著者 恒藤恭(つねとう・きょう)1984年日本図書センター 初出1949年朝日新聞社
恒藤恭 1888(明21)-1967(昭42)
芥川龍之介1892(明25)-1927(昭2)
「新潮日本文学アルバム」の一枚の写真。高校の制服と制帽でいかにも知的な顔つきの芥川龍之介、その傍らに立つ、温厚篤実な風貌の恒藤恭なる人物は何物かと、40年ほど前に見た時から気になった。二人が親友というにはどこか不釣合いに見えたから。
恒藤恭は松江市出身、同志社大教授を経て京大法学部教授、1933年瀧川事件に抗議して辞職、戦後1949年、大阪市立大の初代総長になった法哲学者。
ふたりは第一高等学校時代、同級で寮の同室で親交を結び、卒業時の成績は恒藤1番、芥川2番であった。この本は恒藤の「友へのレクイエム」と言っていいと思う。
もともと芥川龍之介は、自分と正反対の人ほど高く評価するくせがある。バルザックとか、志賀直哉とか、谷崎潤一郎とか。そして、才能の無い人間とはそもそも友人になれないタイプだったようだ。晩年に書かれた「大導寺信輔の半生」(1925)にある。
「彼の友だちは頭脳を持たなければならなかった。頭脳を、――がっしりと出来上った頭脳を。彼はどう言う美少年よりもこう言う頭脳の持ち主を愛した。同時に又どう言う君子よりもこう言う頭脳の持ち主を憎んだ。実際彼の友情はいつも幾分か愛の中に憎悪を孕(はら)んだ情熱だった。」
高校卒業後1913年夏、芥川から恒藤に送られた手紙は、1954年まで秘された。そのわけはかれによれば
「私などの到底及び難い、すぐれた天才的な能力をもっている友人として、私は芥川に深く敬服していたものであった。それだのに、私が全く値しないような過褒のことばが繰り返し書かれて」
思うにかれは、嬉しさよりは恥かしさ、怖さが先にたったのだ。
恒藤の返事は、
「僕には値しないほど君があつく注いでくれた好意がこの2年間にどれほど積もったか。今またそれの表れに触れた時、君の示してくれたやさしいこころは、なぜかメスのように鋭くいたく感ぜられる。」「世の中がさびしい。生というものは淋しい。二人一緒にいると、大分さびしさが薄らぐような気がした。真実、君から求められるものは其れだけであったかも知れないし、またそれだけが何よりも有難かったのである」
彼を畏れさせた芥川の手紙は
「一高生活の記憶はすべて消滅しても、君と一緒にいた事を忘却することは決してないだろう」
「君は自分が君を尊敬していることは知っているだろうと思う。けれども自分が如何に君を愛しているかは知らないかもしれない」
「三年間一高にいた間に一番愛していたのは君だったと思う」
芥川も、のちには大人になろうとしてか悪ずれした?言動が見られるが、この手紙には、理知の仮面の下に、純で柔かい部分が流露している。私のお気に入りの「モーリス」にたとえれば、さしずめ、クライヴが芥川でモーリスが恒藤、といったら的外れだろうか。
恒藤が描いた、1915年夏、出雲海岸での「裸形の芥川龍之介」像、それは半パンツで水辺に膝を抱いて腰を下ろす、細長・無力型体形の若者が、理想化されず描かれ、透徹した目と、才能溢れる友への愛情を感じる。
芥川の三男也寸志(1925年生)の名は、恒藤「恭」からとったらしい。
誕生日
恒藤 1888年12月3日
芥川 1892年3月1日
関連書
「向稜記 一高時代の日記」2003年 大阪市立大学刊
「翡翠記」 2004年 山陰中央新報社
「続・私の信条」 1951年 岩波新書
→「鶴は病みき」8-5-21
※「文芸春秋」2023年2月特別号で塩野七生が書いているのを発見した。
23-2-1追記