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界隈

東京育ちの人は故郷という言葉に実感が持てない。という松尾羊一氏のコラム(毎日18‐2‐25)を読んだ。故郷より狭い「界隈(かいわい)」が、ある世代以上の人にとっては、故郷に当るのだと。

ああ、あれはそうだったのか、と思い出した。
1985年夏、フランス語の夏季講習の授業でフランスの地方出身のO先生が「東京は美しい街だと思うか?」と皆に問いかけた。私は「美しいと思う」と答えた。彼は「自分は東京は好きだけれども、東京が美しいかどうかと言うと、美しいとは思えない」と言う。「でも私の住んでいる付近は美しい」と私は言った。私は自分の住む界隈を念頭に置いており、彼は東京全体を、パリやロンドン、ローマなどと比較していたのだ。東京は無計画に広がったため「世界最大の村」と言われたりする。欧米的な都市美というものはない。

しかし時代は移り、今まで醜い後進性を意味していた、電線が蜘蛛の巣のように乱れ、何の統一もなくビルや看板が乱立している景色がかえってアジア的な独特の魅力があるといわれる時代が来た。

松尾羊一(1930~)によれば界隈とは永六輔の下谷や浅草、なぎら健壱の木挽町、愛川欽也の巣鴨、小沢昭一の蒲田など。永井荷風によると「犬や猫が垣の破れや塀の隙間を見出して自然とその種属ばかりに限られた通路を作ると同じやうに、表通りに門戸を張ることの出来ぬ平民は大道と大道との間に自ら彼等の棲息に適した路地を作ったのだ」(日和下駄」)

地方人の場合は、松江だの鹿児島だのという街全体を自分のものであるかのように(実はそうではないのに)誇ったりして都会暮らしの不如意さや心細さを補う支えにしている。

故郷喪失とは東京の人には否応なく眼前に起きることであるが、地方人には「故郷は遠きにありて思うもの」とうたいあげることで一時の逃げ場を作っているのである。
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