いま参議院で「臓器の移植に関連する2法律案」の審議が行われています。この問題には人間の“生と死”ということが本質にあるのでなかなかこれでよしという結論がでないと思います。衆議院で可決されたいわゆるA案が参議院で可決されるのかどうか微妙なところのようです。
難しいことなのでよくは解りませんが、先日テレビ番組でこのA案支持の(であろう)政治評論家が「臓器を提供する権利、(臓器移植を待つ患者の)臓器を提供される権利」という発言をしているのを聞いて違和感を覚えました。
臓器移植に関してですが、はたして(提供する、される)権利という概念があるのでしょうか。人間は誰しも生きる権利というものがあります。しかしこの件に関してはひとの善意の問題ではないでしょうか。他人さまの死と引き換えに命をいただくことが「権利」なのでしょうか。私にはとてもそんな考え方はできません。
この問題は私には深すぎてまだまだ勉強がたりませんが、上記のような発言が気にかかったので備忘録としてとりあえずアップします。
「臓器移植」「脳死」等、このテーマについてもう少し考えてから再度綴ってみたいと思います。いま漠然と考えるのは「科学や医学の進歩によって人類には大きな利益と幸がもたらされた。しかし一方ではそれによっていろいろな負の遺産を抱え込んでしまったのも事実ではないだろうか」ということです。
難しいことなのでよくは解りませんが、先日テレビ番組でこのA案支持の(であろう)政治評論家が「臓器を提供する権利、(臓器移植を待つ患者の)臓器を提供される権利」という発言をしているのを聞いて違和感を覚えました。
臓器移植に関してですが、はたして(提供する、される)権利という概念があるのでしょうか。人間は誰しも生きる権利というものがあります。しかしこの件に関してはひとの善意の問題ではないでしょうか。他人さまの死と引き換えに命をいただくことが「権利」なのでしょうか。私にはとてもそんな考え方はできません。
この問題は私には深すぎてまだまだ勉強がたりませんが、上記のような発言が気にかかったので備忘録としてとりあえずアップします。
「臓器移植」「脳死」等、このテーマについてもう少し考えてから再度綴ってみたいと思います。いま漠然と考えるのは「科学や医学の進歩によって人類には大きな利益と幸がもたらされた。しかし一方ではそれによっていろいろな負の遺産を抱え込んでしまったのも事実ではないだろうか」ということです。
人は科学によって利益をもたらしたが、あまりにも自己中心的でありすぎたようです。ほかの生物を犠牲にし、いつしか同胞の命までもがターゲットになってしまいました。当然に「臓器を提供する権利、臓器を提供される権利」という発想が生まれるわけです。
おっしゃるように私も、他人さまの死と引き換えに命をいただくことが「権利」なんてとても考えられませんし、臓器を提供するのが善意なのかも疑問です。
人に限らず生物には、自分と認識できないものを排除する免疫の拒絶反応があります。臓器を移植した場合は、この免疫機能を押さえ込む必要があり、処置を間違えば重篤化するので死ぬまで気が抜けないといわれます。異物と判断し続けるのだから、移植臓器はあくまで提供者のままなのでしょう。
ちなみに、肝臓を移植すると血液型が移植した型にかわってしまうことがあるし、肝臓移植を受けた人は自己に関する考えが変わってしまうといいます。例えば、鏡に映る自分が自分でないような気がするとか、一緒にいる仲間に「お前は誰だ」と言ったりするというのです。
これらの話は14年前に出版された高田明和浜松医科大学教授の書籍に載ったことです。専門家の間では常識であると思われるのに、なぜ世間に知らされないのでしょうか。これらのことが広く報道されれば、移植法も人々の認識を得て当を得たものになるはず、報道メディアは怠慢ですね。
臓器移植のこと、あれからまだ5カ月しか経っていませんがメディアで報道されることがほとんどなくなりました。たいへん重要な事柄なのでもっと議論がなされるべきだと思うのですが。
>専門家の間では常識であると思われるのに、なぜ世間に知らされないのでしょうか。
恥ずかしながら私も知らないことでした。エイボさんがおっしゃるようにもっと情報を伝えるべきですね。そのことによってより深い認識とともによりよい議論が生まれ、真理が探求されると思います。
また私たちも情報を待っているだけでなく、取りに行くことも大事だなと実感しました。