、亮介の目前で(南無阿弥陀仏)と手を合わせて焼香をする真似をする。亮介を同じ空気を吸っている、同じ人間としての扱いをしているようには到底思えない行為であった。
小五の時は何とか踏ん張ったが、小六になり事態が収まりそうもないことが分かると、亮介は次第に精神的に病むようになった。具合が悪いと事あるごとに親に告げ学校を休み、数々の病院を回った。医者は何れも原因不明とし、思春期の始まりにはよくあることですよと答えた。本当は、虐めが辛いんだよと亮介は告白したかったが、それでも決して亮介からそれを口にすることはなかった。疲れ果て精神は消耗し切っていたが、頑固なプライドだけは未だ残っていた。小六の一年間、亮介は殆ど学校に登校出来ず、それでもなんとか卒業することが出来た。
中学校に入学してからの亮介は、しばらくの間平穏な日々を過ごしていた。中学校は町内の各小学校からの寄せ集めで、クラスは効率よく分けられていた。亮介は同じクラスの中に虐めっ子達がいないことを確認し、ほっと肩を撫で下ろした。一学期の間は至って平和で、ああこんな日が来るとはとつくづく思った。
事態が暗転したのは夏休み後だった。クラスの男子生徒の一人、横山が、お前小学校殆ど行ってないんだってなと騒ぎ出したのだ。彼はクラスのリーダー格で、周囲に対する影響力を持ち合わせていた。それを聞くとクラスメイト達の亮介を見る目が変わっていった。二、三日もすると、皆亮介を汚いものでもみるような目で見、無視し始め、リーダー格の横山は何人かの生徒を引き連れて亮介を囲み、玩具を手に入れたとばかりに弄んだ。新たな虐めの始まりだった。
中学校での虐めは、それなりに我慢することは出来ると踏んでいた。どれくらい我慢すれば、最小限の被害で済むのか経験値で分かっていた。が、亮介はもうこれ以上我慢するのは真っ平御免だった。これからの中学生活を、まるで甲羅を背負った亀のように過ごさなければならないなんて、そんな辛いことはない。それでこの状況を打開しようと、頭を巡らし結論に至ったのが「文則と友人になること」だったのである。

文則は、孤高の存在だった。中一にして百八十を超える長身で、いつも眼球を不必要にぎらつかせ、横山も迂闊に手を出せなかった。彼は何故か私立のエスカレーター式の小学校から公立の中学に入学して来ており、そのせいで彼についての情報は誰も持ち合わせてはいなかった。そのせいか、彼に纏わる色々な噂、大きな暴力事件を起こして小六の殆どを少年院で過ごしていたとか、半殺しにされた相手はもう少しで死ぬところだったとかは半ば伝説化していて、話の真偽はともかく何人ともいえぬ恐れから、彼に話しかけるものは誰もいなかった。
亮介はそんな彼と友人となることで、「横山達に虐められる」という環境から脱却しようと考えたのである。
「文則君一寸いいかな」
 亮介が文則にやっとの思いでそう話しかけることが出来たのは、九月の半ば近く、放課後二人きりになった時だった。亮介は文則が、いつも放課後最後まで教室に残っていることを知っていて、チャンスを窺がっていたのだ。恐怖心から、話しかける前にかなりの緊張を強いられ、胸の中に大きな鉛玉を抱えたように苦しかったが、勇気を振り絞って話しかけてみると、意外にすんなり言葉を発することが出来た。
 文則はじろりと亮介を見たが、何だおまえかという顔をして、つまらなそうに亮介から視線を外した。亮介は構わず単刀直入に本題に入った。
「俺は今虐められているんだ」
 頬が何だか火照っている。
 すると文則は今更何を言い出すのかという顔をして、「だから?」と呟いた。
「俺を助けて欲しいんだ」
「助ける?」
「俺の友人になってくれればそれでいい」
「俺がお前の?はは、笑わせるじゃねえか」
「笑い事じゃなく本気なんだ。君が俺の友人になってくれれば、横山達は一切俺に手を出せなくなる」
「俺には全く関係のないことだ。おまえが何されようとな」
 文則のつれない返答に、それでも亮介は諦め切れず、
「何でもする、何でもするから、頼むから友達になってほしい」心底から頭を下げた。
 すると意外にもその言葉が効いたのか、文則はしばらく頭を下げた亮介を眺めながら、やがて薄く笑みを浮かべた。
「何でもするのか?」
「ああ、嘘は言わない」
文則は何かを考えているようだった。腕を組み亮介を凝視していたが、視線は亮介の身体を射抜き後ろの壁にまで到達していた。
「……五千円」と文則は呟いた。
「もし、五千円俺にくれるのなら、クラスが一緒の間はいつもお前の傍にいてやる」
 そう言われて少し驚いたが、考えてみれば、彼と自分とを結び付けるには、そういった報酬のようなものが必要なのは当り前だと亮介は気がついた。
「五千円で本当にいいのか」
「ああ、無理なら別に構わない。この話はなかったことになる」
「分かった、五千円用意する」
当時の亮介は月に二千円の小遣いを親からもらっていた。事情を話し、残りの三千円はあとでもいいかと文則に訊くと、「分割払いにしてやる。ただし一ヶ月以内だ。金が五千円に達するまでは、俺はお前を守らない」と冷たく返された。
 亮介は承諾し、それから毎日のように母親の財布から少しずつ小銭を抜き取る羽目になった。



 ブラスチックで出来た、ぺこちゃん貯金箱を手にすると、亮介は底に嵌められた半透明の丸い蓋をそっと外し、貯金箱を軽く振った。すると開けられた小さな穴から、小銭と小さく折り畳められている紙幣が何枚か、じゃらじゃらと机上に滑り落ちてきて、亮介はその中から百円玉三枚だけをを手にし、残りは元に戻した。 
 四畳半の部屋は、亮介と姉の小夜子との共同の勉強部屋で、窓側に机が二つ縦に、合わさるようにして並べられていた。姉の机上の本立てには大学入試の問題集が何冊も立てかけてあり、ぺこちゃんの貯金箱はいつもその前に置かれていた。
 姉が今にも帰ってきそうだったので、亮介は目的を果たすと蓋を嵌め、注意深くぺこちゃんを元通りの場所に置き、ごめんなさいと手を合わせた。その貯金箱は、姉が中学生の時から、大学受験の費用の足しになるようにと、少ない小遣いから少しずつ貯めてきたものなのだ。
 それまで亮介は、母親の財布から小銭を抜いて来た。最初は気づいていないようだったが、何度もやる内に、さすがに何かおかしいと感づいたのだろう、母は亮介の行動を監視するようになった。亮介はこれ以上母の財布から金を抜き取ることは出来ないと判断し、姉の貯金箱からしばらくの間借りることにした。
ペコちゃんに謝った後、亮介は自分の机の椅子に座り、机の一番上の引き出しを引いて小銭を仕舞った。明日にでも文則に全て払ってしまおう、そう思い亮介は勉強部屋から出て行った。


その日の夕飯後、食卓のテーブルを挟んで姉と父は対峙していた。
「そんな話は聞いていない」
 父は怒りを含んだ声を上げた。
「でも私決めたのよ」
 姉は負けずに応酬した。
 父と姉がこのように喧嘩するのを見たのは初めてのことだった。小さな頃から姉は、父に特別な存在として扱われて育ってきた。怒るなんてもっての外で、かわいいかわいいとお金が無いにもかかわらず、姉の望むものは何でも買ってやっていた。小さな頃亮介が何か物を強請ると、父は決まってお前は男だからと言い我慢させられた。アルバム一つにしても姉は六冊を数え、亮介は一冊しかなかった。彼女は事あるごとに父に写真を撮ってもらい、自分が育ってきた歴史を残してきたのだ。一度母に、自分は父の子ではないのではないかと訊いてみたことがあったが、母は、ばかねえ、そんなこと言うもんじゃないよと苦笑していた。
 さすがに成長してくると、姉は自我が芽生え物を強請ることもなくなり、貯金をするようにもなったが、父にとっての姉は、愛おしい何物にも代えがたいものに変わりがなかった。
 そんな父が、本気で姉に怒りの目を向けている。その時亮介は同じ部屋の隅にいて、事の成り行きに少しの不安と少しの期待を抱いていた。
「ともかく、私は東京の大学を受験するわ、それは中学校から決めていたことだし、変わることはないのよ」
「東京ってお前、地元の大学に進むんじゃないのか」
「私はここを出て行きたいのよ」
「出て行きたいだと。ここの何が不満なんだ」
「不満は無いわ。でもここに居たら私駄目になるわ、きっと」
「ふざけんな」
 父は顔を真っ赤にして、握った拳をぶるぶると震わせていた。それを見た亮介はまるで、仁王様のようだと思った。
「東京に行くにしてもだ、学費や生活費はどうするんだ。東京に行くというなら、俺はびた一文として、出すつもりはないぞ」
「そう言うと思って、奨学金の手続きをしたわ、それにバイトをすれば何とかなると思うの」
「勝手にしろ」
 なんだ、結局父さん折れているじゃないかと亮介はがっかりした。姉は、それじゃ私勉強するからと、さっさと四畳半の勉強部屋へと襖を引き入っていった。
「誰に育ててもらったと思ってるんだ」
 父はテーブルをドンと拳で叩き、酒もってこいと台所にいる母に向かって叫んでいた。
それから亮介も勉強部屋へ直行することにした。父が酒を飲みだしたからだ。火の粉がこちらに降り懸らないともいえない。父は酒乱というほどではないが、酒を飲むととたんに人が変わり、傍にいる誰かれなくしつこいように絡む癖があった。姉に対する不満を亮介にぶちまけられても困る。亮介は逃げ出すようにして父を見捨てた。
「なんか用?」
 ノックをして襖を開けると、机を前にした姉は不審者を見つけたような顔つきで亮介を見た。
「俺もマジやばいんで、逃げてきたよ」
「そう……またお酒?」
「うん」
 亮介が返事をすると、仕方が無いわねという風に姉はふーっと溜息をついた。
「何で東京なの?」
 亮介がそう訊くと、本当はね、と姉は喋り始めた。
「……本当は東京じゃなくてもいいのよ。ここ以外のどこか、ならね。親もいない、地元の友達にも会うこともない、人生一度リセットして、一人になって、一人で考えられる場所に住むって理想じゃない。そう思わない?」
 姉の言っていることは、もっともだと思った。亮介も一人になりたいと何度も考えていたからだ。誰にも邪魔されない自分だけの世界。横山のことも文則のことも考えないで済む世界。亮介も人生一度リセットしてやり直せたらどんなに幸せかと思っていた。
「…そう出来たらいうことない」
「そうね、だからその為に、私はここから出て行くのよ」
姉の言葉には確固たる意志が込められていた。どんなことがあっても、折れることのない太く硬い意志。それは、どんな過程でつくられたのだろうか。そこまで考えた時姉は、でもね、と呟いた。
「何」
「うん、でも、一つだけ気がかりなことがあるのよ」
「気がかり」
「亮介、あんたのことが心配なの」
 気づいていたのか、と思った。姉の「心配」という言葉は、まさに亮介が虐められいることに対して向けられたものだった。
「亮介、あんた虐められているんじゃない。お母さん、最近あんたが元気ないって言っているのよ」
「そんなことはない」
「いいえ、嘘いってもだめよ。私の目から見ても最近のあんたはおかしい。小学校の頃と一緒。目が虚ろで毎日を生きているのが精一杯って感じだよ」
 小学生の頃、虐められていたことをいち早く気づいたのが姉だった。卒業文集に書き綴られた、「学校にも来ないのに、迷惑、消えて欲しい」という亮介に対して向けられた級友の一文に彼女は怒り、それを平然と載せた学校の担任に抗議をしにいった。それはまるで自分がそうされたかのような怒り方だった。
「姉ちゃん、俺のことは心配しなくてもいいよ。虐められてはいないし、元気がない訳でもない。…そうそう強いていえば勉強のことかな。ついていくのが大変なんだよ、時間があったら今度教えておくれよ。数学がさ、苦手なんだ」
 姉はその亮介の言い訳に、小さく嘘っぱち…、と呟いてやがて亮介を無視するように机に向かった。亮介は机の前に腰掛けて教科書を広げ、勉強するふりをした。机の引き出しの中には三百円があった。姉ちゃんごめん、亮介は心の内で姉に謝り、土下座している自分を想像した。



 上空を見上げると青い空が広がっていた。
白い太陽はまだまだ沈む気配はなく、亮介たちの世界の色を明確にしていた。キーンという音の後に、飛行機雲が、暢気に追いかけている。
「何余裕かましてんだよ」
 何となく上空を見上げていた亮介を見て苛立ったのか、横山は語気を強めた。横山の他にあと二人いる。佐野と梶原だ。そこは学校の屋上だった。
 放課後、横山ら三人に屋上へ来いと呼ばれた。屋上で何をされるのかは大体分かっていたが、逆らえばその場で、ズボンを引き摺り下ろされるか、プロレスごっと称して殴られるか、ともかく「虐め」と呼ばれる行為をされることは明白だった。亮介はなるべく衆人の前で辱めを受けたくなかったので、大人しくついていくことにした。
 横山達は、亮介を連れて屋上に上がると、隅にある大きな浄水タンクの裏まで来て、ズボンのポケットから煙草とマッチを出し、火を点け煙草を吸った。 
 彼らが煙草を吸っている間、亮介は他にすることもないので上空を見ていた。その様子を見て横山は苛つき、怒声を亮介に浴びせたのだった。
「お前、生意気なんだよ」
 横山は唾を吐く。
「死んじまえ」とも。
 その言葉に、さあいよいよ始まるか、と亮介は覚悟し、全身に力を込めた。
「やれ」
 横山の合図とともに、佐野は後方に回って、亮介を羽交い絞めにし、もう一人の梶原が亮介の前方に立った。
 梶原は、にやりと醜悪に笑い、舌なめずりをすると、亮介のワイシャツのボタンを一つずつ外していった。ボタンを一通り外し終えると、今度は現れた下着を亮介の首の辺りまで捲り挙げた。
 亮介が何とかしてすり抜けようと身体を左右に揺さぶると、
「さあて、楽しいショーの始まりだ」
 横山はそう口にし、火の点いた煙草を手にして亮介に接近した。
「一度やってみたかった」
横山が残忍な笑みを浮かべた瞬間、脇腹に熱い痛みを感じて亮介は呻き声を上げた。
 ちりちり、と肉が焼けるときのものなのか、煙草自身が発するものなのか分からない音がした。熱く抉るような痛みが脇腹に走る。亮介は痛みで気を失いそうになった。
 横山は煙草の先を亮介の脇腹に押し付けていたのだ。
 それから何度も横山から同じ行為を受けたが、その都度同じ表情とアクションを繰り返す亮介に飽きたのか、横山は、つまらねえと呟き、最後に煙草に火を点けたはいいが、それを一、二回吸っただけで、まだ十分な長さのあるまま地面に落とし、踵で踏み潰してしまった。
「それじゃあ、俺にやらせろよ」
 佐野が羽交い絞めにした手を緩めると、亮介は膝から崩れ、そのまま地面に仰向けになった。もうどうなってもよかった。亮介は脇腹を押さえ、やけくそになっている自分に気づき、微かに笑っていた。
「おいこいつ、笑ってやがる」
「気持ち悪いなあ」
「マゾなんじゃねえか、こいつ」
 亮介を見下ろし、横山達は、亮介の身体に軽く蹴りを入れていたが、やがて抵抗もしない亮介の態度に興ざめし、帰るぞとその場から去って行った。
 仰向けになったまましばらく空を眺めていると、渡り鳥らしい三角に編隊した大群が北から南の山向こうへと消えていった。
 鳥になりたい、亮介はそう独りごち、すると涙がとめどなく頬を伝いどうしょうもなくなった。脇腹の痛みは、そこだけ脈打つような重い痛みに変わっていた。
 
 脇腹にじりじりする痛みを抱えながら土手の道を歩いていた。土手の道は亮介が小学校から慣れ親しんだ道だった。大通りを通って帰る方法もあったのだが、こちらのほうが、学校の行き帰りには近いので、団地に住んでいる殆どの生徒が土手の道を利用していた。  
 片側には大きな川が流れ、もう片側には雑多で背の高い草がこちらに向かってくるように生茂っていた。前日、大量の雨が降ったせいか川の水量は多い。何とはなしに、筏に乗って川を下っていく自分を想像して、少しだけ楽しい気分になった。
帰りに文則の家に寄って、三百円渡そうか迷っていたが、脇腹の痛みが酷く少し熱を感じた亮介はそのまま家に帰ることに決めた。前方をみると川を渡す橋が見え、その上を車が何台も右へ左へと行き交っていた。橋の向こうには山が聳え立ち茜色の夕陽が沈みかけると、山の稜線をくっきりと浮かび上がらせていた。
 そんな景色に少なからず何かを感じ足を止めていたら、後ろから誰かに声を掛けられた。振り向くと、響子ちゃんが立っていて、はあはあ、と息を切らせていた。
「さっきから、声を掛けていたのに、亮介君気づかずに、どんどん行ってしまうんだもの」
「ごめん、気づかなかった」
「何を見ていたの」
 響子ちゃんの言葉に、あれだよ、と山の方角を指差した。
「ああ、なんて綺麗な茜色…」
 響子ちゃんは、顔を紅潮させながら目を細めた。
 響子ちゃんとは、同じ団地に住んでいる間柄だった。棟は違ったが、小学生の頃、登校班が一緒だったこともあり、よく二人で砂埃の立つ土手の道を通いながら、昨日見たテレビの話などをしていたものだ。彼女は優しく亮介の憧れの娘だった。彼女は亮介よりも学年がひとつ上で、亮介が六年生になると一足先に中学生になった。その後彼女とは接点がなくなったが、今思うと亮介が小学校に行かなくなった理由の一つには彼女がいなくなったことによるショックもあったに違いない。
「今、部活の帰りなの」
「そうよ、陸上部は厳しいのよ、帰宅部くんとはちがうのよ」
「帰宅部って、これでも一応新聞部だぜ、…まあ、もっともこれといった活動はしてないけどさ」 
 亮介たちは並んで歩き始めた。セーラー服の彼女は、地味だけど、時折見せる笑顔がとても魅力的だった。瞳は薄茶色で、髪はみつあみにしていた。清楚という言葉がぴったり当てはまる彼女だった。
「あのね」
「何」
「まだ、来年のことだけどね、うちね、引っ越すことになったの」
「えっ、そうなんだ」
 唐突な彼女の告白に、亮介は驚きを禁じえなかった。
「そ、それで何処に引っ越すの」
「Y市に引っ越すのよ。今、家を新築しているの。完成予定が二月の予定かな。だから今の中学とも、来年の三月でバイバイだね」
「…」
 亮介は、大きなショックを受けた。いくらなんでも、そんな。…今日、響子ちゃんに出会わなければよかった。会話を交わしたのは小学校以来で、中学校に入ってからは初めてのことである。久しぶりに会って話した結果がこれだなんて…。これが最後の会話になるのかもしれない。引越し迄亮介と響子ちゃんは結局話す機会もなく、彼女は何年か住み慣れ親しんだ団地を去るのである。来年には姉も家を出て行く。そう思うと、なんだかひとり取り残されるようで亮介はいっそう悲しくなった。
「寂しくなるな」
 亮介はそう言うのが精一杯だった。
 それから響子ちゃんは団地に着くまで他愛無い話を亮介に向けてきたが、亮介の方は、はいとかうん、だとか言って、適当に答えていた。
「じゃあね、さよなら」
団地の前で二人は別れた。三階建ての団地群は古く、夕闇の中で亮介と響子ちゃんをかこんでいる妖怪達の群れのように見えた。亮介は、響子ちゃんが、妖怪の口の中に消えていくのを確認すると、あーあ食われちまった、と微かに呟き、しばらくの間そこに立ち尽くしていた。

 家に帰ると、亮介は居間の箪笥の上にある薬箱を下ろした。それから薬箱の蓋を開け軟膏を取り出す。脇腹は相変わらずじんとして熱く、痛みがあった。祖父が六畳の部屋から出てきて、怪訝そうな顔で亮介の方を見ていたので、工作で指切ったんだと言って、箪笥から着替えも持ち出し祖父の前をするりと抜け、姉のいない四畳半の襖を引いた。襖を閉め部屋に入り、外の様子をうかがったが誰も来ないと悟り、亮介は自分の机の椅子に腰掛け、ふうと溜息をついた。それから思い切ってシャツを全部脱ぎ捨て、脇腹の状態を確認した。煙草を押し付けられた跡は四箇所あった。四つとも皮膚を破られた中央に赤い肉片が現われ、周囲は焼け焦げたような盛り上がりを見せている。亮介は、やれやれこれは跡に残るだろうな、と思い落胆した。下着にも点々と血の跡が付着している。亮介はそれを放りなげ、傷口に軟膏を塗りたくった。
 軟膏を塗って一息付いたあと立ち上がり、もう一度血の付いた下着を手に取り、どうしようかと思案した。本当はその日の下着は、台所脇にある青色の篭の中に放り込んでおくのが常だったが、母が洗濯するときに気づくに違いないなかった。気づけば母は亮介を問い詰めない訳にはいかない。厄介ごとはごめんだと思い、亮介は机脇の大きい方の引き出しに下着を放り込んだ。誰もいないときに持ち出して、何処かに捨てにいけばいい。一瞬いい考えだと自賛したがすぐに憂鬱になり、自分の現状を呪った。横山とのこと、文則とのこと、今日会った響子ちゃんとのこと、いろいろなことが、亮介の頭の中で旋回し、落ちて行く。ざまあねえわな、亮介は呟き、天上を仰ぎ、必死に涙を堪えようとした。亮介は今日何回泣いただろうと恥じ、涙の跡が残らないように注意深く手の甲で拭い、それから着替えを済まして勉強部屋から出ていった。

 夕飯時に父の姿はなかった。どうしたのかと母に尋ねると、父さんは管理職だから大変なのよと仕方なさそうな顔をした。姉は無言で食事を済ませ、母が何かを言いたそうにしているのを尻目に、さっさと勉強部屋へと消えていった。それから亮介は姉以外の自分を含め、四人の寝室となる六畳の部屋へと入り、祖父が個人的に購入したサンヨーのパーソナルテレビのスイッチを点け、水戸黄門を見ていると祖父が後から入って来た。
「水戸光圀か・・」
 亮介の隣に座ると祖父は何とはなしに呟いた。
 テレビでは、助さんと格さんが悪代官の手下を相手に立ち回りを繰り広げている最中だった。
「光圀が各地を漫遊したのは、物語の中だけの話なんだ」
 祖父は亮介の方を向く。
「へえ」
 亮介が、そう返事を返すと、祖父は得意げな顔をして話し始めた。
「光圀が名君だったのは本当のことだが、実際は江戸と鎌倉にしか行ったことがないんだよ。物語の元になったのは、当時の人気戯作者の十返舎一九の(東海道中膝栗毛)らしいな。それを参考にして講談師が(水戸黄門漫遊記)なるものを創作したということだ」
 祖父がそう話しているのに、胡坐をかき、うんうんと生返事をしてテレビの画面を眺めていた。各さんが葵の御紋の入った印籠を出し、お決まりの、この紋所が目にはいらぬかと悪者達を平伏させていた。その瞬間亮介の中にも、妙な優越感が生まれた。亮介が印籠を出し、横山達が、亮介に平伏す姿を想像して痛快な気分になった。それから畳の上に後ろ手をつき、体勢を少し斜めに捻った。すると脇腹に引きつるような痛みが走った。いててと思わず口に出すと、祖父がこちらを見ているのが分かった。
「どこか、怪我してるのか、お前」
「いいや、ちょっと体勢を崩して腰を捻っただけさ」
「それにしては辛そうな顔をしているぞ」
「何でもない、何でもないよ」
 亮介がそう言うと祖父は、何でもないねえと訝りながらも、それ以上何も言ってはこなかった。
テレビに目をやると黄門様が、カッカッカーと笑っている。
 明日だ。明日で亮介は「文則」という印籠を手にすることになり、横山達は現実に、亮介に対して平伏することになる。亮介は、彼らが自分に向かって土下座している姿を想像して、微かに笑った。



  ねえ、亮介、亮介ったら…。
 亮介が朝歯磨きをしていると、姉の小夜子がそう言って、便所脇の小さな洗面所に飛び込んできた。何騒いでるんだ、と驚いた顔をして姉の方を見遣ると、何やら事件が勃発したらしい。亮介が、なんだい、と勤めて冷静に訊くと、いつからあんたらそんな仲になったのよ、と亮介を問い詰めた。
「そんな仲って?」
「だから響子ちゃんよ、響子ちゃん、あんたを迎えに来てるのよ」
「えっ?」
「だ・か・ら、今、玄関口に居るのよ」
 姉は目を丸くしながら息急き切った。
 亮介は、一瞬、その意味が分からず、しばらく姉の言った言葉を反芻していたが、やがて事の重大さに気づき、慌てた。響子ちゃんが来てるって?何故?ともかく亮介は、待たせてはいけないと歯磨きもそこそこに、急いで制服に着替え、ショルダーの鞄を肩に掛け、玄関口に出た。
 響子ちゃんは少し俯き加減にお早う、と亮介に言い、それから紅潮した顔を上げると一緒に学校に行かない?と亮介を誘った。どうやら姉と亮介の会話は筒抜けだったようだ。
「じゃあ、俺もう出かけるから」
 亮介が奥にいるはずの母に向かって叫ぶと、姉がしゃしゃり出て来て、いってらっしゃい、お元気で、と訳の分からない言葉を投げかけ亮介たちを見送った。
 亮介たちは、小学校の時そうであったように、並んで歩いていった。朝の空気は冷たく、時折頬を削り取るような激しい突風が吹いた。土手に差し掛かるまで、亮介たちは互いに沈黙を守っていた。  
 亮介と響子ちゃんがこうやって一緒に歩くのは、あの日以来凡そ二か月ぶりのことだった。
「迷惑だったかな?」
 土手の道を歩きながら響子ちゃんは小首を傾ける。
「いいや、そんなことはない」
「よかった…」
 響子ちゃんは呟いた。
「朝、こうやって登校するのも小学校以来だね」
「そういえば、そうかあ」
 それよりも今日は、突然またどうしてと思い、亮介は疑問をそのまま口にした。
「それで、今日はどうして」
「ほんとは前に話しておくべきだったのだけれど…お願いがあるのよ」
「お願い」
「そう、お願い…」
「お願いってなに」
「うん、もう少し、もう少し歩けば分かるわ」
 亮介たちは砂埃の舞う土手道を渡りきり、学校へ向かうのとは違う道の角を曲がった。亮介が学校はこっちだよ、と学校の方向を指差していると、彼女は少し寄り道するの、と空き地が点在する方角に亮介を誘い、ここよと行き止まりになった先の空き地に入っていった。空き地は草木も枯れ、中央に大きな土管が何本か積まれていた。響子ちゃんはそこまで来ると、中腰になり、その中の一本の土管の穴を覗き込み、両手を穴の中に差し伸べ、やがて小さな猫を抱き上げた。
 亮介が近づいても、猫はぴくりとも動かず、気持ち良さそうに響子ちゃんの胸に抱かれていた。典型的な茶色の縞々のある猫で、近くで見ると、肋骨が心なしか、浮いているような気がした。抱いてみる?と、響子ちゃんに訊かれ、彼女から手渡しされ、抱いてみると、猫はミャーンと一鳴きして、亮介をその大きな瞳で一瞥し、腕の中で丸くなった。
「この猫、名前は?」
「メスだから、ミーコ」
「ここにいたの」
「そう、ここで半年前に見つけたの。夕方ね、部活の帰りにね、どこからか、猫の声がすると思って、偶然ここまできてみたら、彼女が顔をだしていたの…この穴から」
 亮介は再度ミーコと呼ばれるその猫を観察してみた。所々毛が禿げている、栄養不良のためか子猫と見間違うほど、小さい、それから彼女の後ろ足、右足だが、妙に不自然に内側に湾曲していた。
 亮介がそれをしげしげと眺めていることに気づき、響子ちゃんは、
「車に撥ねられたみたいね、骨が折れてそのままにしていたから、不自然に曲がっちゃったのかしら。彼女はその為、行動範囲が狭まってしまっているの」
 ああ、それでね、と亮介が理解すると、ミーコはまた亮介を見つめて、ミャーと鳴いた。
「それで、ミーコを俺に任せたいってことかい」
 亮介は先回りした。
「そうしてもらえたら、嬉しいんだけど。私は、年が変われば直に引っ越さなければならない。連れて行ければいいのだけれど、母にそれとなく相談したら反対されたわ。このコは足のせいで、自分の食料さえも確保できないの。私がいなくなった後、餌だけでも与えてもらえればそれでいいのよ。ねえ、お願い出来るかな」
 彼女は顔の前で手を合わせ、まるで後がないといったように懇願した。
 響子ちゃんの申し出に亮介は戸惑った。亮介に猫を世話する甲斐性があるとは、到底思えなかった。かといって響子ちゃんの必死の願いを、無闇に断る勇気はなかった。亮介は、何かいい解決策はないかと逡巡した。
「駄目よね、当り前だわ、亮介君、優しいから、もしかして、って思ったの。ごめんね、悩ませたりして」
 響子ちゃんは亮介が逡巡している様子をみて、前言を撤回した。
「待って、結局はミーコを世話する人が現われればいいんだよね」
「それは、私も友達に当たってみたの…でも、ミーコの足のこともあって、誰も見向きもしなかったの」
「ともかく、俺が何とかしてみるよ」
 亮介は笑いながら、あいつなら、と思っていた。あいつならきっと、ミーコを喜んで引き受けてくれるに違いない。心配しないで、何とかなるから、響子ちゃん。
 突風が幾つかの小さなつむじ風をつくり、枯葉を舞い上がらせていた。
亮介はもう冬なんだなと、片手でミーコを抱き、もう一方の手を制服のポケットに突っ込んだ。


「俺に猫を引き取れだと」
 文則は、大きな声を教室内に響き渡らせた。
 横山達は、その声に驚き、忌々しげにこちらを見ている。
 亮介は文則を、凡そ二か月前に「友達」として雇い、それから何時も行動を共にするようになった。金で「友達」を雇うなんて不純な行為ではあったが、彼と行動を共にすると、横山達は面白いように亮介から手を引き、その後、亮介は「虐め」とは無縁の日々を送っていた。やはり彼らにとって、文則は恐怖の対象なのだ。
 偽りの友達から始めた付き合いだったが、付き合う内に、亮介は文則の意外な一面を見ることになった。カレーライスとラーメンに目がないこと、お人好しなところがあり、一人が決して好きな訳ではなく、本当は人一倍の寂しがりやであること、そして動物が大好きで、無類の猫好きであること。亮介は初めて彼の家に招き入れてもらったときの事を思い出していた。

「さあ、入れよ」
 文則は恥ずかしそうに俯いて、自分の家に入るように亮介を促した。
「いいのか」
「いいっていってるじゃねえか、それに誰もいねえよ」
「分かった、じゃあ、お邪魔します」
 上がり框に足を掛けると、猫が一匹寄って来て亮介の足に纏わりついてきた。
 亮介が吃驚して見ていると、文則は、猫が好きなんだ、とその猫を抱きかかえ、亮介を二階へと案内した。
 猫は、二階の文則の部屋にも何匹かたむろし、亮介たちの周りを行ったり来たりしていた。その内、文則が餌だぞとキャットフードを何皿かに分けて出すと、猫たちは一斉に飛びつきがつがつと旨そうに食べ始めた。それからその猫たちの様子を眺めている亮介に対して文則は、お前の五千円、こいつらの餌代で消えちまった、と嬉しそうに笑った。
 その笑顔を見た時から亮介は、文則を少し見直すようになった。彼は悪ぶってはいたが、本当は、心根の優しい人間なんだなと思った。五千円を奪われた相手を何故、そう思えたのかは分からない。ただ、屈託のない彼の笑顔は何の混じりけのないものに思えたのだった。

「で、その猫は何処にいるんだ」
 文則は、話にのってきた。
「三丁目の空き地だ、そこの土管の中にいる」
「土管の中?それはまた酔狂なところにいるんだな」
「後ろ足が不自由なんだよ、その足のせいでそいつは動ける範囲が知れているんだ」
「一度、俺をそこへ連れてけよ。引き取るのは可能だが、その前に見ておきたい」
「分かった。今まで世話してた人がいるんで、その人立会いでいいかい」
「そいつは何処の誰なんだ」
「女性だ。俺と同じ団地に住んでる一年上の先輩だ」
 女か…、そいつはおまえのこれなのか、と文則は小指を立てるまねをした。亮介が、違う違う、同じ団地に住んでいるだけだと言うと、文則はそうだよな、根暗のお前に彼女なんてできるはずがねえ、と大きく笑った。
 亮介はこいつってこんな楽しそうに笑うような奴だっけ?と思ったが、まあいいや、ともかく彼女に急いで知らせなきゃと、昼休みに文則を連れて二年生の教室に響子ちゃんを訪ねていった。
 響子ちゃんは、文則を前にして、余りの威圧感に一瞬たじろいだが、オッス、自分文則って言いますよろしくッス、と何時にもなく硬く挨拶する文則に好感を持ったのか、相好を崩し、じゃあ放課後校門前で待っててね、と約束をしてくれた。教室へ戻る道すがら、文則は彼女は天使だ、運命の出会いだと逆上せ上がり、亮介はまあまあと宥めるのに苦労した。
 放課後になり、さっそく亮介たち三人は空き地へと向かって行った。
 土管の前まで来て、文則が猫は何処に居るんだと訊いてきたので、そこだと中央の土管を指差すと、彼は大きな身体をこれでもかという位に屈めて、土管の中に手を伸ばし猫のミーコを抱き上げた。それからしばらくの間、彼はミーコの様子を観察し、何やら反応を確かめ終えると、これはまずいな、と呟いた。
「何がまずいのかしら」
 響子ちゃんが訊ねると、
「こいつ、目が見えてないんだ」
 と文則は返答した。
 まさか目まで見えないと思っていなかった亮介たちは、驚きを隠しきれなかった。
「事故のせいかしら」
「分からねえ、ほら、こうやって人差指を左右に振っても何の反応もないんだ。こいつの目が不自由な証拠さ」
「じゃあ、引き取ってもらえない」
「いいや、逆にこいつは、足も悪いし、然る場所で誰かに世話してもらわないと生きられねえ。あんたが餌をやっていたにしろ、よくまあ、こんな土管の中で生き続けていられたもんだ」
「それじゃあ…」
「うん、俺が面倒みるよ」
 文則がそう答えると、響子ちゃんは安堵し、良かったと笑顔を見せ、その瞳は少し潤んでいるように見えた。
 亮介が文則に、男だねえというと、当たりめえだろうと文則は返してきた。
 ミーコはというと、文則の大きな身体に抱かれてとても気持ちよさそうにしていた。
 ミーコはこうして文則の飼い猫の一員として迎えられたのだった。



 ミャーン。
 猫のミーコが不自由そうに、ひょこひょこと近づき、胡坐をかいた中央の空間に滑り込もうとしていたので、亮介は彼女をそっと両手で抱えて、その空間に置いた。居場所を確保した彼女の大きな目はこちらの方を向いている。彼女の目は、こちらをじっと見つめているようにも思え、人差指を彼女の目の前で左右に振って見せたが、反応をみせないのでやはり見えないのかと亮介は溜息をついた。
 文則の部屋は、散らかっていた。脱ぎっぱなしの服や靴下、読んだまま放り出してある漫画雑誌、炬燵の上に転がっているカップヌードルの殻、ジュースの空き缶、そして、我が物顔であちこち行き来している猫たちはジュース缶を倒したりしている。どうしたらこんな状態になるのか不思議だった。
 亮介が、文則に親は何にも言わないのかと訊ねると、文則は読んでいた漫画雑誌から顔をあげ、親、今いないからと答えた。
「親がいないって、どういうことだ」
 亮介がそう不思議そうに訊ねると、
「親父もお袋も、この家には一週間に一回しか戻ってこねえよ。俺はいつも一人だ」
 と文則はやけくそ気味に笑った。
「一週間に一回?」
 亮介が理解できないといった顔をしていると、文則は仕方がないといったように話し始めた。
「ああ、別居中っていうのかな、ともかく二人は一瞬たりとも同じ家で同じ空気を吸ってられないらしくてな、それで出て行っちまって、二人とも自分の(いいひと)の所にいるよ。今じゃ、一週間に一回俺の様子を見に来るだけさ」
「それじゃ、お前一人でこの家に住んでるようなものじゃないか。食事なんかどうしている?お前一人じゃどうにもならんだろう」
「たまに二人から、これでいろんな支払いを済ませなさいって、金をもらっているよ。支払いを済ました残りでパンや弁当を買って、食っている。金はこいつらの餌も買ったりしているから、何時もピーピーだな」
「どちらかについて行くって考えはないのか」
「俺はどちらの味方もしねえよ、俺は自分の意志でここにいるんだ。もっとも親父もお袋も二人とも、俺を引き取りたくないんで、本当のところは俺が見捨てられたっていうのが事実だがな」
「そんな…」
 亮介は絶句した。これまで、何度か文則の家を訪ねてきたが、そんなことになっていたなんて思いもしなかった。文則はいたって普通のことのように話していたが、それがどんなに辛いことか。家に帰っても誰もいない、食事も何もかも自分ひとりで済ます日々、亮介は一時期一人になりたいと思っていたが、今では一人でいることは辛い、そう思うようになっていた。文則は一人でいることが苦痛ではないのか。
「だからって、俺を哀れむんじゃねえぞ、猫たちもいるし、俺は今の状況が結構気に入ってるんだ」
 文則はそう言うと、漫画雑誌に再び目を戻し、もうこれ以上話さないとばかりに無口になった。
 
 文則が買出しに行くというので、亮介も帰ることにした。
駅前のスーパーの前で文則と別れて、一人になった。一人になると急になんともいえない不安が亮介を襲った。不安は亮介の胸の中で暗雲となって広がり、亮介の胸を一杯にした。
 文則はこれからもひとりで生活していくのだろうか。でも、いずれはその生活は崩壊する。あんな生活が何時までも許されるはずがない。きっと彼は父親ではなく、母親の方に引き取られるに違いない。彼のまだ十三歳という年齢を考慮すると、その可能性が高いのだ。母親に引き取られることになった彼は、転校を余儀なくされ、支えを失った亮介や猫達は行き場を失うことになる。最悪だ。けれど…。
 そのようなことを考えながら、橋の袂に差し掛かった。ふと土手の下の川原に目をむけると、何人かの人間がたむろしている。彼らは川原から亮介を目ざとく見つけ、急勾配の土手坂を急いで登りきると亮介の前に立ち、道を塞いだ。  
横山達だった。
「よお、亮介くんじゃないの、今日は一人かい。ボディガードくんはいないんだ」
 横山達はいやらしい笑みを浮かべていた。
「ボディガード?」
「惚けんじゃねえ。文則のことだよ」
「あいつは別に俺の用心棒じゃないよ。唯の友達だ」
 亮介が構わず彼らの間をすり抜けようとすると、横山は亮介の肩に手を掛け、待てよ、と揺すった。
「なあ、お前さあ、文則と仲良くなったからって、いい気になってんじゃないぞ。文則だって、万能じゃないんだ。いいか、文則に言っておけ、俺らはお前の本当の過去を知っているってな。奴を知っている私立中の連中から聞いたんだ。それを聞いて俺は笑ったね。噂なんて、当てにならないってさ」
 横山は、薄笑いを浮かべ、亮介の肩から手を外す。彼は、いいよ、今日は行っちまえよ、と亮介の背中を軽くポンと押した。
 亮介は彼らから解放され、いくつかの視線を背中に感じながら、逃げるようにして前進した。それから百メートルほど進んだあと立ち止まり、後ろを振り返ると彼らはもうそこにはいなかった。亮介は安堵した。それと同時に亮介は横山が言った言葉が気になり始めた。文則の過去を知ってると横山は言っていた。噂が当てにならないとも言った。彼らは文則の何を知ったというのだろうか。亮介は一抹の不安を感じながら、再度前を向き帰路についた。


 次の日の朝は大変なことになっていた。亮介が教室の中に入ると、がやがやと級友達が騒いでおり、何人かが前を指差していた。彼らの視線の先を追ってみると、何やら黒板に大きな文字が書かれている。
(衝撃的事実!文則は、小六の時、自殺未遂を起こしていた!)
 汚く殴り書きしたような文字の羅列だった。
 文則が自殺?一瞬にして、馬鹿なと思い、亮介はすぐに黒板消しを手にして黒板に押し付け、車のウィンカーのごとく右手を大きく左右に動かし、その卑劣な文字を消していった。
 文字を消し終わり後ろを睨むと、級友達は、あーあ、消しちまった、という顔をしていたが、彼らはすぐに別の事に関心を移していったようだ。 
 教室の隅にいる横山達が、にやついた視線をこちらに向けている。犯人は奴らか、前日のことを思い浮かべ亮介は直感した。
 当事者である文則の方に視線を向けると、彼は何時ものように腕を組み、首を解すような仕草をしていた。どうやらダメージはなさそうだ。亮介は、ほっと胸を撫で下ろし、自分の席に着いた。
 その日の授業内容はまるで頭の中に入ってこなかった。黒板に書かれていたことが脳裏から離れなかったのだ。文則に自殺の過去がある?振って沸いたような、その事実かどうか判定できない事柄に、亮介はこの二ヶ月間の文則との付き合いを照らし合わせて考えてみた。亮介には到底信じられなかった。
恐れられている彼が、実は心優しき人物であることは亮介には分かっていた。でも、それは彼の心の弱さを示すものではない。彼は一人で居ることも厭わない、強く我慢強い人間なのだ。横山達が、私立中の連中から聞いてきた噂なのだろうが、何かの間違いだと思った。きっと彼に纏わる数々の伝説のように、私立中の連中が事実を捻じ曲げ、面白おかしく横山達に伝えたに違いない、亮介はそう思うことにした。

 放課後、亮介たちは横山達に屋上へと呼ばれた。
使い走りの佐野と梶原が、教室に残っていた亮介たちに近づき、「横山君が屋上で待っている」と、にやつきながら、囁いてきた。彼らの目には、もう文則に対する怯えの一欠けらも残ってはいなかった。
 二人に導かれるままに、屋上に出た。青い空だな、両手をズボンのポケットに突っ込みながら、文則は呟き、暢気に上空を見上げた。横山は右手を不自然に身体で隠し、浄水タンクの前に立っていた。
「お前には騙されたよ」
 横山の前まで来ると、彼は顎をやや斜め気味に上げた。
「騙された?」
「少年院に行っていたなんて嘘八百じゃねえか」
「俺は、自分でそんなことを言った覚えはねえ。噂が勝手に一人歩きしただけさ」
「まあ、いい。でも、お前が自殺未遂した事実だけは消えないぜ」
 横山は含み笑いをしながら、カランと右手を前に出した。横山は金属バットを手にしていた。
「汚ねえ奴だな、お前…」
「念には念を入れてな。噂が嘘だとしても、その巨体だ。暴れられると始末に負えねえ」
 横山を中心にして、梶原と佐野が亮介たちを囲んだ。何時の間にか彼らの手にも金属バットが握られていた。亮介がどうしたものかと逡巡して、文則の方に目を遣ると、彼は、お前は邪魔だ、逃げろ、と耳打ちしてきた。でも、一人じゃ、と亮介が言い掛けると、突然彼は、亮介の後方に居た梶原に飛び掛り押さえつけた。
「逃げろ」
 文則は叫び、亮介は反射的に彼の言うままその場から逃げ出した。屋上の出入り口から階段を必死に駆け下りた。階段から廊下を走り、教室の前まで来てから後ろを窺がったが、誰も追いかけてくる様子がなかった。
 それからしばらくの間、亮介は教室の机の椅子に座り、事態の結果を待った。横山達が、文則を叩きのめし、意気揚々と教室に入って来ることも考えられたが、亮介はそこから動くことが出来なかった。亮介は完全に逃げ切ることを拒否した。
「お前、未だいたのか」
 文則が教室にのっそりと姿を現したので亮介は安堵し、涙が溢れそうになった。文則の制服は所々砂埃で汚れ、頭からは流血していた。亮介が、お前大丈夫か、と駆け寄ると、あいつら結構しぶとかったな、と笑い、いたたと額に手をやった。あいつらは?と亮介が訊くと、文則は、半殺しにしてやった、と言いながら考える仕草をして、続けてまあ、大丈夫だろう、と答えた。亮介は、何が大丈夫なんだと思ったが、それ以上追求するのはやめた。文則に帰えろうと声を掛けた。彼は、おう、と返し、それから亮介たち二人は帰路についたのである。


 まったくあんた達は…。
 姉は脱脂綿を消毒液に湿らせ、文則の額の傷口を覗き込むように探ると、乱暴に押し付けた。
 いたた、痛いですよ、お姉さん。文則は大げさに痛がっていたが、裏腹に目尻は明らかに下がり気味で、その状況を楽しんでいるようだった。
 ほら、じゃあ、上着も全部脱いで、ほらほら…。
 さすがに年上の女性に裸を見られるのは恥ずかしいのか文則は抵抗したが、やがて諦めた。
 文則の上半身には何箇所かの打撲痕が青く残っていた。横山達に金属バットで殴打された痕は、いかに彼が奮闘したかを物語っていた。姉は、まあ、すごい、と大げさに驚き、シップ薬を薬箱から取り出すと、その痕一つ一つに丁寧に貼り付けた。
 さっ、これでよし、服着ていいよ。
 姉は、文則の背中をピシャリと掌で打つと、薬箱を手にさっさと四畳半の部屋から出て行った。
「いい姉ちゃんだな」
 いたたと背中に手をやりながら、文則は言った。
「今日は猫被っている」
「そんなことねえだろう」
「怒るとすごいんだ。それで喧嘩の毎日さ」
「でも、仲良く喧嘩できる相手がいるってのはいいもんだ、俺は一人っ子だからな」
 文則は、遠くを見る目をしていた。亮介は彼のその目を見て、いつか見た茜色の夕陽を思い出していた。寂しげで、それでいて、どこか力強いあの夕陽、亮介はあの夕陽に感動したのだった。
「なあ」
「うん」
「聞かねえのか」
「何のことだ」
「…自殺の事とか」
 彼の突然の問いかけに亮介は驚いた。自尊心の強い彼から、そんな言葉が出てくるとは思ってもみなかったからだ。
「お前が、話したかったら、話せばいい。そうじゃなかったら、話す必要がないよ。俺に気兼ねするなんて、お前らしくない」
 亮介はそう言い、文則は、そうかと、呟き、沈黙した。沈黙の時間は長く、時間が亮介の背中に圧し掛かってくるように感じた。それからどのくらい経ったのだろうか、長い沈黙の後、彼は静かに言葉を選ぶように話し始めた。
「…あの頃、俺は精神的に参っていたんだ。両親は毎日喧嘩ばかりしていたし、俺はというと、毎日クラスの連中に、無視されていた。きっかけは、俺の身長が馬鹿でかくなっていったことにあるのかな。巨人症っていわれたよ、それまで仲良くしていた友人からな。それから、俺はそいつばかりか、それまで仲良くしていた友人全員に無視されるようになったんだが、意外とそれには耐えることができた。もともと、俺は一人でいることが苦痛ではなかったからだ。むしろ、家にいる方が苦痛だった。一番参ったのは、両親の喧嘩だな。最初は、親父の不倫からはじまったんだ。親父は不倫がお袋にばれ、お袋は、一度は親父を許した。けれど、親父の顔を見ると、彼女はどうしても許せなくなって、ほんの些細なことでも、親父を責めたてて、終いには、大喧嘩さ。それが毎日続き、その内家には俺の居場所がなくなったように感じるようになった。…・そして居場所をなくした俺は、学校でムカつき、荒れるようになったんだ。俺を無視した連中全てに、喧嘩を吹っかけ殴るようになっていたな。殴って殴って殴りまくったよ。…・或る時血に染まった相手の顔を見て、ふと俺は自分が必要のない人間に思えてきたんだ。一体何だったんだろうな、あの感情は。振り払おうと何度も相手の顔を殴ったが殴れば殴るほどそう思えてしょうがなかった。結局、そいつを殴り倒したあと、駆けつけた教師の手を振り切って、俺は教室の窓に足を掛け、一気に飛び降りたよ。三階からだったから、死んでもおかしくなかった。校舎の近くに植えられた木がクッションになって、助かったんだ。腕も足も至る所が骨折したけれど、とりあえずは生きていたんだ。病室には両親とも現われたけど、お互いに、俺がそうなったのは、お前のせいだと俺の前で、罵り合っていた。俺は、それをみて醜いと思ったよ。そして、俺はなんで生きているんだと思った。出来たらもう一度何処かから飛び降りて死んでしまいたいって思ったよ。…小学校の五年の時の話さ、もう二年近く前。なあ、亮介よお、俺は生きていてよかったのか?俺は今でも死にたくなるんだ。横山達を殴り倒したあと、何故か空しくなって屋上から飛び降りたらどうなるんだろうって思ったよ。なあ、亮介、俺はお前の何なんだろうな」
 文則の告白は衝撃的なものだった。凡その想像はしていたが、それを遥かに大きく上回る経験を文則はしていた。亮介は、激しい鼓動を感じながら、ゆっくりと、確かに言葉を選んだ。
「文則は俺の親友さ、それ以上でもそれ以下でもないよ」
「本当か」
「勿論」
 亮介が笑うと、文則は突然目を伏せ、嗚咽した。それこそ今までの不安の一切を吐き出すように。自分が一人ではないということを確認するために。

「じゃ、明日またな」
 文則は母の、一緒に夕御飯でもという申し出を、猫たちが待っているからと丁重に断り、帰っていった。
 姉は、文則が帰ったあと、亮介に向けて、あんたたちいいコンビだね、と言った。そうなのかも知れない。亮介は姉のその言葉を否定せずに、あいつは俺の初めての親友だから、と笑った。

次へと続く。



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