上田正樹 悲しい色やね ~OSAKA BAY BLUES.MP4
多分、歌の世界で大阪というものを一番印象付けた曲。
歌っている本人は京都人なのにね。(^。^)y-.。o○
Alacran — Reflejo de Luna
スペイン語?アルゼンチンの曲かな?
それはともかく、画像も曲も一種、異様な圧力を感じる。
怖いけれど、逃げられず、引き込まれてしまうといったような、蟻地獄の世界。
そんな風に思った。
じいちゃんと孫の複雑な関係
さて、おじいちゃんと孫といえば、「猫っ可愛がり」という単語が思い浮かぶ。私はね。
でも、私の父は孫である私の長男に対しては厳しかった。
というより、二人はまるで喧嘩仲間のような関係だった。
顔をあわせれば、気に入らないことをすると父は怒り、長男も負けずに応戦した。
多分、私の記憶では長男が小学校に入ったころから。
長男が父のいる一階に降り、数分もすれば「てめぇ」とか「こんガキが」なんて野蛮なことばが始終飛び交っていた。
勿論、殴り合いなんてことはなかったけど、それは父が病気で長期入院するまで続いた。
長男が高校生になる前だったか?
父が家にいなくなってからは、長男は妙に大人しくなった。
寂しいのであろうか?
でも長男は誘っても、お見舞いには5回に一回くらいの割合しかいかなかった。
行っても、病室の窓から外を見てるばかりだ。
父は父で極たまに「あいつはどうしている?」というだけで、気にしてない風を装っていた。
父が入院して4年、父はあきらかに衰弱してきて、いつ行ってもおかしくない状態になった。
すると父は私が行くたびに「あいつは勉強してるか?」と言うようになった。
長男は、その年受験に失敗して浪人生活を送っていた。
勿論必死に勉強してるし、そういう姿を見ているので「ああ」と私は答えていた。
長男が受験に失敗したのは、本人にとっていつ辿り着くか分からない山頂にあるレベルの高い大学を狙っていたから。
つまり旧帝大を標的にしていた訳だ。
ただ、何故旧帝大なのか少し不思議だった。
確かに旧帝大はレベルが高いが、実質的には東大と京大以外の旧帝大はどんぐりの背比べだし、それらより優秀で有名な大学はいくつかあった。
その年が明けて父は肺炎にかかり、ほぼ意識のない状態になる。
頼りない意識の中で父は何度か「・・・・行きたかったなぁ」と呟いていた。
何のことだか分からなかった。
でも何故かその言葉は憶えていなければいけない気がした。
長男がセンター試験を受けたあと、本試験の願書を出すころに父は息をひきとった。
それから三日間は通夜、葬式など忙しくなり、受験まであと一か月を切っていた長男も巻き込まれたが、彼は何でもない風を装っていた。
私は葬儀のあと、いろいろな手続きに追われながらも、あの「・・・・行きたかったなぁ」という言葉を考えていた。
それにしても、長男はそういった「突然の出来事」があったのにも関わらず、よく頑張ったと思う。
何でもない風を装っていたとしても、精神状態は最悪だったに違いない。
受験が終わったあと、長男はやはり抜け殻のようになった。
2月の終わりにあの精神状態のまま試験を受け、3月10日に発表だったから、その間は彼の好きにさせていた。
3月10日AM.10時
私と長男はパソコンの画面を見つめていた。
合格者の受験番号を追い、二人で受験番号を探していた。
順番を追ってゆっくり、ゆっくりと・・・。
私がそれでも数字の羅列に追いつかないでいたら、長男が突然叫んだ。
「やったー!」
「えっ?おいおい受かったのか?そうなのか?」
振り向いて、また私はパソコンの画面に目をやった。
・・・あった。
私は長男の方にまた振り向き、なにか声をかけてやろうとした。
すると長男は、尻のポケットからなにやら取り出し、呟いた。
(やったぜ、じいちゃん)
よれよれになった父の写真だった。
その瞬間、私は全てのことが繋がったような気がした。
昔、父は私によく話していた。
「・・・・戦争がなければ、帝大に行きたかったんだ」
しかし息子の私は、とうとうその願いを継ぐことはできなかった。
こいつはどこかでその話を、多分・・・。
きっとそうだ、そして約束を・・・、そしてそれが父のあの時の呟きの正体・・。
涙が出た。
とめどなくあふれ出した。
長男は座敷に移り、大の字になって寝ころぶとぴんと両手を立て、写真を眺めながらこう言っていた。
「ざまあみろ、へへ」
私は長男の目尻にもなにやら流れ出しているのを確かに見た。
「あんたは最高のじいちゃんだったよ」
長男の身体に窓から陽が差し、顔を照らしていった。
暖かい。
もうすぐ春になる日の出来事である。
多分、歌の世界で大阪というものを一番印象付けた曲。
歌っている本人は京都人なのにね。(^。^)y-.。o○
Alacran — Reflejo de Luna
スペイン語?アルゼンチンの曲かな?
それはともかく、画像も曲も一種、異様な圧力を感じる。
怖いけれど、逃げられず、引き込まれてしまうといったような、蟻地獄の世界。
そんな風に思った。
じいちゃんと孫の複雑な関係
さて、おじいちゃんと孫といえば、「猫っ可愛がり」という単語が思い浮かぶ。私はね。
でも、私の父は孫である私の長男に対しては厳しかった。
というより、二人はまるで喧嘩仲間のような関係だった。
顔をあわせれば、気に入らないことをすると父は怒り、長男も負けずに応戦した。
多分、私の記憶では長男が小学校に入ったころから。
長男が父のいる一階に降り、数分もすれば「てめぇ」とか「こんガキが」なんて野蛮なことばが始終飛び交っていた。
勿論、殴り合いなんてことはなかったけど、それは父が病気で長期入院するまで続いた。
長男が高校生になる前だったか?
父が家にいなくなってからは、長男は妙に大人しくなった。
寂しいのであろうか?
でも長男は誘っても、お見舞いには5回に一回くらいの割合しかいかなかった。
行っても、病室の窓から外を見てるばかりだ。
父は父で極たまに「あいつはどうしている?」というだけで、気にしてない風を装っていた。
父が入院して4年、父はあきらかに衰弱してきて、いつ行ってもおかしくない状態になった。
すると父は私が行くたびに「あいつは勉強してるか?」と言うようになった。
長男は、その年受験に失敗して浪人生活を送っていた。
勿論必死に勉強してるし、そういう姿を見ているので「ああ」と私は答えていた。
長男が受験に失敗したのは、本人にとっていつ辿り着くか分からない山頂にあるレベルの高い大学を狙っていたから。
つまり旧帝大を標的にしていた訳だ。
ただ、何故旧帝大なのか少し不思議だった。
確かに旧帝大はレベルが高いが、実質的には東大と京大以外の旧帝大はどんぐりの背比べだし、それらより優秀で有名な大学はいくつかあった。
その年が明けて父は肺炎にかかり、ほぼ意識のない状態になる。
頼りない意識の中で父は何度か「・・・・行きたかったなぁ」と呟いていた。
何のことだか分からなかった。
でも何故かその言葉は憶えていなければいけない気がした。
長男がセンター試験を受けたあと、本試験の願書を出すころに父は息をひきとった。
それから三日間は通夜、葬式など忙しくなり、受験まであと一か月を切っていた長男も巻き込まれたが、彼は何でもない風を装っていた。
私は葬儀のあと、いろいろな手続きに追われながらも、あの「・・・・行きたかったなぁ」という言葉を考えていた。
それにしても、長男はそういった「突然の出来事」があったのにも関わらず、よく頑張ったと思う。
何でもない風を装っていたとしても、精神状態は最悪だったに違いない。
受験が終わったあと、長男はやはり抜け殻のようになった。
2月の終わりにあの精神状態のまま試験を受け、3月10日に発表だったから、その間は彼の好きにさせていた。
3月10日AM.10時
私と長男はパソコンの画面を見つめていた。
合格者の受験番号を追い、二人で受験番号を探していた。
順番を追ってゆっくり、ゆっくりと・・・。
私がそれでも数字の羅列に追いつかないでいたら、長男が突然叫んだ。
「やったー!」
「えっ?おいおい受かったのか?そうなのか?」
振り向いて、また私はパソコンの画面に目をやった。
・・・あった。
私は長男の方にまた振り向き、なにか声をかけてやろうとした。
すると長男は、尻のポケットからなにやら取り出し、呟いた。
(やったぜ、じいちゃん)
よれよれになった父の写真だった。
その瞬間、私は全てのことが繋がったような気がした。
昔、父は私によく話していた。
「・・・・戦争がなければ、帝大に行きたかったんだ」
しかし息子の私は、とうとうその願いを継ぐことはできなかった。
こいつはどこかでその話を、多分・・・。
きっとそうだ、そして約束を・・・、そしてそれが父のあの時の呟きの正体・・。
涙が出た。
とめどなくあふれ出した。
長男は座敷に移り、大の字になって寝ころぶとぴんと両手を立て、写真を眺めながらこう言っていた。
「ざまあみろ、へへ」
私は長男の目尻にもなにやら流れ出しているのを確かに見た。
「あんたは最高のじいちゃんだったよ」
長男の身体に窓から陽が差し、顔を照らしていった。
暖かい。
もうすぐ春になる日の出来事である。