映画の感想など・・・基本的にネタばれです。
しづのをだまき
防空壕
6月17日撮影
6月7日撮影 上の白い壁は興雲閣。
6月7日撮影
県庁から千鳥橋を渡ってすぐ左の、この場所はだいぶ前から、土嚢が山積みで何か工事中で、歩く度に不自由さと同時にうさん臭さを感じていたが、今思えばそれも理由のないことではなかった。74年前の戦争の遺構が埋もれていたのだ。今月初めのTVニュースにあっと驚いた。以下は6月5日毎日新聞より。
天守が国宝に指定された松江城の石垣の下で、第二次世界大戦末期のものとみられる総延長約53メートルの大規模な横穴式防空壕跡が確認された。専門家は、本土空襲が本格化しつつあった大戦末期の銃後の様子を示す貴重な痕跡と指摘している。
日本軍事史に詳しい政治研究科、平塚柾緒さんは
「空襲を視野に、県幹部らの緊急避難や行政機能の臨時的な意向を想定していた可能性がある」と話している。
松江は空襲もなくのんびり戦後を迎えたとばかり思っていたが、それはいまだから言えることで、当時は国あげての戦争に巻き込まれずにはいなかった。
そもそも松江は城の天守閣の中に井戸を備えているくらい、籠城に強い土地で、人間の気風も初めから攻撃よりは防御である。九州人から見るといっそ歯がゆいほどだ。長野県の松代に地下壕が作られたことも思い合わせると、松江人が国の方針そのままに、県の行政機能をここに移そうとしたことは十分考えられる。それにしても、この壕を掘らされたのはいったい誰だろうか?壮健な男子は戦場にとられていたから、年若い中学生らではなかったか?
沖縄のひめゆり部隊の壕の跡はいま観光の目玉になっている。ベトナムもそうだ。
今後この壕をいかにするかは、県民の意識とかかわってくるのだろう。
→「千鳥橋際遭難記」10-6-9
→「暗黒日記」21-3-9
コメント ( 8 ) | Trackback ( 0 )
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私は東北の片田舎でありながら、第二次世界大戦の末期には、よく敵の飛行機が飛んで来るので防空壕に身を潜めたものですから、防空壕という言葉は体験上のものです。
私の身を守った防空壕はどうなった・・・?
早速の反応有難うございます。おキヨ様はたしか私の長姉(5歳ちがいで終戦時は1年生)と同じ年齢だと思います。わずかな差ですが、戦争体験という意味では全く別世界の住人だったようですね。私は終戦時に生後8か月で、防空壕には、抱かれて運ばれたそうで、視覚的には記憶がありません。が飛行機の音に小学生位まではいつも恐怖を覚えていました。どこかで憶えていたのか?
>私の身を守った防空壕はどうなった・・・?
戦後しばらくは鹿児島でもあちこちに残っていましたがその後埋められりしたのでしょうね。
こちらも素早いコメントありがとうございます。大阪の終戦前日の空襲、田辺聖子の小説などにも触れていますが、すさまじいものだったようですね。kawamotoさんはそういう経験をされたんですね。
ところで終戦時に2年生というと、兄もです。兄と姉は国民学校の1・2年生で1里の道を防空頭巾をかぶり歩いて通い、米機が来ると田や畑に避けたと、楽しい思い出のように語っていたのは、結局命に関わることにはならなかったからでしょうね。
しかし「戦争をしなけりゃ」となどいう飲酒議員の暴言には、次世代を育てるむつかしさを感じますね。
わずか1行半ですが、日頃はこういうことを口にされないkawamotoさんだけに、目の前に地獄図が見える様です。
ちょうど今日は沖縄守備隊全滅の日。ひめゆりの語り部たちも90歳を超えてしまい後継者の必要があるとの記事を毎日で読み、13年前に行った沖縄を思い出します。
おぶわれて逃げ惑ったという記憶がどこかに残っているのでしょうね。1949年の、幼稚園の初日に道路で撮った写真を見ると、背景には汚れた白壁の土蔵だけがポツンと映ってほかの建物がありません。5年もたつのにまだ焼け跡の始末ができていないのです。貧しさやひもじさの記憶は、私までで、4歳下の弟はほとんど覚えていないようです。