映画の感想など・・・基本的にネタばれです。
しづのをだまき
「けすいぼ」(方言)
「けすい」は茶化す、侮る
「けすっ」は茶化す、いたずらすると言う意味の動詞で、原形「けする」のこの地特有の音便である。
「けすいぼ」は「ひょうきん者、いたずら者、生意気な奴、腕白もの」と言うことになる。
私がそう言われたのは中学3年の担任のK先生にだ。
国語の教科書にガルシンの「信号」が出ていた。(著者は19世紀のロシア貴族で、33歳で自殺)
【ものがたり】
ワシーリーとセミョーンは鉄道の保線夫。ワシーリーは不信心な若者、セミョーンは信心家の老人で、温厚で勤勉。ワシーリーは給料の低さなどこの世のすべてに不満を抱き、訴訟沙汰を起こしては窮乏し、ついに列車転覆を図る。セミョーンは、いつもワシーリーを諭したりなだめたりしていたが、すぐ目の前に迫った列車を止めようと、腕をナイフで刺して血染めのハンカチを振り、大事故を防ぐ。ワシーリーは自首する。
さて、みんなは、この2人のうちのどちらが好きかと、K先生がきいた。
同級生50数名の、ほぼ全員が自己犠牲のセミョーンを選び
私と数人の出来の良い男子が、利己主義のワシーリーを選んだ。
ときは六十年安保闘争の前年だと言うところがミソだ。
つまりワシーリーが世の中の共感を呼んでいた。
わたしはもともと天邪鬼でもあり、深く考えるまでもなく、ほとんど反射的に選んだらしい。
いま調べたら、その前の1958年に全国の小中学校で週1時間の道徳の時間が設けられている。
先生はこんな形で道徳教育をする気だったのかも知れない。もう一捻りしないと、あまりに見え見えだ。
K先生にとっては私は自分の意図の裏をかく、小面憎い存在だったのではないか。
今なら、2手に分かれて討論する、ディベートの良いテーマになる。もしK先生がそれをやったら、時代を先取りした授業だったかもしれない。しかし当時は、正解はただ一つ、全員が同じ意見で「ガッテン、ガッテン、ガッテン!」(今もNHKでやっているが)することが教育と言うものだったようだ。先生は、不意に現れた反抗児にその時は何も言わなかった。
後日、別の教室でK先生が「OOとかXXとかのケスイボが」とか「ケスった連中が」と言ったと聞いた。私には意味の解らない「ケスイボ」「ケスった」は音のひびきが異様で、多分悪い意味だろうと思い、50年余りそう思っていた。第一、自分の生徒のことをよそでそう言うのもどうかと思う。しかしきょう調べてみたら、別に全否定ではなく、肯定的な意味合もあるようだ。ケスイボ、ケスイバッチョ(強烈な響き)とすすんで自称する鹿児島人も男女を問わずいるし、東郷平八郎が「ケスイボ」と言われたという新情報も。遅ればせながら私も名乗り出ることにした。またK先生にも「その節はご面倒をおかけしました」とあいさつしたい。先生、ご健在だろうか?
→「同窓会」15-9-18
→「トルストイも空気も読まなかったころ」12-2-22
→「堀市郎とその父」12-5-6
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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今は、マルティン・ルターの「平和はいかなる正義にも勝る」という言葉を愛する温厚なおやじですが(笑)
コメントありがとうございます。同じ教科書で、同じ経験をした方が現れるとは!!
60年と70年の安保のころ、中学生も世の中の空気に敏感だったんですね。優秀な生徒であればあるほど。
私自身もいまさら「自粛する」余地もないほど、おとなしいフレイル老年になっていますけれど。
同窓会で旧知にあったように嬉しく拝見しました。